第111話 また来ます、サハル
袋の口を閉じる前に、ミナはもう一度だけ中を確かめた。
着替え。手入れをした道具。乾いた布。
新しい小鍋には、傷つかないよう包んだ器を収めた。
記録帳は油を引いた布で包み、すぐ開く一冊だけを手元の袋へ入れる。
お土産は別の荷物だった。
香辛料の包みに、小さな紙を結ぶ。
名前だけでは、帰ってから分からなくなりそうだったので、使い方も一行ずつ添えた。
背負ってみると、少し重かった。
ミナは袋を下ろし、乗り継ぎまで使わないものを、商隊へ預ける荷物へ移した。
自分で持てることと、ずっと背負って歩けることは違う。
寝台の下を見る。
棚を開ける。
窓際には、もう乾かす手袋もなかった。
九か月使った部屋が、借りたばかりの頃に少し近づいていた。
*
宿の主人へ鍵を返すと、台所にいた女主人が顔を出した。
「朝の分、食べていくでしょう?」
「はい。お願いします」
いつもの席へ座った。
豆の煮込みとパン。小さな皿に、酸味のある野菜が添えられていた。
来たばかりの頃には、何で味をつけたのか尋ねた料理だった。
今日は、何も考えずにパンをちぎった。
食べ慣れた味がした。
「向こうへ戻ったら、忙しくなるの?」
「まずは、お世話になった方に会いに行きたいです。それから、育った町にも」
「そう。じゃあ、ちゃんと休む日も入れるんだよ」
ミナは頷いた。
旅の途中で、何度も言ってもらった言葉だった。
食べ終えた皿を下げ、借りた台所にも頭を下げた。
「長い間、ありがとうございました」
「こちらこそ。また泊まりにおいで」
戸口まで見送られ、荷物を持ち直す。
宿の壁にできた朝の日陰を抜けると、川の方から風が来た。
*
港では、荷の積み込みが始まっていた。
ナディムが、船の担当者と話している。
その隣でサフィナが手を振り、ハーシムが足元の荷物を少し寄せて、通る場所を空けてくれた。
「おはよう。眠れた?」
「はい。少し早く起きてしまいましたけど」
「私も」
サフィナが笑った。
出発するのはミナなのに、目の下を指で擦っている。
ナディムから、帰りの商隊を取りまとめる男を紹介された。
すでに一度会っていたが、挨拶をして、預ける荷物を確かめる。
行程表の写しを出すと、男は最初の乗り継ぎ場所を示した。
「ここでは、一緒に下りてくれ。勝手に次の船を探さなくていいからな」
「はい」
「変更があれば、こちらから知らせる」
ミナは担当者の顔を見て頷いた。
分からなくなったとき、誰に聞けばいいのかは、先に覚えておきたかった。
荷物に目印をつけ終えると、ナディムが一通の封筒を渡してくれた。
「途中の取引先への紹介だ。困ったときは、店で名前を出してくれ」
「ありがとうございます。ルガンのことも、いろいろ聞いていただいて」
「そちらは、また連絡する。まずは無事に帰って、用事を済ませてからだ」
ミナは封筒を、手元の袋へしまった。
「最初に声をかけていただいたときは、こんな旅になると思いませんでした」
「私も、食堂の献立を相談されることになるとは思わなかったよ」
ナディムは笑い、積み終えた荷へ目を向けた。
「いい仕事をしてもらった。こちらも、助かった」
その言葉に、ミナは顔を上げた。
お世話になったことばかり数えていた。
自分にも、返せたものがあったのだと思うと、嬉しかった。
*
桟橋へ向かおうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「間に合ったようだね」
ダリヤだった。
職員を一人伴い、川沿いの道から歩いてくる。
ミナが慌てて姿勢を正すと、片手を上げた。
「その荷物のままでいい。今日は見送りに来ただけだから」
「ありがとうございます」
ミナは袋の紐を握り直した。
初めて会ったときのように、足をどこへ置くか迷うことはなかった。
伝えたいことは、もう決まっていた。
「食堂で働かせていただいて、ありがとうございました。あそこで料理を出せて、よかったです」
「私も、君に頼んでよかったと思っているよ」
ダリヤは少し身を屈めた。
「次に来たときも、挨拶においで。仕事の相談がなくても構わない」
「はい。今度は、別の料理も覚えてきます」
「それは楽しみだ。では、厨房を使えるようにしておこうかな」
隣の職員が、ダリヤを見た。
「まだ次の訪問のお約束も……」
「楽しみにするくらいは、よいだろう?」
ミナは笑った。
ダリヤも笑い、道を空けてくれた。
*
乗船を知らせる声がした。
ハーシムが、ミナの袋と、穂先に覆いをつけた槍へ目をやった。
「紐は?」
「確かめました。船では、こちらも決められた場所へ置きます」
「水は?」
「手元にあります」
答えてから、ミナは少し笑った。
ハーシムも、口元を緩めた。
「もう、自分で確かめられるな」
「はい。でも、知らないことは聞きます」
「それでいい。君の素晴らしいところの一つだ。」
差し出された手を、ミナは握った。
何度も一緒に採取へ出た手だった。
その人が隣にいるからと、安心して屈めた場所があった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。またな」
サフィナは、その横で黙っていた。
さっきまでは、船の上ならどこが風を避けられるか、早口で話していたのに。
「サフィナさん」
「……今度は、私がそっちに行ってもいい?」
「はい」
すぐに答えると、サフィナが瞬きをした。
「来てください。今度は、私がご案内します」
「変なところで迷わない?」
「私も、まだ全部は知りませんけど……知らないところは、一緒に調べられます」
「そっか。それもいいね」
サフィナが一歩寄って、ミナを抱きしめた。
荷物が間に挟まり、少しだけ持ちにくくなる。
ミナは空いている手を、その背中へ回した。
「手紙、書いてね」
「書きます」
離れると、サフィナの目が光っていた。
自分も同じ顔をしている気がして、ミナは一度、唇を結んだ。
船の担当者が、待っていてくれた。
足元を見ながら渡り板を進み、荷物を置いてから岸へ振り返る。
「また来ます!」
サフィナが大きく手を振った。
ハーシムが片手を上げる。
ナディムとダリヤの姿も、その向こうに見えた。
岸との間が、少しずつ広がっていった。
*
見送りの顔が分からなくなっても、ミナはしばらく川岸を見ていた。
白い壁。荷を運ぶ人。橋を渡る荷車。
町の奥には、食堂へ向かう道がある。
今頃は、誰かが市場から食材を運んでいるかもしれない。
水晶は、まだ袋の中だった。
港で交わした言葉を、すぐに誰かへ説明する気にはなれなかった。
船が落ち着いた頃、担当者に声をかけた。
ほかの客や荷を映さず、短く話せる場所を教えてもらう。
ミナは自分へ水晶を向け、配信を始めた。
「今日、サハルを出発しました」
声にすると、胸の奥が少し詰まった。
「いろいろ教えていただいて……九か月ほど、いました。今は、王国へ戻る途中です」
〈舟待ち:もう出たんですね。気をつけて〉
「ありがとうございます。お店は、これからも開いていますので」
〈舟待ち:そちらにも行きます。配信も、帰ってからまた見ますよ〉
ミナは文字を読み直した。
サハルにいる間だけ見てもらえるのだと、決まっていたわけではなかった。
「はい。また、料理もします」
〈木の匙:今度は、そちらで覚えた料理ですね〉
「作ってみたいものが、たくさんあります」
風が少し強くなり、ミナは水晶を持ち直した。
今日は短い報告で終えた。
しまう前に、岸をもう一度見る。
町は遠くなっていたが、帰った後にも話せる人が増えていた。
*
帰り道は、川と街道をつないで進んだ。
船を下りる日には、預けた荷物を確かめた。
荷車へ移る前に、水筒を満たす。
靴の中に小石が入ったときは、次の休憩まで我慢せず、担当者へ一声かけて止まった。
行きの旅で、見て覚えたこともあった。
サハルで、失敗して覚えたこともあった。
以前より早く支度が終わった日は、借りた場所を掃き、次に使う人へ空けた。
雨で予定を変えた日もあったが、その後の行程を調整し、大きく遅れずに進めた。
途中の宿で台所の一角を借りられた夜、ミナは小鍋を出した。
商隊で用意した夕飯に添える、豆と干し肉の汁物を作ることになった。
豆は宿で煮てあったものを分けてもらい、干し肉を刻む。
最後に、サハルから持ってきた香辛料を少し加えた。
「さっきと匂いが変わったな」
器を並べていた男が顔を上げた。
「入れすぎると強いので、少しだけです。向こうで教えていただきました」
汁を味見し、火を止める。
手元にある材料で、習ったものとまったく同じ料理にはならなかった。
それでも、何を残せばあの味に近づくのかは、以前より考えられた。
食べた男が、自分の器を少し傾けた。
「これ、肉が少なくても寂しくならないな」
「豆にも、煮汁の味が入るので」
「今度買うとき、名前を教えてくれ」
ミナは香辛料の包みを見せた。
結んだ紙が、もう役に立った。
*
旅を続けるうちに、看板に書かれた文字も、食卓の匂いも、懐かしいものへ変わっていった。
リュネールまで、あと一日。
商隊の担当者に予定を確かめてから、ミナは宿場の連絡窓口へ向かった。
短い便りを、先に決めてあったリュネールの受取先へ送る。
明日、予定どおり着きます。
元気です。
それだけ書くつもりだったのに、最後に一行足した。
皆さんに会えるのを、楽しみにしています。
受付の人へ渡し、宿へ戻った。
荷物を開き、翌朝使うものを上へ出す。
ラグには、何から話そう。
マルタとキリルは、もう町へ着いているだろうか。
三人を同じ卓に思い浮かべると、まだ知らない景色なのに、自然と笑ってしまった。
明日は、リュネールへ帰る。
ミナは小鍋を袋へ収め、紐を結んだ。
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