第109話 帰る予定を知らせます
合同演習の最後の日、ミナは借りていた鍋の底を拭いた。
乾いた布へ持ち替え、縁に残った水も取る。
調理場の外では、兵士たちが天幕を畳んでいた。
板を外す人、縄を束ねる人。給水の場所には、まだ人がいる。
片づけが終わるまで働く者の分も、食数には入っていた。
「これで、こちらの借り物は全部です」
ミナが言うと、ユスフは一覧へ最後の印をつけた。
「ありがとうございます。割れた器も、報告どおりですね」
使ったものが、一つずつ元の場所へ戻っていく。
ミナは前掛けを外し、畳んだ。
明日からは、食堂の台所で使う。
*
王国の一行は、報告の取りまとめを終えてから帰ると聞いた。
ミナがナディムの店を訪ねたのは、その出発を待つ間だった。
「王国へ戻る商隊は、いつ頃出ますか」
ナディムは荷札を置いた。
「帰ることを考え始めたか」
「はい。すぐに、というわけではないんですけど」
帰ったら作りたい料理の話をしてから、リュネールの台所を思い出すことが増えた。
ラグの座る椅子。下宿の階段。依頼板の前に立つ人たち。
どれも、しばらく見ていなかった。
ナディムが、便の予定を書いた帳面を開く。
「もう、半年ほどになるな。こちらへ来てから」
「そんなに……」
ミナは指を止めた。
食堂の担当日なら、何度も数えていた。
けれど、サハルに着いた日から続けて数えることは、あまりしていなかった。
「まだ、行ってみたい採取地もあります。食堂も、もう少し続けたいです」
「それなら、いつまでいるかを先に考えてもいい。帰り道は、その後で合わせよう」
卓に置かれた暦を見た。
今の月の先にも、白い欄が続いている。
知らない場所へ行く日も、仕事をする日も、そこへ書ける。
「あと、三か月くらい……」
口にしてから、ミナは財布の中身を思い浮かべた。
宿代と食費。帰りの旅費は別に残している。
採取と食堂の仕事を続ければ、無理のない範囲だと思えた。
「その頃に帰りたいです。サハルには、九か月くらいいたことになりますね」
ナディムは頷いた。
「今からなら、便を選ぶ時間もある。途中で乗り継ぐところまで、確認しておこう」
「お願いします」
「ただ、着く日まで今日決めてしまうなよ。川も道も、こちらの予定どおりとは限らない」
ミナは、暦の一日に置きかけた指を少し広げた。
出発の候補と、リュネールへ着く頃。
その間には、旅をする日数がある。
「先に、お手紙で知らせておきたいんです」
「それがいい。日が近づいたら、改めて知らせればいいさ」
*
帰国の相談をすると、ほかにも確かめたいことが出てきた。
「リュネールに戻った後、コルナにも行きたいんです」
「育った町だったな」
「はい。店主のおじさんのお墓に、お話ししたいことがあるので」
ナディムは、開いていた帳面を脇へ寄せた。
「それなら、その旅費も残しておこう。リュネールへ着いたら、それで全部終わりというわけではないな」
ミナは頷いた。
コルナは、朝出て夕方に帰れる場所ではなかった。
下宿へ荷物を置き、道中の泊まり先も考える必要がある。
姉にも、都合を聞いてみたかった。
「帰ったら、また考えることがたくさんありますね」
「旅に出る前から、次の旅の話だ」
ナディムは笑った。
ミナもつられて笑い、それから店の棚を見た。
小さな袋に詰められた穀物がある。
ドランに見せたものと、同じ色をしていた。
「ルガンにも、いつか行ってみたいです」
「ラウマを食べに?」
「それもあります。でも、どんなところで採れるのかも、見てみたいです。葉も、まだ名前が分からないので」
ナディムは少し考え、卓の端にある手紙の束へ目を向けた。
「実は、あちらの取引先から、採取人について問い合わせが来ている」
ミナは顔を上げた。
「仕事ですか」
「ああ。薬草や、魔物から取る素材を丁寧に扱える人を探しているそうだ。戦う人数を増やしたい、という話ではない」
ナディムは一通を抜き、該当するところを確かめた。
「ルガンでも、サハルと同じ頃に魔物の異変があった。こちらへ知らせが届くまで、少し時間がかかったがね」
ミナの背中が伸びた。
「今も、危ないんですか」
「襲撃は現地の部隊と冒険者が鎮圧したと聞いている。ただ、採取地まで全部元どおりになったわけではないらしい」
踏み荒らされた群生地。
以前と違う場所へ移った魔物。
いつもの土地で取れなくなった分を、別の村から集めるようになった素材。
ナディムが読み取った範囲だけでも、事情はいくつかあった。
「同じ名前で買っても、前のものと扱いが違うことがあるそうだ。採った土地や状態を確かめたい、とある」
「乾かし方が違うんでしょうか。それとも、似ている別の種類とか……」
「そこまでは、この手紙では分からない」
ミナは口を閉じた。
気になったからといって、見ていないものの理由は決められない。
「現地の方に、聞いてみたいです」
「では、仕事の場所と条件をもう少し尋ねておこうか。向こうにも採取人や薬師はいる。一緒に働く相手のことも、先に分かった方がいい」
「はい。報酬と、泊まるところも……あと、どれくらいの期間なのか」
ナディムは頷き、別の紙へ書き留めた。
「返事を見てから考えよう。先方がいつまで待てるかもあるし、君の帰国の予定もある」
「まずは、一度帰ります」
そう答えると、胸の中が少し落ち着いた。
行きたい場所が増えても、全部へ一度に向かう必要はなかった。
*
食堂の仕事については、ユスフを通じてダリヤへ相談した。
領主館へ伺うと、ダリヤはミナを座らせ、予定を最後まで聞いた。
「あと三か月ほど、だね」
「はい。ただ、私の担当の日を、どうしたらいいかと思って」
「帰国まででよいと言ったのは、私だよ。そこは覚えているかな」
「覚えています。でも、来てくださるお客様もいらっしゃるので……」
ダリヤの表情が、少し和らいだ。
「それを考えてくれるのは嬉しい。ただ、君が帰れなくなる形にはしたくない」
ダリヤはそこで、ミナの手元の記録帳へ目を向けた。
「初めは、こちらの採取を学ぶための旅だったね」
「はい。こんなに長くいることになるとは、思っていませんでした」
「食堂で働いて、違う土地の料理を覚えて、町の仕事にも触れた。ずいぶん、いろいろな経験をする旅になったものだ」
ミナは、前掛けを初めて結んだ日のことを思い出した。
仕込みの量を何度も数え直したこと。客に呼ばれ、何か間違えたかと身構えたら、おいしかったと言ってもらえたこと。
領主の仕事について歩いた日には、料理とは関係がないと思っていた場所にも、食堂へ続く仕事があった。
「皆さんに、教えていただいたことばかりです」
「教わった後で、手を動かしたのは君だよ」
ダリヤは穏やかに続けた。
「食堂を任せる話をしたとき、夢の一歩を踏み出す勇気はあるかと尋ねただろう」
「はい」
「君はその機会を掴んだ。そして、一歩踏み出して終わりにはしなかった。うまくいかなければ確かめ直し、人に聞いて、次に生かした。ちゃんと、経験を自分のものにしたね」
ミナは記録帳の端を撫でた。
最初の頃の頁には、今なら書かなくても覚えていることが、細かく並んでいる。
それでも、その頃の自分には必要だった。
「ここで身につけたものは、君がどこへ行っても持っていける。かけがえのない財産になるよ」
ミナは顔を上げた。
返事をしようとして、少しだけ息を整える。
「……大事に、していきたいです」
「うん。これからも使っていくといい」
ユスフが、料理人の募集状況を示した。
曜日を固定して働けるか相談中の人がいる。
まだ確定ではないが、決まればミナと一緒に働く日を設けられるという。
「初めから全部任せる必要もありません。今いる者と分担を組み直すこともできます」
「私にできることは、書いて残したいです」
「ありがたいですね。ただ、一緒に作って確かめる時間もいただけると」
ミナは頷いた。
火床が違えば、同じ時間では煮えないことがある。
紙へ書けることも、鍋の前で見てもらった方が早いこともあった。
「私も、まだ教えていただきたいことがあるんですけど」
「それなら、また来る理由ができたね」
ダリヤは、ごく自然に言った。
「残る間に、全部覚えて帰らなくてもいい。また来たとき、私たちの方から教えてもらいたいことも増えているかもしれないよ」
ミナは、膝の上の手をほどいた。
「……はい」
「それと、採取の記録はギルドにも相談しておいてくれ。必要な写しを残してもらえると助かる」
「分かりました」
ダリヤはそこで、少し笑った。
「残りの三か月を、引き継ぎだけで埋めないようにね。君は学びに来たのだから」
*
「帰るんだ」
サフィナが言った。
ギルドの隅で、三人分の飲み物が卓に並んでいた。
「三か月くらい先ですけど」
「うん。そっか」
サフィナは杯を持ち、まだ飲まずに置いた。
ミナも、何を言えばいいか少し迷った。
来たときには、こんなふうに毎週顔を合わせるようになるとは思っていなかった。
「帰りの同行者は、これからか?」
ハーシムが尋ねた。
「ナディムさんに相談しています。商隊の便を確かめていただくことになりました」
「決まったら教えてくれ。荷物も増えただろう」
「本が、少し……」
「少し?」
サフィナが顔を上げた。
ミナは指で数えかけて、やめた。
買ったものと、借りているものを分けなければならなかった。
「返す本もあります」
「それでも、来たときより重いよね」
サフィナが笑ったので、ミナも笑えた。
「じゃあ、残りの間に、まだ行ってないところも行こう。もちろん、依頼があるときに」
「はい。行きたいです」
「最後の日まで採取を詰めるなよ。道具を乾かす日も要る」
ハーシムに言われ、サフィナが肩をすくめた。
「分かってるって。最後はちゃんと、帰る準備の日にする」
ミナは記録帳を開いた。
新しい頁へ、帰る前にすることを書き始める。
借りた本を返す。採取記録の写し。料理の引き継ぎ。
その下に、サフィナが指を置いた。
「買い物も。お土産、選ぶんでしょう?」
ミナは、少し大きな字で書き足した。
*
その夜、宿の机へ三枚の紙を並べた。
ラグへ。
マルタへ。
キリルへ。
サハルを出るつもりの時期と、リュネールへ着く頃の見込みを、まず同じように書いた。
まだ日付は決まっていないこと。
便が決まれば、もう一度知らせること。
それから、ラグの手紙へ筆を戻した。
帰ったら、食べていただきたい料理があります。
書くと、思い浮かぶものが多すぎて、料理の名前を全部並べるのはやめた。
採取へ戻ったことと、槍の柄を替えて使っていることも添えた。
マルタには、合同演習で盾役の動きを見た話を書いた。
マルタの国でも、同じように教わるのだろうか。
今、どんな練習をしているのか、聞いてみたかった。
キリルには、自分の魔力で動ける範囲が少しずつ増えていることを書いた。
教えてもらったことを、今も確かめながら練習している。
そう書いてから、彼なら何と返すだろうと考えた。
きっと、また細かいところを聞かれる。
二人の手紙の最後へ、同じ言葉を添えた。
都合が合えば、リュネールで会えたら嬉しいです。
家も、仕事も、勉強もある。
来てほしい気持ちはあったが、来られると決めつけることはできなかった。
それでも、伝えずにいるよりはよかった。
インクを乾かす間に、姉へ宛てる紙も出した。
こちらには、コルナのことを書く。
お姉ちゃん。
帰ったら、おじさんのお墓に行きたいと思ってる。
そこまで書いて、ミナは筆を止めた。
報告したいことを順番に考える。
食堂で働いたこと。知らない料理を教わったこと。自分の記録が、人の役に立ったこと。
怖かったことも、心配をかけたことも、なかったことにはできない。
机の端には、明日の仕事に使う記録帳が置いてあった。
帰るまでにも、まだ頁は増えるだろう。
ミナは新しい行へ、姉の都合を尋ねる言葉を書いた。
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