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第112話 ただいま、リュネール

 見覚えのある道標が、街道の脇に立っていた。


 ミナは荷車の揺れに合わせて、少し身を起こした。

 文字を読み、曲がっていく道を見る。

 その先へ進めば、リュネールだった。


「そろそろだな」


 商隊の担当者が言った。

 ミナは頷き、手元の袋を膝へ引き寄せた。


 来るときには、遠くへ行くために通った道だった。

 今は、帰るために同じ道を進んでいる。

 窓も戸もない荷車の上で、もう何度も確かめた荷物の紐を、また確かめた。


「落としたものはないだろう?」


「はい。大丈夫です」


 答えてから、ミナは袋から手を離した。

 町の建物が見え始めていた。


     *


 町へ入るまでには、少し待った。


 荷と書類を確かめる間、ミナも登録札を出した。

 自分の番を終えると、邪魔にならない場所へ寄る。

 後ろから来た荷車の車輪が、石の継ぎ目で大きな音を立てた。


 人の話し声も、店先から漂う匂いも、サハルとは違った。

 懐かしいと思うたびに、こんな匂いだっただろうか、とも思う。


 商隊が荷を下ろす広場へ着いたとき、先に気づいたのは、向こうだった。


「ミナ!」


 声の方を向く。

 明るい髪と、丸い耳が見えた。


 マルタだった。


 駆け出しかけて、荷を運ぶ人に道を譲る。

 その一瞬が、ミナにはずいぶん長く感じられた。

 袋を持って荷車から下りると、マルタが目の前まで来ていた。


「おかえり!」


「ただいま、マルタ」


 返事をした途端、抱きつかれた。

 袋の肩紐が少しずれ、ミナは慌てて支えた。

 柔らかな毛が頬に触れる。


「ほんとに帰ってきた」


「うん」


 それだけで、急に胸がいっぱいになった。

 来る前から、今日会えると分かっていた。

 それでも、文字で知っていることと、こうして触れられることは違った。


「荷物、苦しい?」


「少しだけ」


 マルタが慌てて離れた。

 二人で笑うと、その向こうから声がした。


「着いてすぐ転ばせるなよ」


 キリルが立っていた。

 肩に掛けた袋の紐を握り、こちらを見ている。


「キリルさんも……来てくださったんですね」


「行くって書いただろ」


 言ってから、キリルは一度口を閉じた。

 ミナの顔を見て、少し視線を下げる。

 左腕の辺りで止まった目が、また戻ってきた。


「……元気そうじゃん」


「はい。今は、ちゃんと動きます」


 ミナは、袋を支えていた左手を少し持ち上げた。

 傷も、もう気にならない。

 キリルは頷き、それからようやく、口元を緩めた。


「なら、よかった」


     *


「おかえりなさい、ミナさん」


 二人の後ろから、ラグが歩いてきた。


 灰白の毛並みと、黒い縞。

 左袖は、以前と同じようにまとめられている。

 長い剣は背負っておらず、今日は町で着る服だった。


 ミナは、顔を見上げた。


「ただいま、ラグさん」


 声にすると、本当に戻ってきたのだと思った。

 ラグは目を細めた。


「長旅、お疲れさまでした」


「皆さん、待たせてしまいましたか」


「いえ。少し早く着いただけです」


「ラグさん、何度も道の方を見てたよ」


 マルタが言った。

 ラグは、彼女へゆっくり顔を向けた。


「町の円滑な交通に関心がありまして」


 キリルが吹き出した。

 ミナも笑い、ずれた肩紐を掛け直す。

 ラグが右手を差し出した。


「そちらを、お持ちしましょう」


「でも、重いです」


「それは、持ってみてから申し上げます」


 渡すと、ラグは少しだけ肘を曲げた。

 重さを確かめてから、ミナを見る。


「なるほど。ずいぶん、持ち帰るものが増えましたね」


「本と、記録帳が……」


 ラグの表情が柔らかくなった。

 ミナは、その顔を見て、サハルで何度も書いた頁を思い出した。

 まだ、何も話していない。

 話したいことは、袋には収まらないほどあった。


 商隊の担当者を紹介し、ここまで連れてきてもらった礼を言う。

 預けていた荷物も照合して、受け取った。


「それ、俺が持つ」


 キリルが、一つを持ち上げた。

 マルタも自分の分を選ぶ。


「こっちはお土産?」


「はい。割れ物ではないけど、香辛料が入っています」


「じゃあ、ぶつけないようにする」


 四人で持つと、ミナの手元には、普段使う袋と、覆いをつけた槍が残った。

 自分で持つつもりだった重さが、あちこちへ分かれている。


「ありがとうございます」


「先に、荷物を置きましょう」


 ラグが歩き出した。


     *


 下宿へ向かう途中、ミナは何度も横を見た。


 店の看板が変わっている。

 以前は空いていた場所に、布を売る店ができていた。

 角のパン屋からは、覚えている匂いがした。


「何か買うか?」


 キリルに聞かれ、首を振る。


「いえ。ここで、よく買っていたので」


「私、昨日そこで買ったよ」


 マルタが言った。


「外が固くて、中が柔らかいやつ。ミナも好き?」


「うん。切って焼き直しても、おいしいの」


 マルタは昨日、リュネールへ着いたのだという。

 キリルは、その少し前だった。

 二人ともラグと落ち合ってから、今日の到着を待っていてくれた。


「お家の方は、大丈夫でしたか」


「うん。戻る日も決めてあるよ。代わってもらう分、帰ったら私が働くの」


「俺も、いつまでもいられるわけじゃないからな」


 キリルが言った。

 それから、少し言い添えた。


「でも、話を聞く時間くらいはある」


 ミナは頷いた。

 二人とも、それぞれの場所から、ここへ来てくれた。

 会えると分かってから楽しみにしていた時間を、今、同じ道の上で使っている。


     *


 下宿の戸を開けると、管理人が奥から出てきた。


「おかえり。手紙、届いていたよ」


「ただいま戻りました。今日から、またよろしくお願いします」


 借りる部屋と料金は、先に便りで相談してあった。

 鍵を受け取り、荷物を運び上げる。

 階段の途中で、ミナは少し笑ってしまった。


「どうしたの?」


「この段、音がするのを忘れてた」


 マルタが同じところを踏むと、木が小さく鳴った。

 サハルの宿とは違う音だった。


 部屋へ荷物を置いてから、洗面を済ませた。

 鏡の前で髪を整え、袖の埃を払う。

 すぐに荷解きを始めたくなったが、階下から呼ばれたので、袋の口を閉じた。


     *


 台所の卓には、すでに料理が並んでいた。


 焼いた鶏肉と、柔らかく煮た豆。

 パンに、酢漬けの野菜。

 小さな鍋からは、湯気が上がっている。


「ラグさんが、ご用意してくださったんですか」


「ええ。鶏肉は店で焼いてもらいました。豆は、こちらの台所をお借りして」


 ラグは右手で鍋の蓋を取り、脇へ置いた。


「刻むものは、店で頼みました。私は、主に煮えるのを待つ係です」


「あと、何度も味見してた」


 キリルが言った。


「大事な仕事です」


 ラグが真面目な顔で返したので、マルタが笑った。


 ミナは前へ出かけて、止まった。

 鍋を見れば、盛り付ける場所を空けたくなる。

 けれど、今日はもう器が並んでいた。


「ミナさんは、こちらへ」


 椅子を示され、ミナは座った。

 マルタがパンの籠を運び、キリルが水差しを置く。

 ラグは一皿ずつ豆を盛り、最後に自分の席についた。


「では、冷めないうちに」


「いただきます」


 豆を一匙、口へ運ぶ。

 柔らかく、少しだけ香草の匂いがした。

 サハルで食べていたものより、穏やかな味だった。

 パンをちぎって、残った汁を吸わせる。


「……おいしいです」


 ラグが、目を真ん丸にしたあと、息を吐くように笑った。少し毛が逆立っているように見えた。


「それはよかった」


「固さ、大丈夫?」


 マルタに聞かれ、ミナは頷いた。


「うん。ちょうどいい」


 作り方を聞こうとして、もう一口食べた。

 温かかった。

 サハルで料理を渡した兵士の言葉が、ふと浮かんだ。

 故郷の味は、ほっとする。


 リュネールは、育った町ではない。

 この豆をラグに作ってもらうのも、初めてだった。

 それでも、知っている顔の間に座って食べていると、肩の力が抜けた。


「どうした?」


 キリルが顔を覗いた。


「いえ。帰ってきたんだなと思って」


「今さら?」


 そう言った彼も、少し笑っていた。


     *


 話は、順番どおりには進まなかった。


 マルタが食堂のことを尋ねると、キリルが演習の話を挟む。

 ミナが答えている途中で、ラグがサハルの船について聞いた。


「あの川を、毎日、あれだけの荷が動くのですね」


「はい。食堂で使う豆も、船で来るものがありました」


「魚も大きかったよね。記録で見た」


「マルタも見てくれたの?」


「宿の水晶で。見られない日もあったけど」


「俺も、借りられるときだけだぞ」


 キリルが水を飲んだ。


「だから、抜けてるところは聞く」


「はい。私も、皆さんのお話を聞きたいです」


 ミナが言うと、三人の目が向いた。


「お手紙に書ききれなかったことも、ありますよね」


 マルタが頷いた。

 キリルは何から話すか考えるように、匙を置いた。

 ラグは、空になりかけたパンの籠を少し中央へ寄せた。


 知らないところで、皆も暮らしていた。

 練習をして、仕事をして、誰かと出会っている。

 その話を、今なら同じ卓で聞ける。


 食べ終えた後、ミナは荷物から小さな包みを持ってきた。

 香辛料を並べると、マルタが鼻を近づける。


「これ、いい匂い」


「そっちは少し甘い香りがするの。お肉にも使えるんだよ」


「甘いのに?」


「うん。私も、最初は驚いた」


 キリルも、紙に書かれた名前を覗き込んだ。

 ラグは包みを一つ見て、ミナの顔へ視線を戻す。


「明日なら、台所を借りられるそうですよ」


 ミナは笑った。


「では、明日は私が作ってもいいですか」


「うん。食べたい!」


 マルタの返事が、一番早かった。

 キリルも頷き、ラグが穏やかに言った。


「楽しみにしています」


 ミナは香辛料の包みを、丁寧に閉じた。

 明日の分を、今から作り始める必要はなかった。

 今日はもう少し、三人の話を聞いていたかった。



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