第108話 故郷の味がします
「……この匂い、久しぶりだな」
器を受け取った兵士が、湯気の向こうで笑った。
その後ろから、別の兵士が首を伸ばす。
「何だ、今日はこっちの煮込みか」
「牛肉と玉ねぎです。芋も入っています」
ミナが答えると、二人目の兵士は嬉しそうに匙を取った。
先に受け取った者は列から離れ、長椅子へ腰を下ろす。器の底から煮汁をすくい、一度息を吹きかけて口へ運んだ。
ミナは、次の器へ目を戻した。
こちらを見る人がいる。
「お待たせしました」
肉を取り、芋を添える。
隣から煮汁が注がれ、器が渡っていく。
普段の食堂なら、誰がどの席へ座ったか、少しは覚えていられた。
今日は違った。
次の人の手元へ渡したときには、その前の人はもう離れている。
口に合ったかどうかを尋ねる暇もないまま、鍋の中身が減っていった。
それでも、ときどき声は聞こえてきた。
「うちでは、芋はもっとでかかったな」
「俺のところは豆も入ってた」
「肉が入る日は、俺が先に鍋をのぞくと怒られたよ」
笑い声が重なった。
ミナは、匙ですくった芋を器へ移した。
自分の作った鍋から、知らない家の話が聞こえてくる。
*
一組目の列が短くなった頃、バルドがやってきた。
袖をまくり、洗った手を拭いている。
その後ろには、リゼもいた。
「昨日より、いい匂いがするな」
「鍋が大きいからでしょうか」
「腹が減ってるせいもある」
バルドは笑って、配膳台の前へ進んだ。
「できれば、多めに……」
言いかけたところで、鍋の中と、後ろに続く人を見た。
「いや、同じでいい」
「皆さんに行き渡って、残っていたら、おかわりをお出しできます」
「おう。そうしてくれ」
バルドは器を受け取り、素直に頷いた。
リゼが横から覗き込む。
「待てるのね」
「何だと思ってやがる」
「熱心な生徒」
バルドが眉を寄せたので、ミナは少し考えた。
「今日は、バルドさんが先生では……」
「そうだろ」
すぐに返事が来た。
リゼは笑いながら、自分の器を受け取った。
その後ろには、先ほどバルドに足の位置を直されていた兵士がいた。
料理を受け取りながら、長椅子の方を気にしている。
「隣、座ってもいいぞ」
バルドに声をかけられ、兵士は背筋を伸ばした。
「はい。あの、さっきの、盾を戻すときのことで……」
「飯を口に入れてからでいい。冷めるぞ」
兵士が慌てて匙を取る。
バルドも大きな一口を食べ、ゆっくり噛んだ。
それから、空いている手を膝の横へ置き、盾を戻す動きを小さく示した。
リゼは二人の向かいで、煮汁の染みた芋を崩していた。
*
「二組目は、今の予定どおりです」
配膳担当から知らせが入った。
ミナは頷き、二つ目の鍋の蓋を少し開けた。
芋は柔らかくなり始めていた。
強くかき混ぜず、鍋の縁から煮汁を確かめる。
バスマに味を見てもらうと、彼女は塩の小皿へ目をやった。
「これ以上は足さなくていいね。盛る頃には、もう少し煮詰まる」
「はい」
ミナは小皿へ布を掛けた。
一つ目の鍋と同じ時刻に芋を入れていたら、今頃はずいぶん崩れていただろう。
遅れて戻る人にも、同じ形で渡せそうだった。
別の炊事班では、豆を煮た鍋が空き始めていた。
配り終えた担当者が、こちらの空いた器を洗い場へ運んでくれる。
その間に、ミナたちは配膳台を拭き直した。
「こっちが終わったら、洗い物へ回ります」
バスマが声をかけると、向こうから手が上がった。
二百人分のうち、自分たちの六十人分だけを見ていればよいわけではなかった。
器も、水場も、運ぶ道もつながっていた。
二組目が戻ってきた。
先ほどよりも靴に土がつき、額の汗を拭う者が多い。
給水の場所へ人が集まったが、飲み終えた者が横から抜けられるので、列は止まらなかった。
グレンも、ザイードと一緒に歩いてきた。
話を途中で切り上げ、手を洗ってから列へ入る。
「待たせず出せているな」
グレンが、器を受け取りながら言った。
「はい。皆さんと分担したので。戻る時刻も、知らせていただけました」
「こちらも助かる。食事を急がせずに済む」
ミナは、隣で煮汁を注いでいる料理人を見た。
聞こえていたらしく、目が合うと小さく笑ってくれた。
ザイードは料理を受け取った後、グレンと並んで席へ向かった。
卓の端へ置きかけた地図を、グレンがいったん袋へ戻す。
「続きは、食べてからにしましょう」
「そうですね。せっかく温かいものを出してもらった」
二人が匙を取るのを見て、ミナも少し肩の力を抜いた。
*
最後の一人へ渡し終えると、配膳担当が人数を確かめた。
届ける分も含め、予定の六十人へ行き渡っている。
残ったのは煮汁と芋が少し、それに小さな肉が数切れだった。
バスマが鍋を傾けずに中を確かめ、ミナへ目を向けた。
「少しなら、おかわりを出せるよ」
声をかけると、バルドは空の器を持って立った。
すでに次の仕事へ向かう支度をしていたが、こちらへ来る足は速かった。
「少しになってしまいますけど」
「十分だ」
今度はパンで煮汁まで拭って食べ、器を返してくれた。
「ごちそうさん。午後も働ける」
大きな背中が、演習場へ戻っていった。
ミナは、空になった鍋を見た。
最初に六十人分と聞いたときには、ずいぶん大きな数だと思った。
今は、取り分けた器や、受け取った手をいくつか思い浮かべられた。
「お嬢さん」
振り向くと、最初に料理を受け取った兵士が立っていた。
返却台へ器を置き、こちらへ会釈する。
「うまかった。ありがとう」
「よかったです。お国でも、よく召し上がるんですか」
「ああ。家でも、兵舎でも。入れるものは、その日によって違うけどな」
兵士は、鍋に残る匂いをもう一度吸い込むように息をした。
「こっちの飯も好きなんだ。香辛料の強いやつも、慣れるとうまい。でも、やっぱり故郷の味はほっとするよ」
ミナは頷いた。
自分にも、サハルへ来てから好きになった味がある。
それでも、ときどき食堂の店主が作ってくれた煮込みを思い出す。
鍋の底をさらう匙の音まで、一緒に思い出すことがある。
「また、温かいものをご用意します」
「頼むよ」
兵士は仲間に呼ばれ、手を上げて歩いていった。
*
ミナたちの食事は、別に取り分けておいた。
交代で席につき、ようやく自分の匙を持つ。
「いただきます」
肉は、思っていたより柔らかかった。
芋を崩して煮汁と一緒に口へ入れると、空いていたお腹が温まるようだった。
作っている間は、少しずつしか味を見ていなかった。
座って食べると、ちゃんと食事の味がした。
「私も、前に遠くで仕事をしたときは、家の豆の煮方が恋しかったよ」
バスマが言った。
「帰って作ればいいだけなのに、向こうでは妙に食べたくなるんだね」
「……ドランさんも、そうだったのでしょうか」
灰色の大きな顔を思い出した。
外国の料理があると聞いて、食堂へ来てくれた人。
自分の国の料理はないと知って、少しだけ残念そうにしていた。
その後は、二皿も食べてくれたけれど。
「あの人は、うちの料理も気に入ってくれてたでしょう」
「はい。でも、ラウマも食べていただけたら、よかったなと思って」
穀物と豆を、葉で包んで蒸す料理。
包む葉も、たれに使う種も、まだ分からないことがあった。
名前を同じにして出せば、それで懐かしい味になるわけではない。
「次に会えたら、今より少し、作れるようになっていたいです」
「なら、教えてもらったことをなくさないようにね」
ミナは頷き、もう一口食べた。
まずは自分の昼食を、温かいうちに食べ終えることにした。
*
片づけが終わる頃には、陽が傾いていた。
洗った鍋を伏せ、借りた匙の数を確かめる。
ユスフへ材料の残りを伝え、明日の分と分けて収めた。
水場では、オルヴェンが職人と溝の端を見ていた。
「ここは、人が通ると少し沈みますね。明日は板を延ばしてもらえますか」
ミナが挨拶すると、オルヴェンは顔を上げた。
「食事、おいしかったですよ。私の分も、温かいままでした」
「よかったです。お姿が見えなかったので」
「離れた持ち場の者へ運ぶ組が、こちらにも寄ってくれました」
そこで受け取っていたのだと分かり、ミナは嬉しくなった。
器を直接渡せなくても、食べた人の声は、こうして届くことがある。
宿へ戻ってから、ミナは短い配信を始めた。
演習の様子は映さない。事前に確認した範囲で、今日作った料理の話をする。
水晶の前には、献立を書いた紙を置いた。
「牛肉と玉ねぎを煮て、芋を加えました。皆さんと一緒に、六十人分です」
〈舟待ち:六十人! 今日は店が閉まってると思ったら、そちらで仕事だったんですね〉
「はい。演習の間は、お休みをいただいています」
〈舟待ち:再開したら、それも食べたいです〉
「ありがとうございます。バスマさんたちにも、お伝えしますね」
別の名前が、文字板へ出た。
〈木の匙:うちは豆を入れます。芋だけの日は、父が少し残念そうにします〉
ミナは笑った。
「今日も、豆を入れるとおっしゃっていた方がいました。私も、食べたことがあります」
〈舟待ち:豆も芋も、両方入れれば解決では?〉
〈木の匙:それだと鍋が足りないんです〉
ミナは、自分の小鍋へ目を向けた。
こちらも、大きくしたからといって、いくらでも入るわけではなかった。
「入れたいものを、全部は入れられないですね」
同じ料理の話が、少しずつ違う家の夕飯へ変わっていく。
ミナはその間に、兵士に言われた言葉を話した。
「故郷の味は、ほっとすると言っていただけました。私が生まれたところと同じかは分からないんですけど……それでも、嬉しかったです」
記録帳の端へ指を置く。
サハルで教わった料理も、もう一頁では収まらない。
豆の煮方。魚に合わせる香草。香辛料を加える順番。
聞いたばかりの頃には、読み返さないと作れなかったものもある。
「帰ったら、向こうでも作ってみたいです。サハルで教えていただいた料理を」
〈舟待ち:そちらで、エルディアの外国食堂ですね〉
ミナは目を丸くした。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうですね。まずは、一緒に食べてもらうところから」
ラグは、どの料理を気に入るだろう。
下宿の台所で作ったら、管理人は香りの違いに気づくだろうか。
姉には、食べる前に香辛料を足しすぎないで、と言っておきたい。
配信を終え、ミナは記録帳を閉じた。
帰る日を決めたわけではなかった。
明日も、ここで作る食事がある。
それでも、持ち帰って誰かに食べてもらいたいものを、今日は幾つも思い浮かべられた。
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