第106話 食堂はお休み、仕事は大忙し
「二百人分ですか」
ミナは、ユスフの置いた紙を見直した。
ゼロを一つ、読み違えたのかと思った。
「今の計画では。王国から来る方々、こちらの守備隊や冒険者、それに治療、運搬、炊事などを担当する人も含めた昼食の数です」
食堂の卓を見渡す。
椅子を増やしても、入りきらない。
鍋の大きさを思い浮かべたところで、隣のバスマが口を開いた。
「それを全部、うちで?」
「いいえ。私たちが担当するのは、六十人分。残りの百四十人分は、両国の炊事担当が受け持ちます」
ミナは息を吐いた。
それでも、食堂で出したことのある数より多い。
「ここで作って、運ぶんですか」
「それも、これから決めます。会場に調理場所を設ける案があるので、設備を確かめてからです」
ユスフは、食数の下へ線を引いた。
「今日は、皆さんが引き受けられるかの相談です。足りない人手や道具があれば、先に挙げてください」
ミナは紙の端へ、六十、と書いた。
一度に六十枚の皿を並べるところから、考える必要はなかった。
まず、何人で作るのか。
どこで火を使い、いつ食べてもらうのか。
「料理を手伝ってくれる人は、増えますか」
「増やします。普段、別の曜日を担当している料理人にも声をかけますし、下ごしらえの応援も募集します」
バスマが、卓へ両手を置いた。
「私は、昼の時間なら。遅くなる日は、先に教えてもらわないと困るけど」
「そこは勤務表に書きます。通常の営業を続けたままでは無理なので、演習中の食堂は休みにする予定です」
ミナは入口の札へ目を向けた。
休みにするのに、働く人は増える。
少し不思議だったが、仕事をする場所が変わるのだと思うと分かった。
「私も、参加したいです。皆さんと一緒なら」
ユスフは頷き、名前を書き込んだ。
*
数日後の打ち合わせには、ダリヤも顔を出した。
ユスフが仕入れの候補を並べる。
肉、根菜、豆、麦、パン。
薪と食器。運ぶ荷車。調理をする人と、配る人の賃金。
「食材は、できるだけ町で買ってよいでしょうか」
「もちろん。ただし、普段の店頭から買い占めるようなことにはしないでくれ。必要な量と日を、早めに伝えておこう」
ダリヤが紙を引き寄せた。
「演習のために来た人たちが食べて、町の人が買えなくなっては困るからね」
「農家と商人の両方へ確認します。運搬も、空いている日を聞いておきましょう」
ユスフの筆が動く。
ミナは、その横にある賃金の欄を見た。
「こちらも、普通のお仕事として頼まれるんですね」
「そうだよ」
ダリヤは、迷わず答えた。
「王国側が負担する費用も含め、両国で分担して用意する。食材にも、宿にも、人の働きにも、きちんと対価を払う」
窓の外を、空の籠を積んだ荷車が通った。
「来てもらう以上、こちらにも利益がなければね。町の者には、働いた分を持ち帰ってもらうよ」
ミナは、倉庫の前で板を数えていた職人を思い出した。
鍋を支える台が要るなら、誰かが作る。
人が泊まれば、寝具を洗う人もいる。
食堂の六十人分の向こうに、今まで見えていなかった仕事が続いていた。
「私たちが作る分だけでも、こんなに頼むところがあるんですね」
「だから、ユスフを困らせるほど急に献立を変えないでくれると助かる」
ダリヤが言うと、ユスフが眼鏡の位置を直した。
「変更が必要なら、早めに相談していただければ」
「はい」
ミナは、献立の余白へ大きめに丸をつけた。
*
そこから、何週間かが過ぎた。
国を越える人と荷物は、すぐには着かない。
日程が決まり、参加する者が決まり、先に必要な道具の一覧が届いた。
返事を待つ間にも、サハルでは準備が進んだ。
ミナも、サフィナとハーシムと一緒に、採取へ戻った。
最初は近い区画の、小口の依頼からだった。
槍の柄は新しくなっていた。
店で穂先を点検してもらうと、こちらは使えると言われた。長さと太さを相談し、持ち慣れたものに近い柄へ付け替えてもらった。
受け取ったとき、木の表面はまだ明るかった。
掌に残っていた古い柄の感触とは違う。
「少し、滑る気がします」
「握る場所を確かめよう。いきなり強く突かなくていい」
ハーシムに見てもらい、人のいない練習場所で、ゆっくり構え直した。
穂先を止める。引く。足を戻す。
何度か繰り返すうちに、新しい柄でも、刃の先を置く位置が分かってきた。
補助帯は、まだ手元にはなかった。
リゼからは、工房に届いたので調べていると連絡があった。
今の自分の身体強化で、どれくらい動けるか。帰りの足を残せるか。
ミナは、採取の量と一緒に確かめていった。
「今日は、ここまでにします」
自分から袋を閉じると、サフィナが水筒の蓋を締めた。
「うん。帰ろう」
帰り道では、明日の仕込みの話もできた。
以前より息を乱さず歩ける坂もあった。
それが嬉しくても、もう一つ先の区画へは行かなかった。
*
演習に来る王国の一行が、もうすぐサハルへ着く。
そう知らされた朝、食堂の入口に、臨時休業の札を掛けた。
理由を書いた紙を、その下へ結ぶ。
戻る日も書いた。
「飯は、どこかで食えるのか?」
通りかかった常連が尋ねた。
「演習に参加する方の食事を作るので、一般のお客様への営業はお休みなんです。再開は、こちらの日です」
「そうか。じゃあ、戻ったら頼むよ」
男は札を見て頷き、歩いていった。
ミナは結び目を確かめた。
食堂の中では、バスマたちが運ぶ器具を布で包んでいる。
私物の小鍋は持っていかない。用意された大鍋と、借りる調理台を使う。
包丁と、自分の手に合う道具だけを袋へ収めた。
今日は準備と、炊事担当同士の打ち合わせ。
試食は少人数分だけで、本番の二百人分を作るのは演習の日からだった。
「冠位の皆さんも、同じご飯なんでしょうか」
ミナが尋ねると、ユスフは食数の表を見た。
「人数には入っています。別の献立という連絡は来ていませんね」
六十人分のうち、誰がどこで食べるかも、担当者と合わせる必要がある。
数だけでは決まらないことが、まだあった。
ミナは袋の紐を結び、皆と一緒に荷車へ載せた。
*
昼前、港へ王国の一行が着いた。
ミナは会場へ荷物を運ぶ途中、ナディムと一緒に岸の端で待っていた。
先に下りた兵士たちが、荷を降ろす場所を確かめる。
同じ色の外套が続く中に、見覚えのある顔があった。
グレンだった。
旅の荷を肩へ掛け、まず周囲の人の流れを見る。
その後ろに、ひときわ大きなバルドの姿があった。
リゼは箱を運ぶ者へ何か伝え、オルヴェンは岸へ足を下ろしてから、川の方を振り返っていた。
四人が同じ場所にいる。
ミナは口を開きかけたが、先にダリヤたちが進み出たので、その場で待った。
「ようこそ、サハルへ」
ダリヤが挨拶をした。
グレンは王国側の担当者を紹介し、受け入れへの礼を述べた。
その隣へ、ザイードが一歩出た。
「ザイードです。ようやく、直接お目にかかれました」
背筋を伸ばした姿は、谷へ向かうときと同じだった。
けれど、声には少し違う響きがあった。
「若い頃から、あなたの遠征記録を読んでいました。先日の助言にも、改めて礼を申し上げたい」
グレンが手を差し出した。
「こちらこそ。現地で守り切ったのは、あなたたちです。俺も、隊を戻すときの報告を読ませてもらいました」
「追撃を止めたところですか」
「ええ。あの状況で、まだ調べていない流路を残していると伝えてくれた。あれが、町側の警戒を続ける判断にも役立ちました」
ザイードの表情が、わずかに変わった。
大きな魔物を倒したことより先に、そこを挙げられるとは思っていなかったようだった。
「今回は、直接確かめていただけます」
「ぜひ。地図で分からなかった場所を、教えてください」
握手を交わす二人を、ミナは少し離れて見ていた。
あのとき、文字と報告でつながっていた人たちだった。
今は、同じ岸に立って話している。
*
荷の移動が始まると、グレンがこちらに気づいた。
「こなべさん」
声をかけられ、ミナは一歩前へ出た。
「お久しぶりです。あのときは、ありがとうございました」
頭を下げると、グレンは少し身を屈めた。
「元気そうでよかった。仕事には戻れたんだな」
「はい。今日は、炊き出しの準備です」
「そうか。よろしく頼む」
前掛けの入った袋を見て、グレンが笑った。
そこへバルドが寄ってきた。
「……こうして会うのは、初めてだったな」
「はい。でも、いつも教えていただいているので……初めてという気が、あまりしません」
「そうか。……俺もだ」
「ちゃんと食ってるか」
「はい」
「眠れてるか」
「はい。今は、朝も普通に起きられます」
「そうか」
頷いた後も、バルドは何か言いたそうだった。とても言葉を選んでいるように見えた。
その様子をリゼが見てくすくすと笑ったあと、隣からミナの左腕を見た。
「傷も、よくなったようね」
「治癒師の方に治していただきました。補助帯のことは、すみません」
「その話は、落ち着いてから。工房で確認を続けているところだから、今日は返せないの。使ったときのことは、あとで少し聞かせて」
「はい」
リゼはそこで、少しだけ声を柔らかくした。
「顔を見て聞けるのは、よかったわ」
オルヴェンが、穏やかな表情でミナを見た。
「少し背が伸びたかな?もう持ち場があるのですね。引き止めてはいけないかな」
「皆さんも、この後、調理場所を見に来られると聞きました」
「ええ。水と、使い終わった後の片づけ方を確かめます。食事の時間だけで済む仕事ではありませんから」
ミナは頷き、それから一行を見渡した。
「レオンさんは、今回は……」
「王国に残っている。調査の報告と、国内での仕事があるからな」
グレンが答えた。
「こなべさんにもよろしく、と言っていた」
「はい。また、記録でお知らせします」
ミナは袋を持ち直した。
ナディムの呼ぶ声に振り返り、四人へもう一度会釈する。
「それでは、先に行っています」
*
仮設の調理場所には、すでに火床が組まれていた。
ミナたちの六十人分は、エルディアの料理人も加わった班で作る。
王国側からは、炊事を取りまとめる兵が打ち合わせに来ていた。
パンと飲み水の担当は別にいる。配膳する場所も、鍋を洗う場所も、印をつけた図に載っていた。
ミナは挨拶をしてから、調理台の高さを確かめた。
少し高い。
背伸びをする前に、バスマが足元を指した。
「台を用意してもらってるよ。ユスフさんが言っておいてくれた」
踏んでみると、ぐらつかなかった。
両足を置いて、包丁を使う高さを見る。
「これなら、大丈夫です」
試食用に作ったのは、牛肉と玉ねぎを柔らかく煮たものだった。
本番の候補の一つで、香辛料を強く使わず、肉の煮汁で味をまとめる。
芋を加える時刻を変えた二つの小鍋から、少しずつ器へ取り分けた。
グレンたちが入ってきたときには、打ち合わせ用の卓に匙も並べ終えていた。
「あの、皆さんのお食事も、こちらと同じものでよいのでしょうか。別にご用意するなら、先に……」
「俺たちも同じもので頼む」
グレンが言った。
「演習で出すものを食べて、時間や量も確かめたい」
ミナは少しほっとして、頷いた。
バルドは小鍋へ目を向け、オルヴェンは漂ってきた匂いに顔を上げた。
リゼが、二つの鍋の違いを尋ねようと口を開く。
ミナは、その前に手洗いの場所を指した。
「皆さんの分はありますから、先に手を洗ってください」
四人が、ほとんど同時にそちらを見た。
バルドが一番に袖をまくり、グレンが持っていた書類を脇へ置く。
「……うちの厨房でも、あのくらい素直に動いてもらえると助かるのだが」
ダリヤが小さく言った。
隣にいた職員が、聞こえなかったふりをした。
ミナは器を並べ直した。
まだ今日は、ほんの少しずつの試食だ。
本番には、もっと多くの手と、大きな鍋が動く。
戻ってきた四人と、両国の担当者たちへ、温かいうちに器を渡した。
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