第113話 持ち帰った料理
市場の魚屋の前で、ミナは籠を持ったまま考えていた。
台に並んでいるのは、見覚えのある川魚だった。
知らない魚ではない。
ただ、サハルで使っていたものとは、身の厚さも、脂のつき方も違う。
「昨日言ってた料理には、使えない?」
マルタが隣から尋ねた。
「使えると思う。でも、同じように煮ると、崩れやすいかもしれない」
今日は、白身魚と豆の酸味煮を作るつもりだった。
サハルの食堂で、最後の担当日にも出した料理だ。
持ち帰った香辛料はある。豆も買えた。
けれど、魚と、酸味をつける果実は、同じものが揃わなかった。
「こちらは、今朝入ったものですね」
ラグが台の端を見た。
「昨日、店主が話していました。大きいものは、朝のうちに宿へ卸すそうですが」
「ああ。そっちなら、まだ残ってるぞ」
魚屋が頷いた。
ミナは一匹を示し、身の具合を確かめてもよいか尋ねた。
「煮るなら、長く火にかけない方がいい。身離れがいいからな」
「ありがとうございます。こちらをお願いします」
包んでもらう間、ラグへ顔を向けた。
「よく買いに来られるんですか」
「最近は。扱いやすいように切っていただけるので、助かっています」
ラグが右手で受け取った包みを、籠へ収める。
ミナが知らない間にも、この町でラグが使う店は増えていたのだった。
*
酸味のある果実の名前を出すと、乾物屋の店主は首を振った。
「その実は、今日はないね。入ることはあるけど、いつも置くほど出ないから」
「そうですか」
ミナは棚を見た。
近くに、料理用の酢が並んでいる。
「これで、少しずつ味をつけてみます」
「同じ味になるのか?」
キリルが尋ねた。
「まったく同じには、ならないと思います。果実には、酸っぱさ以外の味や香りもあったので」
「じゃあ、やめる?」
ミナは考えてから、首を振った。
「作ってみたいです。魚も違うので、こちらの材料に合うようにできたら」
小さな瓶を買った。
籠には、まだ少し余裕があったが、買い足すのはやめた。
まずは、この材料で一度作ってみたかった。
マルタが籠を持ち上げた。
「これ、私が持つね」
「ありがとう」
ミナよりずっと高い位置で、丸い耳が揺れた。
籠を持っても、マルタの足取りは変わらなかった。
*
下宿の台所は、昼の支度まで借りられることになっていた。
ミナは使ってよい道具を確かめ、窓を少し開けた。
見慣れた台の前に立つ。
サハルの食堂より狭いが、どこへ手を伸ばせば何があるかは、少しずつ思い出せた。
「何をしたらいい?」
マルタが袖をまくった。
「まず、手を洗ってから、お水をお願いしてもいい? この鍋の、ここまで」
量を示してから、キリルを見る。
「キリルさんは、火を見ていただけますか。魚を入れる前に、弱くしたいんです」
「分かった。先に薪を寄せるのか?」
「はい。その後、まだ強かったら教えてください」
ラグには、使う器と匙を並べてもらった。
洗って乾いているものを、卓へ移す。
誰かが通るたびに避けなくてよいよう、ミナは先に荷物を壁際へ寄せた。
豆は、昨夜から水に浸けておいた。
新しい水で煮始め、魚の包みを開く。
包丁を入れると、身の下に刃が滑った。
骨を確かめ、煮崩れないよう、少し大きめに切り分ける。
「その包丁、相変わらずだな」
キリルが火床の前で言った。
「はい。お手入れは続けています」
ミナは使い終えた刃を拭き、安全な場所へ置いた。
今日は、魚を切るために使った。
それが当たり前のこととしてできるのが、嬉しかった。
*
豆が柔らかくなったところで、香辛料を加えた煮汁を整えた。
魚を並べる前に、ミナは火床を覗いた。
「もう少し、弱くできますか」
「これくらい?」
キリルが手をかざした。
薪を寄せて小さくした火が、さらに落ち着いた。
鍋の縁で、大きく続いていた泡が小さくなる。
「はい。それでお願いします」
魚を入れ、煮汁を上からかける。
キリルはミナの手元を見ながら、必要なときだけ火の勢いを抑えた。
強くしたり弱くしたりするたびに、大きく揺れることがなかった。
「前より、ずっと細かく変えられるんですね」
「……俺だって練習してたんだよ」
キリルは鍋を見たまま答えた。
「弱くすればいいってもんでもないし。消したくないのに消えたり、変えたつもりで全然変わってなかったり」
「それも、分かるようになったんですか」
「前よりはな」
少しだけ、声が弾んだ。
「風も、広く吹かせるだけならできるけど、欲しいところにだけ通すのは難しい。枝の間とか、草の下とか」
ミナは、採取地の低い草を思い浮かべた。
見えないところを確かめるときにも、使い方はいろいろありそうだった。
ただ、今は鍋だった。
「蓋を取りますね」
「ああ」
湯気が上がり、魚の色が変わっていた。
ミナは酢を少しだけ加え、煮汁を取り分けて味を見た。
思っていたより、酸っぱさが前へ出た。
それ以上足すのをやめ、豆を一緒に口へ入れる。
「……これで、少し置いてみます」
火を止め、蓋を戻した。
キリルも手を下ろし、息を吐いた。
「鍋見てるだけでも、気を使うな」
「ありがとうございました。ずっと同じ強さでいてくれたので、助かりました」
そう伝えると、キリルは照れたように、薪を扱う棒を置き直した。
*
「私も、細かくするの、練習してる」
マルタが卓の前で言った。
パンを分け終えた手を、軽く開く。
「治癒魔法?」
「うん。教えてもらってる人に見てもらいながら。魔力をたくさん通せば、その分よくなるわけじゃないんだって」
ミナは向かいへ座った。
ラグが鍋を見て、熱いものを置く台を中央へ寄せた。
「傷を見る前に、治そうとしちゃうことがあるの。どこが痛いか聞いて、動かせるか確かめて。それからって言われる」
「急いでいると、難しそうですね」
「そう。早く楽にしてあげたいって思うと、手が先に出る」
マルタは、自分の掌へ目を落とした。
「小さな傷で練習させてもらってるけど、同じくらいに見えても、同じようにはいかないんだよね。まだ、先生に代わってもらうこともある」
ミナは頷いた。
教わった通りにすることと、目の前の状態に合わせること。
自分にも、思い当たることがあった。
「でも、前より落ち着いてできた日もあったよ」
マルタが顔を上げた。
「その人に、痛くなくなったって言ってもらえて。嬉しかった」
「うん。それは、嬉しいね」
ミナも笑った。
マルタの手は、さっきまで水の入った鍋を運んでいた。
その手でできることが、また一つ増えている。
*
魚を崩さないよう、器へ盛った。
豆と煮汁を添え、香草を散らす。
「いただきます」
四人で匙を持つ。
マルタが一口食べ、耳を少し動かした。
「酸っぱい。でも、豆と食べると柔らかい味になるね」
「魚も、固くなってないな」
キリルが言った。
ミナは自分の分を食べてから、ゆっくり頷いた。
「向こうと、同じにできましたか」
ラグに聞かれ、少し考えた。
「少し違います。魚の味も、酸っぱさも。でも、これもおいしいと思います」
「ええ。私も、そう思います」
ラグがもう一匙すくった。
手元の器は、滑らないよう布の上に置いてある。
ミナは、昨日の食事を用意してくれた手を見た。
「ラグさんは、剣の練習をされているんですよね」
「はい。片腕で、攻めることと守ることを両方できる扱い方を、まだ探しています」
ラグは匙を置いた。
「斬った後で、戻すのが遅ければ隙ができます。剣で受けることばかり考えても、次の動きが止まる。なかなか、都合よくはいきません」
「手元の、厚いところを使うんですか」
「使います。ただ、何でもそこへ受ければよいわけではありません。受ける角度と、足を置く場所も変えています」
卓の下で、ラグの片足が少し動いた。
説明しながら、思い描いているようだった。
「もう片方の腕があれば、と考える癖も残っていました。今ある手で、次へつながる動きを覚え直しているところです」
ミナは黙って聞いた。
ラグなら、初めから何でもできるように感じたことがあった。
けれど、ラグも自分の体を確かめ、うまくいかない動きを直していた。
「見てみたいです」
言うと、ラグは穏やかに笑った。
「まだ、格好よく決まるものばかりではありませんよ」
「私もです」
ミナが答えると、マルタも頷いた。
キリルは少し迷ってから、同じように頷いた。
*
食器を洗い終え、借りた台所を片づけた。
ミナは持ち帰った香辛料を袋へ戻し、それから三人を見た。
「皆さんと、一度一緒に採取へ行ってみたいです」
「四人で?」
マルタが尋ねた。
「うん。日帰りで、無理のないところに」
それぞれと一緒に歩いたことはある。
けれど、今の四人で依頼を受けたことはなかった。
「私は構いません。予定を確かめてみましょう」
ラグが答えた。
「俺も。何を採るんだ?」
「依頼板を見てから決めたいです。今の採取地の様子も、聞きたいので」
九か月以上、離れていた。
知っている道だからといって、何も変わっていないとは限らなかった。
*
午後、ギルドで四人の予定を合わせた。
選んだのは、町から日帰りできる区画の薬草だった。
必要な分を採り、葉を潰さずに納品する。
採取場所の近くには小型の魔物が出ることもあるため、当日の報告を確認して出るよう言われた。
ミナは依頼の紙を、卓の中央へ置いた。
ラグが地図を広げる。
「採っている間、俺は周りを見ればいいか?」
キリルが尋ねた。
「私も見るよ。ミナの近くにいればいい?」
マルタの言葉に、ミナは少し考えた。
「ありがとうございます。でも、皆さんが同じ方を見てしまうと……」
「手分けを決めておきましょう。歩くときと、止まるときでは変わりますから」
ラグが道の細いところを指した。
ミナも指を添えようとして、キリルの手とぶつかりそうになった。
二人で手を引く。
「先にどうぞ」
「いや、お前からでいい」
マルタが笑った。
ミナも笑い、もう一度地図へ手を伸ばした。
できることは増えていた。
けれど、四人でどう動くかは、これから確かめることだった。
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