第105話 まだ知らない料理
「ルガンのラウマ?」
ナディムは、ミナの記録帳を覗き込んだ。
店の奥では、従業員が木箱へ蓋をしている。袋に詰めた香辛料と、乾いた果物の甘い匂いがした。
「食べたことがあるんですか」
「あるよ。ただ、私が食べたものと、その人の話していたものが同じかは分からないな」
椅子を勧められ、ミナは鞄を膝へ置いた。
食堂へ復帰した翌日は、仕事を入れなかった。
今日は買い物と、ナディムに話を聞くところまで。サフィナにもそう伝えてきた。
「葉に包んで蒸すものは、港でも見かける。ただ、葉を開いたら甘い豆だったこともある。肉のつもりで買ったから、驚いた」
「ドランさんも、地方によって甘いものがあると言っていました」
「なら、その辺りは同じだね」
ナディムは棚から地図を取った。
卓へ広げ、エルディアの位置を示す。
それから、さらに南の方へ指を動かした。
「ルガンはここだ。亜人の暮らす町が多い国だ。私が取引している商人にも、向こうの出身者がいる」
ミナは、指の先を見た。
昨日までは、記録帳に書いた名前だけだった。
地図にある国の形と結びつくと、そこまでの道が気になった。
「サハルから、行けるんですね」
「もちろん。ただ、地図で指を滑らせるほど簡単には着かないよ。季節によって使いやすい道も変わる。片道で約二十日、行くなら、予定を立ててからだ」
「はい。まだ、すぐに行こうというわけでは」
「分かっている。けれど、そういう顔で地図を見る人は、いずれ行くからね」
ミナは地図から少し顔を離した。
ナディムが笑い、帳面の空欄へ目を向けた。
*
「葉の方は、今は置いていない。生のまま運ぶには、売り先が限られるんだ」
ナディムは小さな袋を一つ持ってきた。
口を開けると、中には黄みがかった細かい穀物が入っていた。
「これは向こうでよく食べられるものの一つ。あの包み料理にも使うと聞いたことはある」
小皿に少量を出してもらう。
ミナは顔を近づけた。
普段使う麦より、ずっと粒が小さい。
「これが、ドランさんの食べていたものかは……」
「本人に確かめた方がいいね。同じ国でも、手に入りやすいものは場所で違うから」
ナディムは、値段を書いた札を添えた。
ミナは財布の中を確かめた。
食堂で何十人分も使うには、いつもの麦より高い。けれど、一度試してみる分なら買えそうだった。
「少しだけ、お願いします。まず、普通に炊いてみたいです」
「味を知らないまま、ほかの材料へ混ぜてしまわない方がいい。よい買い方だと思うよ」
量りの皿へ、穀物がさらさらと落ちた。
ミナは包む葉についても尋ねた。
香りが似ている葉なら、こちらにもあるかもしれない。
しかし、熱を通して使えるものなのか、料理の味を変えてしまわないかは、採取の図鑑だけでは分からない。
「あの料理を作れる人にも、聞いてみたいです」
「取引先に、尋ねておこう。返事は少し待ってもらうけれど」
「ありがとうございます」
ナディムは袋を閉じ、ミナへ渡した。
「前に、君の国の食材をこちらへ持ってこられないかと考えたことがある。その逆も、面白いかもしれないな」
「エルディアのものを、王国へ?」
「それもある。ルガンの穀物を、君が王国で料理してみるかもしれない。どこで覚えて、どこで食べるかは、一つには決まらないからね」
ミナは、小さな袋を両手で受け取った。
これをコルナの台所へ置いたら、店主は何と言っただろう。
まず炊いてみろ、と言う気がした。
*
ドランに会えたのは、翌日の昼だった。
食堂の営業中は落ち着いて話せないので、ギルドで会う約束をしていた。
入口の脇の長椅子に、灰色の大きな背中があった。
足元には、前に見た外套と、紐を締めた旅の荷物が置いてある。
「待たせたか?」
「いえ。今、来たところです」
ミナは隣へ座る前に、穀物を少し入れた包みを見せた。
ドランは広い掌へ数粒を受け取り、顔へ近づけた。
「ああ。これだと思う。炊くと、少しほろっとするやつだろう」
「昨日、少し炊いてみました。麦より、早く柔らかくなりました」
「母は、豆を煮ている間に、こっちを用意してたな。混ぜる前に、味見をさせてもらった」
ドランは指に残った粒を、包みへ戻した。
「あと、たれのことを思い出した。種を炒って潰したものが入ってた。酸っぱいだけじゃなくて、少し重い感じのやつだ」
ミナは記録帳を開いた。
「どんな種でしたか」
「……そこまでは、見てなかった」
ドランは眉間を掻いた。
「食うときは、何も考えてなかったんだな、俺」
「私も、食堂にあるものが、別の国ではどんな値段なのか、知りませんでした」
サハルの市場で、見覚えのある素材に驚いたことを話した。
コルナでは、いつもの棚にあったものだった。
仕入れるまでの道も、誰が採っていたのかも、知らないものは多かった。
ドランが、ゆっくり頷いた。
「帰ったら、一度ちゃんと手伝ってみるか」
「お母様と?」
「うん。今さら葉の洗い方から聞いたら、笑われるだろうけどな」
大きな体を小刻みに揺らしながらくっくっくっとドランが笑う。ミナも笑った。
その後で、足元の荷物へ目を向けた。
「もう、出発するんですか」
「明日の朝だ。頼まれてた護衛の話がまとまった。ここから、また別の町へ行く」
「そうですか……」
たれの材料も、包む葉も、まだ分からなかった。
全部揃う頃には、ドランはこの町にいない。
「お出しできるところまでは、間に合いませんでした」
ドランは、一瞬きょとんとした。
それから、大きな手を振った。
「そんな約束はしてないだろう。俺が懐かしい飯の話をしただけだ」
「でも、食べたそうだったので」
「ああ。食いたかったな」
隠すような言い方ではなかった。
ドランは荷物の紐を引き、緩みがないか確かめた。
「けど、あの日は鶏の飯を二皿も食った。あれはあれで、ここへ来てよかったと思ったぞ」
ミナは記録帳を閉じた。
まだ作れないことは、変わらない。
けれど、出した料理まで足りなかったわけではないのだと、少し安心した。
「また、どこかでお会いできたら」
「そのときは、腹を空かせて行く」
ドランが先に言い、ミナは頷いた。
*
夕方、宿の台所を借りた。
使う時間を確かめ、買った穀物を器へ量り出す。
今日は配信をしながら、昨日と水の量を変えて炊いてみるつもりだった。
豆は、宿で分けてもらった茹で豆を使う。材料代は、先に支払ってある。
「ルガンの料理そのものではないんです。葉も、たれも、まだ分からないので。今日は、中に入る穀物を試しています」
小鍋へ水を入れた。
昨日は少し柔らかくしすぎた。
そのまま食べるなら悪くなかったが、さらに包んで蒸したら、潰れてしまうかもしれない。
文字板に、言葉が出た。
〈外国食堂なのに、知らない料理ばっかりなんだな〉
ミナの手が止まった。
匙の先から、水が一滴落ちた。
知らない料理は、多い。
さっきも、自分でそう説明した。
けれど、その一文を読むと、店の札まで間違っていたような気がした。
何と答えるか考えている間に、鍋の底から小さな泡が上がった。
ミナは火を弱めた。
「はい。知らないもの、たくさんあります」
声が、少し小さくなった。
一度息を吸い、続ける。
「今日は穀物を見てもらえて、一つ分かりました。残りも、教わったり、調べたりしてみようと思っています」
蓋を取って、湯気の向こうを見る。
今は、火加減を見ていなければいけなかった。
「昨日より、水を少なくしています。炊けたら、粒がどれくらい残るか比べますね」
説明を続けると、別の人から、水を吸うのが早い穀物なのかと質問が来た。
ミナは、昨日かかった時間を記録帳で確かめた。
さっきの一文はまだ気になったが、次に聞かれたことには答えられた。
*
炊き上がった穀物を、二つの器へ分けた。
片方はそのまま。
もう片方には温めた豆を加え、塩と油を少し混ぜる。
まず、何も混ぜていない方を食べた。
昨日より粒が残り、噛むとほのかに甘い。
「こちらの方が、私は好きです」
次に、豆を混ぜた方へ匙を入れる。
小さな粒の間に、豆の柔らかさがある。味付けは簡単でも、食べ応えが変わった。
〈舟待ち:それだけでも、夕飯になりそうだね〉
「はい。今日はこれと、野菜のおかずにします」
少しして、やまみちの名前が出た。
〈やまみち:包む前の味が分かっていれば、葉の香りが加わったときにも比べられるね〉
「はい。次に同じものを炊けるように、水の量も書いておきます」
〈やまみち:覚えている人に聞けたのも、よかったね〉
ミナは頷いた。
「明日、出発するそうなんです。今回は間に合わなかったですけど、また会えたら、教えてもらったものを作ってみたいです」
言い終えて、器へ目を落とした。
同じ穀物でも、これがドランの家の味だとは言えない。
名前を聞いた料理へ、勝手に近づけてしまうのも違う気がした。
記録帳には、穀物の試し炊き、と書いた。
ラウマの頁は、まだ先に残しておく。
配信を終える頃、さっきの言葉に返事をしたいと申し出るコメントも届いた。
ミナは少し迷い、首を振った。
「ありがとうございます。でも、今日はこのご飯のお話で終わりにしたいです」
うまく言えたかどうかは、分からなかった。
それでも、誰かと誰かが言い争う画面にはしたくなかった。
「見てくださって、ありがとうございました」
水晶を止め、冷めかけた豆の方を一口食べた。
冷めると、少しまとまりやすくなる。
ミナは匙を置き、そのことも書き足した。
*
翌朝、港でドランを見送った。
大きな背中が、荷運びの人の間を歩いていく。
出発前に少し話せたので、種を潰したたれについて調べてみると伝えた。
ドランは、母親に聞けたら自分も覚えておくと笑った。
舟へ乗る直前、振り返って大きく手を振った。
ミナも振り返した。
遠くの国から来た人が、また遠くへ向かう。
見送る側になって初めて、次にいつ会えるか分からない約束の長さを感じた。
ナディムは、その隣で荷の受け渡しを確かめていた。
出発する舟が岸を離れると、手元の紙を畳んでミナへ向き直る。
「この後、食堂へ寄れるかい。ユスフから、話しておきたいことがあるそうだ」
「次の営業のことですか?」
「少し先の予定だよ。王国とエルディアで、合同の演習をする準備が進んでいるらしい」
ミナは顔を上げた。
「王国から、人が来るんですか」
「そうなるね。人数も日程も、まだ調整中だ。ただ、食事を用意できる場所を、今から確かめている」
食堂の卓が頭に浮かんだ。
兵士たちが来たら、いつもの席では足りないだろう。
鍋の数も、食器も、来る時刻も。
以前、ダリヤの隣で聞いていた話を、今度は自分の仕事として考えた。
「まず、どれくらいの人数か、聞かないといけませんね」
「うん。それを相談するところからだ」
ミナは港の向こうを、もう一度見た。
ドランの乗った舟は、少し小さくなっていた。
鞄の中には、まだ空欄のある料理の記録が入っている。
それを持ったまま、ナディムと食堂へ向かった。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




