第117話 おじさん、ただいま
角を曲がる前から、次に何が見えるか分かった。
石を積んだ低い塀。その先の、枝の張り出した木。
ミナは袋を背負い直し、セリカと並んで歩いた。
コルナの道は、覚えていたより狭く感じられた。
「あら……ミナちゃん?」
戸口を掃いていた女性が、箒を止めた。
隣の店の奥さんだった。
「こんにちは。戻ってきました」
頭を下げると、女性は箒を壁へ立てかけた。
「まあ、大きくなって。お姉さんも一緒なのね」
「ご無沙汰しています」
セリカが挨拶をした。
近くの窓からも顔が出て、どこへ行っていたのか、元気だったのかと声をかけられる。
ミナは、エルディアで採取の仕事をしていたことを話した。
食堂でも料理を作っていたと付け加えると、女性が目を丸くした。
「あんな遠くまで。おじさんに聞かせてあげなきゃね」
「はい。これから、お墓へ」
「それなら、店はその後だね。時々、風を通してあるよ」
ミナは顔を上げた。
「掃除も、手が空いた人が少しずつ。あそこのご飯には、みんな世話になったから」
女性は、道の先を指した。
「道具の置き場所は、そのままにしてあるよ。勝手に動かすのも悪いと思ってね」
「……ありがとうございます」
ミナは、もう一度頭を下げた。
出発するとき、できる範囲で掃除をした。
けれど、あれから何度も季節が変わっていた。
閉じたままの窓や、埃の積もった床を想像していた。
その場所を、見ていてくれた人がいた。
*
宿へ荷物を預け、水と布と花を持って墓地へ向かった。
水晶は袋にしまったままだった。
今日は、姉と二人で話したかった。
墓石の前へしゃがむ。
小さな草を抜き、布を濡らして表面を拭いた。
セリカは周りに落ちていた葉を拾い、持ってきた花を分けた。
刻まれた名前が、濡れて少し濃くなった。
「おじさん、ただいま」
ミナは手を膝へ置いた。
考えていた挨拶は、ほかにもあった。
でも、最初に出たのはそれだった。
「遅くなって、ごめんね。……今日は、お姉ちゃんも一緒だよ」
隣でセリカが膝を折った。
「私も。なかなか来られなくて、ごめんなさい」
風で、花の端が揺れた。
ミナは倒れないように少し寄せた。
「採取人になったの。見習いも終わって、依頼を受けられるようになったよ」
葉を傷めずに持ち帰るために、包み方を変えたこと。
書いた記録を、ほかの人が使ってくれたこと。
話していると、次に伝えたいことが浮かんだ。
「外国にも行ったよ。お店で使っていた食材が売ってて……思ってたより高くて、びっくりした」
少し笑ってから、息を吸った。
「それから、食堂で料理を作ったの。私だけのお店じゃないけど、私が作る日があって」
サハルの台所が浮かんだ。
料理を待つ器と、注文を知らせる声。
「お金も、いただいたよ」
言った途端、喉の奥が詰まった。
ミナは唇を閉じ、次の息を待った。
「……また食べたいって、言ってもらえた」
横から、セリカの手が背へ触れた。
ミナは目元を拭いた。
「教えてくれたこと、いっぱい使ったよ。まだ、分からないこともいっぱいあるけど」
返事はなかった。
それでも、ここまで話せてよかったと思った。
*
しばらくして、セリカが口を開いた。
「ミナ。私も、ここで話しておきたいことがあるんだ」
いつもより、声が静かだった。
ミナは姉を見た。
「私の仕事のこと。強い冒険者だっていう話だけじゃ、足りないこと」
セリカは一度墓石を見てから、視線を戻した。
「私、冠位なんだ。武冠を預かってる」
ミナは、すぐには頷けなかった。
「……冠位?」
「うん。グレンたちと同じ、国王に認められた立場」
風が服の裾を動かした。
ミナは姉の顔を見たまま、聞いた言葉をもう一度考えた。
「武冠って……お姉ちゃんが?」
「そう」
昨日、ほつれた袖を直してあげた人が、目の前にいた。
買い物の袋を持ちたがって、断ると少し残念そうにしていた。
その姉が、冠位だった。
「グレンさんも、知ってたの?」
「うん。私が妹のことを話していた相手もいるし、後から知った人もいる」
ミナは手元へ目を落とした。
「どうして、教えてくれなかったの?」
セリカは、すぐには答えなかった。
「最初は、心配をかけたくなかった。危険な仕事を任されることもあるから。ミナには、ちゃんと稼いで帰ってくるって、それだけ伝えたかったんだ」
「……知らなくても、心配はしてたよ」
「うん。そうだよね」
セリカが頷いた。
「話さないでいるうちに、言う機会を逃した。ミナが自分で仕事を始めてからは、私の名前が邪魔になったら嫌だとも思った。でも、それは、黙っていていい理由にはならなかったね」
姉の指先が、膝の上で重なった。
「ごめん。ミナに、聞くかどうかも選ばせなかった」
ミナは顔を上げた。
セリカは困ったように笑いかけて、途中でやめた。
「おじさんは、知ってたんだね」
「うん。知ってた」
ミナは墓石へ目を向けた。
エドガーが刻冠だったと知ったときにも、知らなかった顔があるのだと思った。
姉にも、それがあった。
「私だけ、知らなかったんだ」
「……うん」
寂しかった。
でも、姉が遠くへ行ってしまったわけではなかった。
目の前で、返事を待っていた。
「今度から、話せることは話してね。心配するかどうかは、聞いてから決めるから」
「分かった」
「危ないことしてるなら、してるって。手紙、短くてもいいから」
「うん。約束する」
ミナは少し息を吐いた。
「私も、手紙に書いてなかったこと、あると思う。だから、お姉ちゃんも聞いて」
セリカが頷いた。
今度は、少しだけ笑った。
「聞きたいこと、たくさんあるよ」
「私も。……冠位でも、服のほつれは自分で直してね」
「そこは、変わらないんだ」
「変わらないよ」
二人で、小さく笑った。
セリカの手が伸びてきたので、ミナは握った。
いつもの、温かい手だった。
*
食堂の扉を開けると、乾いた木の匂いがした。
床には、厚い埃は積もっていなかった。
椅子は揃えられ、台所の道具には布が掛けてある。
窓を開けると、午後の光が卓の上へ伸びた。
「きれいにしてくれてたんだね」
セリカが言った。
ミナは頷いた。
さっき隣の店で、改めてお礼を伝えた。
返ってきたのは、昔、忙しい日に夕飯を食べさせてもらった話だった。
別の人は、食堂で雨宿りをしたことを覚えていた。
ミナが知らなかったおじさんの話は、町にも残っていた。
「少し、掃除してもいい?」
「もちろん。どこからやる?」
セリカが袖をまくった。
ミナは布を二枚出した。
卓を拭き、窓の溝の細かな埃を取る。
椅子を動かすと、脚が床を擦る音まで覚えていた。
台所へ入り、作業台に掛かっていた布を外した。
端に、小さな傷があった。
包丁を使う練習をしていて、まな板の外へ刃を出してしまった跡だった。
ミナはそこを指でなぞり、それから拭いた。
「お姉ちゃん、そっちは終わった?」
「もう少し。椅子の下、糸が絡んでる」
ミナは頷き、棚へ向き直った。
下の段から順に布を滑らせる。
空いた器を移し、元の場所へ戻した。
上の棚へ手を伸ばしたとき、指先が奥まで届いた。
「……あ」
以前は、ここを拭くのが苦手だった。
旅に出る前にも椅子を寄せて掃除したが、棚の上の奥まではうまく手が入らなかった。
今日は床に立ったまま、縁の向こうへ布を動かせた。
少し背伸びをする。
布が、木とは違うものに触れた。
「何か、ある」
指先に、四角い角が当たった。
ミナは無理に引かず、椅子を持ってきた。
セリカがそばへ寄り、椅子の背へ手を添えた。
棚の上には、平たい木箱があった。
奥へ寄せられ、上面には薄く埃が積もっている。
手前へ動かすと、横に書かれた字が見えた。
『ミナへ』
ミナの手が止まった。
「おじさんの字だ」
セリカが何も言わず、箱を受け取ってくれた。
二人で作業台へ置き、外側の埃を拭いた。
*
蓋は、簡単な留め具で閉じられていた。
ミナが外すと、乾いた小さな音がした。
中には布が敷かれ、その上へ木の板が収められていた。
持ち上げる。
角が丸く削られ、縁に細い飾りが彫ってある。
下の方には、小さな鍋の彫刻があった。
「看板……?」
上には、吊るすための金具が二つ。
けれど、真ん中には何も書かれていなかった。
裏返すと、短い文字があった。
『店の名前は、自分で決めろ』
ミナは、そこを何度も読んだ。
「お姉ちゃん、これ……知ってた?」
「ううん。知らなかった」
箱の底には、もう一つ、布で包まれたものがあった。
ミナは看板を置き、結び目をほどいた。
木の鞘が現れた。
柄を見ただけで、何か分かった。
包丁だった。
いつもの一本より大きく、柄にも長さがあった。
ミナは周りを確かめてから、ゆっくり鞘を抜いた。
窓の光が、刃の上を滑った。
刃の根元から背にかけて、細かな刻印が続いていた。
見慣れた包丁にも、印はある。
けれど、こちらは線が幾重にも重なり、光の向きを変えると、また別の線が見えた。
ミナには、何を表しているのか分からなかった。
今は刻印よりも、手の中の重さが気になった。
「……まだ、少し大きい」
握り直す。
刃を振らず、柄の収まるところを探した。
手首を支えると、刃先は静かに止まった。
「でも、持てる」
セリカは、包丁とミナの手を見ていた。
「私が、大きくなってから使うものだったのかな」
「そうかもしれないね」
箱には、手紙も説明書も入っていなかった。
いつ渡すつもりだったのか。
どこまで出来上がっていたのか。
もう、尋ねることはできなかった。
ミナは刃を収め、布の上へ置いた。
隣へ、今使っている包丁を鞘ごと並べた。
何度も握ってきた柄は、手に馴染むところだけ、少し色が変わっていた。
「こっちも、まだ使うよ」
誰に言うでもなく、声が出た。
小さな一本を袋へ戻してから、看板を手に取った。
店の名前を書くところは、広く空いていた。
「まだ、決まってないよ。名前」
声が震えた。
ミナは看板を抱え込まず、台の上へ丁寧に戻した。
濡らしたらいけないと思った。
「お店をやりたいって……言ったの、覚えてたんだ」
セリカが隣へ立った。
肩に触れた手は、そのまま動かなかった。
ミナは袖で目を拭いた。
窓の外から、誰かが隣の店へ挨拶する声が聞こえた。
いつもの昼間の音だった。
「……もう少し、掃除しよう」
「うん」
箱へ布を掛け、台の乾いたところへ寄せた。
ミナは洗い直した布を絞った。
おじさんが立っていた場所を、きれいにしてから帰ろう。
この箱を、今度は自分で持って。
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