第110話 ここで覚えたこと
王国へ戻る一行を見送った後も、サハルでの日々は続いた。
グレンは出発前、ミナに帰りの予定を確かめた。
三か月ほど後に商隊と戻るつもりだと答えると、頷いた。
「そうか。こなべさんの旅だからな。残りの仕事も、無理なくね」
バルドは、食堂が再開してからも一度食べに来てくれた。
帰り際には、大きな手を上げて言った。
「また、見に行くからな」
「配信ですか?」
「おう。そっちもだ」
リゼとオルヴェンが横で笑っていた。
そのリゼには、補助帯を使ったときのことを、落ち着いて話す時間を取ってもらった。
自分で魔力を通していたところ。疲れを強く感じたとき。止めた後の体の重さ。
分からない時刻は、分からないと伝えた。
「今の体の使い方も変わってきているでしょう。帰国してから、改めて確かめましょうね」
補助帯は、まだ工房に預けたままだった。
ミナは自分の身体強化で歩ける距離を確かめながら、採取を続けた。
*
初めの一か月は、思っていたより早く過ぎた。
食堂では、新しく担当する料理人と働く日ができた。
名前はアミナといい、ミナが聞き返すと、笑いながらもう一度名乗ってくれた。
「呼ばれたら、二人とも振り向きそうだね」
近くの宿で料理をしていた人だった。
ミナの担当していた曜日なら働けると、募集に応じてくれたのだという。
最初の日から、重い鍋を動かす場所も、食器を戻す棚も、次々に覚えていった。
ミナが教えるのは、主に自分が出していた料理だった。
「香辛料は、ここではまだ入れません。焦げやすいので、火を落としてからです」
「このくらい?」
鍋を傾け、匂いを確かめる。
アミナは頷いて、ミナの書いた紙へ短く印をつけた。
「これ、根菜を替えてもよさそうだね。夏場は、こっちの方が入りやすいから」
市場で見たことのある野菜の名前が出た。
ミナは、自分の記録帳も開いた。
「その場合、同じ時刻に入れて大丈夫でしょうか」
「少し後がいい。今度、持ってくるよ」
教えているつもりだったのに、新しく書くことが増えた。
隣の調理台で、バスマが笑った。
「二人で覚えれば、店に残るものも増えるね」
ミナは、紙の余白を少し広く取るようになった。
*
採取地では、草の姿が変わっていった。
前には花がついていた株に、実ができている。
朝の土が湿っている時間も、同じではない。
見覚えのある道でも、前の記録をそのまま使えないことがあった。
「この辺り、葉が少なくなったね」
サフィナが屈んだ。
ミナも隣へしゃがみ、株の根元を見た。
「採られた跡ばかりではなさそうです。こちらも、自然に落ちています」
「じゃあ、今日は向こうも見ようか」
ハーシムに時間を確かめ、予定の範囲で場所を変えた。
見つからなかった場所も、記録には残した。
帰りの坂では、以前ほど息が上がらなくなっていた。
荷物を背負う位置を直す回数も減った。
歩幅を大きくしすぎず、膝を固めずに下りる。
考えながらしていたことの幾つかが、足を出す前にできるようになっていた。
それでも、疲れた日はあった。
そんな日は翌朝の予定を減らした。
休めば、また出られる。それを確かめる日も、少しずつ増えていった。
*
手紙の返事は、一度には届かなかった。
ラグからは、リュネールの近況が書かれていた。
今も依頼を受けていること。剣を使う練習を続けていること。
ミナのいない間に一緒に仕事をした冒険者の話もあった。
帰る場所の様子が、以前のまま止まっているわけではなかった。
ミナは、知らない名前のところをもう一度読んだ。
料理の話も、楽しみにしています。
ただし、帰着した日の夕飯までご自分で作ろうとはなさらないように。
私にも、お迎えする準備をさせてください。
最後の数行を読み、ミナは小さく笑った。
帰った日に作る献立を、少しだけ考えていたところだった。
マルタからの返事には、大きめの字で、会いたいと書いてあった。
お母さんにも相談したよ。
家の仕事を代わってもらえるように、早めに予定を組むから、日にちが決まったら教えて。
ミナが戻る日に、私もリュネールに行くね。
盾の訓練のことは、その後に続いていた。
後ろに人がいるときの足の置き方を、今も練習しているらしい。
うまくいったことだけでなく、治療をしようとして盾が下がったことも書いてあった。
また、一緒にやってみたい。
ミナはその一文へ指を添えた。
自分にも、見てもらいたいことがあった。
キリルの手紙は、初めの行が短かった。
俺も行く。
その下には、家の用事と、こちらを出られる時期について、思ったより詳しく書かれていた。
帰る日が決まったら、ちゃんと知らせろよ。
その日に合わせてリュネールへ行くから。
あと、魔力を通すところを増やしたって、どのくらいだ。帰ってきたら見せてみろ。
ミナは、やっぱり聞かれた、と思った。
教わったときよりは、できることが増えたはずだ。
けれど、彼も同じところで待っているわけではない。
火と風の練習で試していることが、手紙の裏まで続いていた。
三通を重ねると、急に帰る日が待ち遠しくなった。
*
さらに日が過ぎ、帰りの便が決まった。
ナディムと商隊の担当者から行程を聞き、宿へ知らせた。
リュネールへ着く予定の日も、改めて三人へ送った。
途中で大きく遅れた場合は、便りを出せる町から連絡する。
返事を受け取る場所も、先に確かめておいた。
姉からは、コルナへ行くなら日程を合わせたいと返事があった。
仕事の帰還予定が添えられている。
ミナは自分の到着予定と並べ、まずはリュネールへ戻ってから落ち着いて支度をすることにした。
ルガンの商人からも、ナディムへ返答が届いた。
採取地の確認は、一度素材を集めて終わる仕事ではないらしい。
土地や時期による違いを、現地の薬師や採取人と確かめたいという。
滞在先の候補と報酬の考え方も、書かれていた。
「すぐ来られる者だけを探しているわけではなさそうだな」
ナディムが言った。
「帰国と墓参りを済ませてからで、先方の予定に合うか、もう一度聞いてみよう」
「はい。ご一緒する方が、どんな採取をされているかも知りたいです」
ミナは、返答の写しを受け取った。
今度の旅には、初めから聞いておきたいことが幾つもあった。
*
出発を数日後に控えた朝、三人で最後の採取へ出た。
選んだのは、サハルへ来て間もない頃にも歩いた道だった。
同じ道なのに、見える葉の形も、風の匂いも違っていた。
サフィナが先へ立ち、ハーシムが周囲を確かめる。
ミナは目当ての株を見つけてから、袋を置く場所を選んだ。
「ここ、覚えてる?」
「はい。最初、こちらの葉と間違えそうになりました」
採らずに残す株を指すと、サフィナが頷いた。
「今なら、私が言わなくても分かるね」
ミナは二種類を見比べた。
葉脈の違いだけでなく、土の湿り方も、株が集まっている場所も違う。
名前を覚えた後にも、分かったことは増えていた。
必要な分を揃え、布に包む。
もう少し採れそうな株はあったが、今日はここまでにした。
「忘れ物、ない?」
サフィナが尋ねた。
ミナは道具を確かめ、包丁を収めた鞘へ触れた。
「大丈夫です」
「じゃあ、帰ろうか」
いつもと同じ言葉だった。
それが少し寂しくて、ミナは返事をする前に、採取地をもう一度見た。
帰り道、ハーシムが歩く速さを落とさずに言った。
「最初の頃は、この坂を越えると話が途切れていたな」
「私ですか?」
「ああ。返事をするより、息を整える方が先だった」
ミナは、今の自分の呼吸を確かめた。
荷物は軽くない。それでも、話をしながら歩けていた。
「今日は、食堂で使う香草のことも聞こうと思っていました」
「うん。まだ聞くことあるんだね」
サフィナが笑った。
「あります」
ミナが答えると、二人とも笑った。
*
最後の担当日は、アミナと並んで台所へ立った。
今日の献立は、白身魚と豆の酸味煮だった。
豆は先に柔らかくしておき、魚は後から加える。
サハルで教わった酸味のある果汁を使い、香草は仕上げに散らした。
最初の鍋は、アミナが味を決めた。
ミナは渡された匙で煮汁をすくう。
「どう?」
「おいしいです。魚も、崩れていません」
「じゃあ、出そう」
ミナは器を並べた。
自分が味見を終えるのを、皆が待っているわけではない。
次の仕事を知っている人がいて、鍋の向こうでも手が動いていた。
「小さな店主、今日で終わりだって?」
料理を運ぶと、常連が声をかけた。
「私の担当は、今日までです。お店は、これからも開いています」
「そりゃ分かってる。向こうへ戻っても、ちゃんと食えよ」
「はい。ありがとうございます」
別の卓からは、次に来るときには新しい料理を持ってきてくれ、と声が飛んだ。
ミナが頷くと、アミナが台所から顔を出した。
「私にも教えてもらわないとね」
店の中で、笑い声がした。
最後の客が帰った後、ミナは調理台を拭いた。
使い慣れた場所に、いつもの道具がある。
ここへ最初に立ったときには、何もかも確かめながら使っていた。
ユスフが、料理の記録を受け取った。
採取記録の写しは、先にギルドへ渡してある。
原本は、ミナの荷物へ入れる。
「分からないところが出たら、お手紙で聞いてもいいですか」
アミナに尋ねられ、ミナはすぐ頷いた。
「はい。私も、こちらで教わった料理のことで聞くかもしれません」
「それなら、お互い様だ」
バスマが、洗って乾かした前掛けを渡してくれた。
ミナは受け取り、胸の前で畳み直した。
表の戸締まりを確かめると、サフィナとハーシムが待っていた。
今日は客として食べに来て、片づけまで手伝ってくれたのだった。
「宿まで行こう。明日は荷造りでしょう」
「はい」
ミナは食堂を振り返った。
次の営業日には、ここでまた誰かが火を起こす。
自分が書いた紙には、別の筆跡で新しい工夫が加わっていくのだろう。
前掛けを入れた袋を抱え直し、二人に追いついた。
サハルへ来てから、間もなく九か月になる。
港へ向かう朝が、もう近づいていた。
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