第104話 知らない故郷の味
食堂の入口で、ミナは袖をまくった。
左の肘を曲げる。指を開く。
腕には、もう包帯も傷の赤みもなかった。
ダリヤと町を回った日から、二週間あまりが過ぎていた。
最初は宿の近くを歩き、次は買い物についていった。階段で足を止めることがなくなり、朝起きたときの重さも消えた。
診察を受け、仕事へ戻ってよいと言われたのは、三日前だった。
「そんなに確かめてると、袖が擦り切れるよ」
バスマが台所から顔を出した。
ミナは腕から手を離した。
「久しぶりなので」
「うん。じゃあ、まず手を洗って。今日は根菜からお願い」
「はい」
水を汲み、石鹸を泡立てる。
いつも使っていた布は、同じ場所に掛かっていた。
台の上には、蕪と人参、玉ねぎ。
その隣に、下処理を済ませた鶏肉が並んでいる。
今日の献立は、鶏と根菜の香草蒸し焼きだった。
大きな鉄鍋に野菜を敷き、その上で焼き目をつけた鶏肉を蒸す。肉の汁を吸った野菜も、一緒に皿へ盛る。
添えるパンで、最後の汁まで食べてもらうつもりだった。
「鶏肉、もう切ってくれたんですね」
「私が朝やった。今日は仕込みを分けるって、決めたでしょう」
ミナは頷いた。
戻った初日に、休んだ分まで働こうとしないこと。
ユスフに勤務の時間を確かめられたとき、自分でもそう約束した。
包丁を手に取る。
柄が掌へ収まると、少しだけ息が浅くなった。
広場で握っていた、同じ包丁だった。
ミナは刃を台へ置き、一度、息を吐いた。
目の前にあるのは、洗った蕪だ。
切ったものを入れる器を右へ寄せ、転がらないように一つを置く。
刃を下ろすと、白い切り口が見えた。
少し青い、野菜の匂いがした。
「このくらいの大きさで、いいですか」
バスマが一つを手に取り、厚みを見た。
「いいね。人参は、もう少し小さめにしようか」
ミナは次の一本へ手を伸ばした。
二本目を切り終える頃には、いつもの順番を考えられるようになっていた。
*
昼の鐘の少し前に、入口の札が裏返された。
町では、まだ修理の続く場所がある。
それでも市場には店が戻り、食堂も通常の営業を再開していた。
ミナの担当する曜日の札も、今日からまた掛かっている。
「おう。小さな店主、戻ったか」
最初に顔を出したのは、倉庫で働く男だった。
ミナが頭を下げると、片手を振って止める。
「挨拶はいいから、今日の飯を教えてくれ」
「鶏と根菜の蒸し焼きです。香草を使っていますが、辛くはありません」
「じゃあ、それ。パンもつく?」
「はい」
「よし」
男はいつもの席に座った。
少し後から来た客が、向かいへ腰を下ろす。
港に入った荷の話と、直った道の話が始まった。
ミナは鍋の蓋を持ち上げた。
湯気の向こうに、鶏の皮の焼き色が見える。
人参へ串を通し、火の通りを確かめる。
「二人分、お願いします」
給仕の声に、皿を二枚並べた。
野菜を取り、肉を置く。底の汁を少しかけ、刻んだ香草を散らす。
バスマがパンの籠を添えた。
「はい、できた」
皿が台所から出ていく。
少しして、客席から声が聞こえた。
「この蕪、うまいな」
ミナは、次の皿を取りながら笑った。
*
昼の混雑が一度落ち着いた頃、入口に大きな影ができた。
背の高い男だった。
肩幅が広く、旅用の厚い外套を片腕に掛けている。灰色の肌は首や手の甲で厚く折れ、鼻先には短く太い角があった。
丸い耳が、戸口の声に合わせて動く。
犀の特徴を持つ亜人だった。
男は梁へ頭をぶつけないように少しかがみ、店内を見渡した。
「ここか。外国の飯を出す店ってのは」
給仕が頷くと、ぱっと顔を明るくした。
「ルガンの料理もあるか?」
「ルガン……ですか」
台所から顔を出したミナは、聞き返した。
国の名前だということは、男の次の言葉で分かった。
「俺の国だ。亜人の多いところなんだが、知らんかな。あっちの飯が食えるかもしれないって、宿で聞いてな」
ミナは前掛けで手を拭き、客席の方へ出た。
「すみません。今は、私の育ったアルセリア王国の料理と、こちらで教わったものを作っています。ルガンの料理は、まだ知らなくて」
「ああ、そういうことか」
男の耳が、少し下がった。
入口の札を振り返り、もう一度頷く。
「なるほどな。いや、勝手に期待して来たんだ。すまんすまん」
大きな手を軽く上げた。
そのまま帰ってしまうかと思ったが、男は卓の上の皿へ目を移した。
隣の客が、パンで汁を拭っている。
「それで、あれは何だ? いい匂いがする」
「鶏と根菜の、香草蒸し焼きです」
「じゃあ、それを頼む。腹は減ってる」
給仕が椅子を引くと、男は一度座面を見た。
「端の長椅子を使ってもいいか。こいつだと、俺も椅子も落ち着かん」
案内された長椅子へ、そっと腰を下ろした。
木が少し鳴った。
男はその音を聞き、真面目な顔で一つ頷いた。
「よし。仲良くできそうだ」
ミナは思わず笑ってから、台所へ戻った。
*
男の皿は、驚くほど早く空になった。
急いで飲み込んでいるわけではない。
一口食べて、頷く。野菜を食べて、もう一度頷く。
パンを汁につけると、今度は少し目を細めた。
「うまいな」
給仕が通りかかるたびに、そう言った。
三度目には、台所のバスマまで聞こえて笑っていた。
「同じもの、もう一皿いけるか?」
ミナは鍋の中と、残っている注文を確かめた。
「はい。ご用意できます」
「ありがたい。あと、そのパンも」
二皿目を運ぶと、男は礼を言ってから、ミナを見上げた。
「あんたが作ってるのか」
「バスマさんと、一緒に」
台所へ手を向けると、バスマが鍋の向こうで会釈した。
男は二人へ交互に頷いた。
「俺はドラン。冒険者だ。川沿いの護衛で来て、今はこっちの仕事をいくつか受けてる」
「ミナです。採取の仕事と、週に一度、こちらの料理をしています」
「二つもか。俺は料理の方は、さっぱりだ」
ドランはパンを割った。
大きな指なのに、籠の中へ屑を落とさないよう、皿の上でゆっくり割っていた。
「ルガンには、どんな料理があるんですか」
「色々あるが……俺が食いたかったのは、葉で包んだやつだな」
丸めた掌を、卓の上へ置く。
「このくらい。いや、店で出すのは、もう少し小さいか」
ミナには、その掌の大きさだけで十分な一食に見えた。
「中に、何を入れるんですか?」
「粒の小さい穀物と豆。肉が入る日もある。葉ごと蒸して、開けたところに、酸っぱいたれを少し」
「包む葉にも、香りがあるんでしょうか」
「ある。青臭いって言う人もいるが、俺はあれがいい。開くと、飯より先に葉の匂いがするんだ」
話しながら、ドランの指が、見えない包みを開いた。
「この辺の葉では、違うんですか」
「どうだろうな。俺は、包んで出てきたものを食ってた側だから」
ドランは自分で言って、声を上げて笑った。
「家じゃ、葉を洗えって言われると面倒がってたくせに、離れると食いたくなる。勝手なもんだ」
ミナは、台所の方へ目を向けた。
休みの日にバスマと二人で洗った香草が、布の上に並んでいる。
「私も、コルナで食べていたものを、こちらで作ったことがあります」
「コルナ?」
「育った町です。小さな食堂にいたので」
「そうか。それで、ここの飯にはあんたの町の味がするんだな」
ミナはすぐには答えられなかった。
同じように作ろうと思っても、肉も粉も、手に入るものが違う。
こちらで教わり、変えたところもある。
「……全部、そのままではないんですけど」
「それでも、覚えてる味があるんだろう?」
「はい」
「いいな」
短く言って、ドランは鶏肉へ匙を入れた。
ミナは、今度こそ何かを作ってあげたいと思った。
けれど、包む葉の名前さえ、まだ分からなかった。
*
ドランが帰る前に、ミナは小さな紙を持っていった。
「もし覚えていたら、お料理の名前を教えていただけますか」
「ラウマだ。俺の町じゃ、そう呼んでる。隣の地方だと、同じ名前で甘いのが出てくることもあるぞ」
ミナは書き留めた。
穀物と豆。大きな葉。蒸す。酸味のあるたれ。
使う葉と、穀物の種類のところは、空けておく。
「それで作るつもりか?」
「まだ、作れません。知らない材料が多いので。でも、調べてみたいです」
ドランは少し驚いた顔をした後、大きく頷いた。
「俺も、同郷のやつに会ったら聞いてみよう。自分で作れるやつなら、もう少しましな説明ができるはずだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。うまかった。俺の国の飯がなくても、また来るよ」
料金を確かめ、硬貨を卓へ並べた。
外套を取り、入口でまた頭を下げる。
今度は挨拶と、梁を避けるための両方だった。
外へ出た後、ドランは振り返った。
「ああ、そうだ。葉の包みは、一つでかなり腹に溜まる」
「はい」
「俺の二皿分を基準にするなよ」
給仕が笑った。
ミナも笑って、紙の端へ、小さくその注意を書き添えた。
*
営業を終えると、ユスフが帳面を閉じた。
「今日は、ここまで。片づけの続きは、こちらでやります」
ミナは自分の使った包丁を拭き、刃を収めた。
腰に少し張りがある。でも、椅子へ座り込まなければ動けないほどではなかった。
忙しくなる前に水を飲み、野菜を切り終えたところで一度座った。
休む時刻も、仕事の順番に入れてみた。
「無理は、していません」
「見ていましたよ。途中で休めたのも含めて」
ユスフにそう言われ、ミナは少し肩を下ろした。
帰り際、入口の札を見た。
外国食堂。
王国から来た自分には、自分の知っている料理を出す日だった。
けれど、ルガンから来たドランには、別のものを思い浮かべる言葉だった。
サハルには、川を渡って、いろいろな人が来る。
その人たちには、それぞれ帰る町と、食べ慣れた料理がある。
宿へ戻ってから、ミナは短い配信を始めた。
「今日から、食堂に戻りました。皆さんが仕込みを分けてくれたので、最後までできました」
〈舟待ち:おかえり。札、また出ていたね〉
「はい。ありがとうございます」
復帰を喜ぶ文字を読み、それから記録帳を開いた。
「それと、知らない料理を教わったんです。ルガンという国の、葉に包んで蒸すご飯で」
説明しながら、空欄へ指を置く。
文字板には、葉で包む料理なら自分の家にもある、という言葉が届いた。
けれど、使うものを聞くと、それはまた違う料理らしかった。
「同じように包んでいても、中身も、葉も違うんですね」
ミナは隣の頁へ、教わったことを書いた。
どちらが正しいかを、決める必要はなかった。
ドランが食べたいのは、ドランの町で食べていたものだ。
今日届いたコメントの向こうにも、別の町のご飯がある。
「いつか、向こうで食べてみたいです」
口にしてから、ミナは少し照れた。
まだ、ルガンがどこにあるのかも、地図で確かめていない。
「……まずは、どんな国なのか、教えてもらうところからですけど」
記録帳の空いているところへ、ナディムに聞く、と書いた。
新しい料理の名前の隣に、新しい国の名前が並んだ。
※近況ノートに挿し絵・キャラクター紹介イラストを掲載中です




