第107話 同じ場所で働きます
グレンは二つの器から、芋を一切れずつ口へ運んだ。
どちらにも、肉の味がよく染みている。
先に鍋へ入れた方は、匙の腹で押すと崩れた。もう一方は角を残していたが、中まで柔らかかった。
「俺は、こっちが好きだな」
空になった器のうち、後から芋を入れた方を示す。
ミナは記録帳へ印をつけた。
「煮汁が濁りにくいのも、こちらです。ただ、配るまで温めておくと、もう少し柔らかくなります」
「その時間も入れて決めるのか」
「はい。大きな鍋だと、火から下ろしてもしばらく熱いので」
隣では、バスマが炊事担当の兵と話していた。
鍋を動かす人数と、蓋を置く場所。
食べ終えた皿が戻ってくる方へ、出来上がった料理を運ばないこと。
卓に広げた図へ、線が足されていく。
「味はいい。これを配り終えるまでに、どのくらいかかる?」
グレンに聞かれ、ミナは図を見た。
「まだ、六十人分を続けて盛ったことがなくて……」
「それなら、鍋を据えて確かめましょう」
ユスフが、空の器を持って立った。
ミナたちは、配膳台に使う板の前へ移った。
器を出す人。肉と芋を盛る人。煮汁を加える人。
実際に並ぶと、二人の肘がぶつかりそうになった。
鍋を少しずらし、匙を戻す向きを変える。
「肉を探している間、ここが止まるね」
バスマが言った。
ミナは空の鍋をのぞいた。
家で食べる分なら、欲しいものを自分で拾える。六十人分を盛るときには、最後の人の皿にも同じように肉が残っていなければならない。
「切り分けるときに大きさを揃えて、鍋ごとの数も確かめます。盛る数を決めておけば、途中で迷わないと思います」
「よし。それで一度やってみよう」
担当者が頷いたので、ミナは記録帳を開いた。
書こうとしたところへ、グレンも小さな帳面を取り出す。
「……グレンさんも、ですか」
「芋を入れる時刻を忘れそうだからな」
打ち合わせの記録とは、別の帳面だった。
*
試食が終わり、ミナが器を下げようとすると、バルドが手を伸ばした。
「持つぞ」
「ありがとうございます。そちらの籠へお願いします」
大きな手に、器が収まる。
バルドは言われた場所へそっと置いた後、ミナの方を見た。
「うまかった」
「よかったです。本番も、温かいうちに召し上がっていただけるようにしますね」
「おう。……楽しみにしてる」
そう言ってから、まだ何か続けるのかと思うくらい、その場に立っていた。
ミナが次の器を受け取りに行くと、ようやく腰の辺りへ置いていた手を下ろす。
「あなたがあんなにもじもじしているところ、初めて見たわ」
背後からリゼが言った。
バルドが振り向く。
「してねえよ」
「していたわよ。港でも、今も」
リゼは口元を押さえた。
「今回、一番の収穫かもしれない」
「まだ着いたばかりだろうが」
「そうね。明日からも楽しみ」
バルドは言い返そうとして、向こうでミナがこちらを見たので口を閉じた。
「何か、足りませんでしたか?」
「いや。何も足りなくねえ」
返事だけは、はっきりしていた。
リゼが横を向いた。肩が少し揺れている。
*
翌朝、仮設の調理場へ着くと、すでに薪の燃える匂いがした。
ミナは前掛けを結び、手を洗った。
牛肉は、煮込みに向いた部位を仕入れてあった。バスマと別の料理人が下処理を進め、ミナは玉ねぎと芋を受け持つ。
切った芋を、鍋ごとの籠へ分けていく。
今日は、全体で二百人分。
この班の六十人分も、一つの鍋へ全部詰めるのではなく、三十人分ずつの二つに分けた。
別の火床では、両国の炊事班がそれぞれの料理を作り始めていた。
「この水は、飲む方へ運んでいいんですか?」
水桶を持った手伝いの者が尋ねた。
オルヴェンが、桶につけた札を指す。
「そちらは洗い物に使います。飲み水は、蓋のある方を。補充するときも、桶を替えないでください」
水を運ぶ道と、使った水を捨てる道は、別になっていた。
地面には浅い溝が掘られ、その縁が崩れないよう整えられている。
水場の横で働いていた職人が、オルヴェンへ小さな木片を差し出した。
「こちらまで勾配をつけました。これでどうでしょう」
「確かめてみましょう。人が通る方へ戻らなければ、よいのですが」
オルヴェンの指先から、細い水の流れが生まれた。
溝を伝い、端へ向かう。
途中で溜まったところへ職人が印をつけた。
ミナは、昨日まではなかった足元の板を見た。
何度も水を運ぶ場所なのに、靴の裏が泥に沈まない。
「ミナ、こっちはもう入れていいよ」
バスマの声に、籠を持ち上げた。
*
肉が柔らかくなるまで、まだ時間があった。
次に使うものを揃え終えると、バスマが鍋の蓋を確かめた。
「少し見てきたら。交代で休もう。戻ったら、私も抜けるから」
「はい。火は、このままでお願いします。芋は、まだ入れないで……」
「分かってるよ。昨日、一緒に決めたでしょう」
笑われて、ミナも笑った。
手を拭き、戻る時刻を確かめてから、見学できる場所へ向かった。
演習場では、担架を挟んだ二人の兵士が、合図を待っていた。
布を巻いて刃を覆った武器を持つ者が、その前に立つ。
少し離れた場所では、避難する人の役を務める者たちが、荷物を抱えて並んでいる。
ミナは足を止めた。
担架の上の男が、隣の兵士に何か言って笑った。
胸の奥に入っていた力が、少し抜ける。
今日は、練習だった。
「そのまま、担架を通してみろ」
バルドの声がした。
若い兵士が盾を構え、担架の組が後ろを通ろうとする。
けれど、担ぐ者の肩が、盾役の背中へ触れた。
「止まれ。盾の位置は悪くねえ。後ろの足を、半足だけ引いてみな」
兵士が足を動かす。
バルドは盾の縁へ手を添え、軽く押した。
兵士の腰は、先ほどより揺れなかった。
「敵を見ていろ。後ろを気にして毎回振り向くな。通す方が、声をかける」
「通ります!」
今度は、担架がぶつからずに抜けた。
バルドは短く頷き、次の兵士を呼んだ。
昨日、器を置いた後で何を言おうか迷っていた人と、同じ人だった。
ミナは自分の足元を見た。
半足。
その小さな違いで、後ろを通れる人がいる。
隣の区画では、ザイードが地面を指していた。
「ここから先は、川が増水すると表面だけ泥が残ります。横一列に下がると、足を取られた者を避ける場所がなくなる」
グレンが靴先で土を確かめた。
「退く組を分ける?」
「はい。こちらの固い筋を残して、二人ずつ。後ろの組が着いてから、次を通します」
実際に兵士が動くと、盾の並びが斜めになった。
間が開く前に、隣の者が位置を替える。
王国の兵士が一度止まり、エルディア側の兵士へ足を出す順番を尋ねた。
「その地面なら、こちらのやり方よりいいですね」
グレンが言った。
「乾いた道でも同じ速さで通れると思わないように、戻ってから伝えます」
「こちらも、交代の合図を借りたい。声が届かないとき、今まで人によって違っていたので」
ザイードが答えた。
二人は、次に確かめる区画へ歩いていった。
*
戻る途中、ミナは通信担当の天幕の前を通った。
「返事が来ません」
「故障とは限らないわ。まず、受け取ったかどうかの返答と、判断が済んだ返答を分けましょう」
リゼが、担当者の書いた時刻を見ていた。
水晶の横には、短い言葉を並べた紙がある。
「受け取った、確認している。その一言があれば、こちらは何度も同じ報告を送らずに済むでしょう」
別の担当者が、試すための短い報告を読み上げた。
リゼは道具へ指を添え、返答が届くまでの間を確かめる。
ミナに気づくと、片手を小さく上げた。
「どう? 見られた?」
「はい。バルドさんが、足を少し直しただけで、担架が通れるようになって……」
「ああいうときは、迷わないのよねえ」
リゼが笑った理由は、ミナにはよく分からなかった。
「ミナ、そろそろ戻る?」
「はい。バスマさんと交代なので」
「じゃあ、また食事のときに」
リゼはすぐ、担当者の差し出した記録へ顔を戻した。
ミナも調理場へ向かった。
見たいところは、まだあった。
でも、今日は自分が戻らないと休めない人がいる。
*
鍋の中では、玉ねぎの形がほとんどなくなっていた。
肉を一つ取り分け、匙で切って確かめる。
バスマから火加減を引き継ぎ、予定の時刻に、一つ目の鍋へ芋を入れた。
そのすぐ後に、配膳担当がユスフと一緒にやってきた。
「食事に戻る組が、分かれることになりました」
ミナは手を止めた。
「人数が、変わりますか?」
「こちらの六十人分は、そのままです。先に三十人。残りは、二十分ほど後になります。搬送路を確認する組が、遠い区画まで行くので」
ミナは二つの鍋を見た。
もう一方の芋は、まだ籠に入っている。
「それなら、こちらは少し遅らせます。ただ、戻る時刻がまた変わるようなら、教えていただけますか」
「連絡を受ける人を、ここに決めておきましょう」
ユスフが配膳担当と話す。
ミナは、鍋の横の札へ予定を書き直した。
先に使う鍋と、後の鍋。
戻ってきたバスマへ説明すると、彼女は籠を持つ手伝いの者にも同じことを伝えた。
「こっちは、まだ待ってね。全部入れないように」
火床の前に、六十人分の匂いが満ちていた。
ミナは二つ目の鍋の火を整えてもらい、蓋を戻した。
大鍋を動かすときは、二人を呼ぶ。
自分はその間に、匙と器の位置を確かめる。
遠くで、演習の合図が鳴った。
「最初の組が戻るそうです」
配膳担当の知らせに、ミナは顔を上げた。
手洗い場へ、兵士たちが歩いてくる。
鎧の留め具を緩めながら笑う人。肩を回す人。
町でいつも会う顔も、見慣れない王国の服も混じっていた。
バスマが蓋を取った。
湯気が立ち上がる。
ミナは芋の端をそっと押した。崩れず、匙が入る。
「こちら、出せます」
器が、一枚ずつ前へ進み始めた。
肉を盛る。
芋と玉ねぎを添え、温かい煮汁をかける。
受け取る人の手元を確かめて、渡す。
「お待たせしました」
最初の兵士は、両手で器を受け取った。
日に焼けた頬に、細かな汗が残っていた。
匙を取ろうとして、ふと顔を近づける。
「……この匂い、久しぶりだな」
声が、少し柔らかくなった。
ミナは次の器を持ちながら、嬉しくなって、その人の顔をもう一度見た。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




