第116話 お姉ちゃんと帰ります
「このくらいなら、潰れますか?」
ラグが小皿へ豆を一つ取った。
匙の背で押すと、皮が割れ、中身がほろりと崩れる。
「はい。もう大丈夫です」
ミナは頷き、水晶の向きを少し直した。
鍋と、ラグの右手が映る。台所を使う時間も、配信することも、先に了承をもらっていた。
「昨日のうちに、水に浸けておいていただいた豆です。今日は、これを煮込みに入れます」
「乾いたまま入れなくて正解でしたね」
「肉や玉ねぎと、一緒には煮上がらないので」
ラグは小さく頷いた。
湯を切る作業は、ミナが引き受けた。鍋の中身を全部持ち上げず、穴の開いた匙で必要な分だけ器へ移す。
その間に、ラグが隣の鍋を確かめる。
文字板に、見覚えのある名前が出た。
〈もふもふ:いつも見ています。でも今日は、黙っていられません〉
「もふもふさん、こんにちは」
〈もふもふ:ラグさんがお料理してる……エプロンまで……!〉
ミナは顔を上げた。
ラグは、前掛けの胸元を一度見下ろした。
「最近、いろいろ作っていらっしゃるんです。昨日も煮込みをいただいて。玉ねぎが甘くて、おいしかったです」
〈もふもふ:そのお手で丁寧に豆を……〉
「……豆、ですか?」
ラグが器を持ち、煮込みの鍋へ豆を加えた。
縁に残った一粒も、匙で落とす。
「本日は、毛並みよりも煮え具合をご覧いただければ幸いです」
〈もふもふ:両方見ています!〉
返事は早かった。
ミナはようやく意味に気づき、少し笑った。
「毛が入らないように、身支度もしていただいています」
「そこは、厳しくご指導いただきました」
「厳しくは、していません」
ラグは楽しそうに鍋を混ぜた。
豆が柔らかくなっているので、底からそっと返す。力を入れすぎると潰れると伝えると、次の一回は、さらにゆっくりになった。
〈木の匙:料理する人の横に、教えてくれる人がいるのはいいね〉
「私も、教わったことばかりです」
ミナは答えた。
火を弱めたラグが、鍋の横へ置いた帳面を開く。
指先に水気がないことを確かめてから、短く書き足した。
〈もふもふ:真剣なお顔もいい……〉
今度は、ミナにも分かった。
*
煮込みを器へよそうと、豆の間から肉と玉ねぎが顔を出した。
ミナは一口食べた。
豆の中心まで柔らかく、汁と一緒に口の中でほどける。
昨日より肉の割合は少ないのに、物足りなくはなかった。
「おいしいです。豆にも、味がついています」
「では、今回の分も記録しておきましょう」
ラグは自分でも確かめた。
その目が、器から鍋へ戻る。
「明日まで置くと、また変わりますか?」
「ちゃんと冷まして保存すれば。少し汁を足した方がいいかもしれません」
すぐに筆が動いた。
ミナは、匙を持ったまま笑った。
「楽しそうですね」
「ええ。毎回、前の食事と比べられますので」
配信には、味付けについての質問も届いた。
使った塩の量と豆の種類を答え、余った豆は別の料理にも回せると話す。
ラグは、その説明にも耳を傾けていた。
食事が終わる前に、ミナは水晶へ顔を向けた。
「もうすぐ、姉とコルナへ行きます。育った町です。しばらくは、配信できない日もあると思います」
〈木の匙:いってらっしゃい。お姉さんとゆっくりね〉
〈もふもふ:道中お気をつけて。ラグさんのお料理も、また見たいです〉
「ありがとうございます」
ラグも軽く頭を下げた。
「次の機会までに、献立を増やしておきます」
ミナは次に食べられる料理を想像しながら、配信を終えた。
*
セリカが着いたのは、その翌日の午後だった。
下宿の入口から声がして、ミナは階段を下りた。
扉のそばに、旅の袋を肩へ掛けた姉が立っていた。
「ミナ」
「お姉ちゃん、おかえ――」
最後まで言う前に、抱きしめられた。
外の風と、少しだけ革の匂いがした。
「ただいま。……で、いいのかな」
「うん」
ミナは姉の背へ手を回した。
セリカはしばらく離さなかった。
ようやく腕が緩むと、顔を覗き込まれた。
「ちゃんと食べてた?」
「食べてたよ。昨日も、ラグさんが作ってくれて」
「ラグが?」
「うん。豆とお肉の煮込み」
セリカは驚いた顔をして、それから笑った。
「それは、私も食べてみたいな」
ミナをもう一度、上から下まで見る。
袖から出ている左腕に視線が止まったので、ミナは手を開いた。
「もう、痛くないよ。荷物も持てるし」
「うん。……うん、よかった」
セリカはその手を取ってから、そっと放した。
*
姉が取った宿へ荷物を置きに行き、その帰りに、道中の買い物を済ませた。
ミナが紙を開いて、必要なものを確かめる。
セリカは隣から覗き込んだ。
「もう、こんなに調べてあるんだ」
「途中の宿と、乗せてもらえる荷車も。ギルドで聞いたの」
コルナまでは、順調に進んでも四、五日はかかる。
全部を歩くつもりにはせず、街道を行く荷車の空きと、宿を取れる町を確かめてあった。
セリカは予定を読み、途中の道について二つほど尋ねた。
「うん。これなら、慌てなくていいね」
買った品を包み終えると、姉が手を伸ばしてきた。
「持つよ」
「お姉ちゃん、自分で持てるよ」
「知ってる。持ちたいだけ」
ミナは少し考え、小さい方の包みを渡した。
セリカはそれを受け取り、もう一つにも目を向ける。
「こっちは私」
「……はい」
二人で並んで歩いた。
セリカの袖口から、糸が一本出ていた。
「そこ、ほつれてる」
「あ、本当だ。あとで直す」
「ずっとそう言ってない?」
「これは、まだ二回目くらい」
ミナが見ると、姉は目をそらした。
夕飯の前に、縫っておくことになった。
*
出発の日、ラグは門の近くまで来てくれた。
「道中のお供に。途中で召し上がってください」
差し出された包みには、店で買ったパンと、別に包んだ硬いチーズが入っていた。
「手料理じゃないんだ?」
セリカが言うと、ラグは頷いた。
「持ち歩くものは、まだ店の品の方が確かだからな」
「この前の煮込み、おいしかったよ」
「それはよかった。次も食べてもらえるよう、練習しておこう」
姉の荷物へ目を向けてから、ラグはミナを見た。
「次にお会いするときは、また違う一皿を」
「楽しみにしています。お仕事も、お気をつけて」
「ありがとうございます」
ラグの腰には、あの長い剣があった。
昨日は一緒に台所へ立っていた右手が、今は袋の紐を確かめている。
こちらにも、続けている仕事と練習がある。
荷車の御者に声をかけられ、ミナは乗り込んだ。
セリカが続き、荷物を邪魔にならない場所へ寄せる。
「いってきます」
「いってらっしゃいませ」
ラグが頭を下げた。
車輪が動き、門が少しずつ後ろへ流れた。
*
街道の景色は、覚えていたものと違う色をしていた。
コルナを離れたときには、道の先ばかり見ていた。
今は畑の区切りや、草の生える斜面にも目が向く。
同じ薬草でも、サハルで見たものより葉が小さい気がした。
けれど、荷車から眺めただけでは確かめられない。
「何かあった?」
「採ったことのある草に似てた。でも、ここではどう使うんだろうと思って」
セリカが隣へ顔を寄せた。
ミナは、エルディアでは薬として買い取ってもらった草が、別の場所では香りづけにも使われていた話をした。
「味は?」
「少し苦かった。たくさん入れると、ほかの味が分からなくなるの」
「ミナ、入れすぎたんだ」
「……ちょっとだけ」
姉が笑った。
ミナも笑い、うまくいかなかった料理の話を続けた。
食堂で初めて大勢の分を用意したこと。
働く時間を相談しながら、別の人と同じ台所を使ったこと。
いつものお客さんが、注文する前から空いた席へ座るようになったこと。
セリカは、ときどき質問をした。
ミナが言葉を探す間も、隣で待っていた。
宿に着くたび、荷物を下ろし、次の日の道を確かめた。
歩く区間では、姉に遅れずついていけた。
それでも夕方には足が重くなり、二人で早く寝る日もあった。
旅を続けるうちに、地名に聞き覚えが増えた。
明日にはコルナへ入れるという夜、宿の夕飯に、玉ねぎの入った煮込みが出た。
*
匙の上で、玉ねぎが崩れた。
その柔らかさを見て、ミナは昔の食堂を思い出した。
椅子に腰掛けても、まだ足が床へ届かなかったころだった。
最後のお客さんが帰り、扉が閉まっていた。
台所では、明日の仕込みをする水の音がしていた。
「できたぞ」
エドガーが器を置いた。
肉は少ししか入っていなかったが、玉ねぎと芋がたっぷりあった。
ミナは両手で匙を握った。
「熱いぞ」
「分かってる」
吹いてから口へ運んだつもりだった。
けれど芋の真ん中は熱く、ミナはすぐに口を開けた。
「……ほらな」
水の杯が近くへ置かれた。
エドガーは笑いながら、自分の椅子を引いた。
「外だけ冷ましても、芋の中までは冷めないんだよ」
「じゃあ、切ってくれればいいのに」
「匙で割れるだろう。やってみろ」
ミナは器の中で芋を半分にした。
白い湯気が出て、今度は少し長く待った。
おじさんは食べるのが早かった。
ミナが半分ほど食べたころには、もう器を空にしていた。
それでも、すぐには立たなかった。
残してあったパンで鍋底をぬぐい、柔らかい玉ねぎを載せる。
「いるか」
「いる」
「熱くないか、確かめろよ」
差し出されたパンを、小さくかじった。
玉ねぎは甘く、鍋の汁が染みていた。
「ここ、おいしい」
「そこがうまいんだ」
エドガーは、同じようにもう一切れ作った。
自分の分だと思ったら、それもミナの器の縁へ置いた。
ただ、それだけの夕飯だった。
何を話した日だったのかは、もう覚えていない。
*
「ミナ?」
顔を上げると、セリカがこちらを見ていた。
ミナは匙の上の玉ねぎを食べた。
似ているけれど、少し違う味がした。
「おじさんと、こういうのを食べたなって」
「うん」
「お店が終わってから。鍋の底のところ、パンにつけてくれたの」
セリカは、籠に残っていたパンをミナの近くへ寄せた。
ミナは一切れ取った。
「……私がお店で料理を出したって聞いたら、何て言うかな」
姉はすぐには答えなかった。
ミナも、答えを急がなかった。
「お客さんには、熱いって言ったよ。ちゃんと」
セリカの口元が、少し緩んだ。
「うん。それも話してあげよう」
ミナは頷いた。
パンで器の底に残った汁をすくい、最後まで食べた。
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