第四章 第十二話 消える家畜
朝、村を起こしたのは鐘ではなく、家畜小屋から上がった男の怒鳴り声だった。
宿の二階で目を覚ましたアレンは、最初、それが誰かを叱る声だと思った。だが続いて別の家からも戸が開く音がし、廊下を走る足音まで聞こえてくる。隣の部屋にいた鈴葉もすぐに出てきた。二人が宿の外へ出ると、村の西側にある家畜小屋へ人が集まり始めていた。
「何かあったみたいね」
「行ってみよう」
昨日、山羊へ干し草を運んでいた老人が柵の前に立っていた。顔からは前日の穏やかさが消え、開いた柵の内側を何度も見回している。木の扉は壊れていない。柵も倒れていない。それなのに、中にいたはずの山羊の数が明らかに少なかった。
「三頭いない」
老人が低く言った。
「夜に外へ出したんですか?」
アレンが尋ねると、老人は強く首を振った。
「こんな時期に夜の放牧なんかするか。日が落ちる前に全部戻した。俺が数えたんだ」
柵の中では残った山羊が落ち着かない様子で鳴いていた。羊や牛は別の区画にいるらしく、そちらには異常がないように見える。アレンは扉の留め具へ目を向けた。外された様子はない。木材に新しい傷もなく、無理にこじ開けた跡もなかった。
「盗まれた?」
近くにいた若い村人が言ったが、老人はすぐに否定した。
「人間なら扉を開ける。三頭抱えて柵を越えられるわけもない」
その言葉で周囲が静かになった。
鈴葉は柵へ近づいたものの、中へ入らず、鼻先をわずかに上げるようにして空気を確かめた。アレンは何か分かったのかと聞きかけたが、彼女は先に小さく首を振った。
「ここだけじゃ判断できない。匂いも家畜と人が多すぎる」
断定しない答えだった。
◇
騒ぎを聞きつけ、バルドや他の護衛たちも広場へ集まってきた。商隊はもともとこの村で一日、車軸や幌を点検してから先へ進む予定だったため、出発は翌朝になっている。火山に近づけば宿場同士の距離も長くなり、壊れてから直すより、ここで整えておく方がいいという判断だった。
「三頭だけか?」
バルドが老人に確認する。
「今朝はな」
「今朝は?」
その言葉に、アレンが反応した。
老人はしばらく黙っていたが、やがて家畜小屋の奥にいる村人たちを見た。
「初めてじゃない」
周囲の空気が変わった。
「四日前に羊が二頭消えた。別の家だ。その次の晩は何もなくて、二日前に山羊が一頭。昨日は無事だった。だから、柵の閉め忘れか、どこかから逃げたんだと思おうとしてた」
「見つかってないの?」
鈴葉が尋ねる。
「一頭もな」
別の女性が答えた。彼女の家でも羊が消えたらしい。
「村の周りは探した。焼けた森の方も、放牧地も。死体も血もなかった」
アレンは眉を寄せる。家畜が逃げたなら、どこかに痕跡が残るはずだ。獣に襲われたならなおさらだ。しかし今は、それだけで何が起きたのかを決めるには情報が足りない。
「夜、鳴き声は?」
「聞いてない」
「犬は?」
「吠えなかった。少なくとも俺の家ではな」
答えが重なるほど、不自然さだけが増していく。
ガレスが柵を見ながら腕を組んだ。
「人間の盗賊なら、何日も分けて一頭二頭持っていく理由はある。だが痕跡がなさすぎるな」
「決めつけるなよ」
バルドがすぐに言った。
「痕跡が見つかってないのと、痕跡がないのは違う」
アレンはその言葉に頷いた。最近ずっと意識していることだった。分からない部分を、自分に都合のいい答えで埋めてはいけない。
◇
朝食の後、村の広場では家畜を持つ家々が集まり、夜の見張りを増やす話をしていた。昼の仕事を休むわけにはいかないため、誰が何刻まで見張るかを決めている。村人たちの顔には苛立ちだけでなく、じわじわとした不安が広がっていた。
「前にもこういうことは?」
アレンが昨日の老人に尋ねる。
「小さい獣に鶏をやられることはある。山羊が逃げることもな。だが、こんな消え方は知らん」
「魔獣の可能性は?」
「あるだろうさ」
老人は西の山を見た。
「最近は山の方から下りてくる獣も増えてる。バルドもそう言ってたんだろ?」
「はい」
「なら、そのどれかかもしれん」
そこへ、広場の端で話を聞いていた少年が口を挟んだ。
「空のやつじゃないの?」
母親らしい女性がすぐに少年の肩を引いた。
「またその話をして」
「だって、見た人いるじゃん。でっかいのが飛んでるって」
アレンと鈴葉は一瞬だけ目を合わせた。
村でも、空の影の噂は届いているらしい。
「家畜を空から持っていってるって言う奴はいる」
老人が苦々しく言った。
「柵が壊れてない。血もない。だから上から来た何かがさらっていくんだってな」
「あなたはそう思ってるんですか?」
アレンが尋ねると、老人は即答しなかった。
「分からん。だが、夜に三頭消えて、地面に何も残らないなら、そう考えたくなる奴が出るのも分かる」
それは証拠ではなかった。ただ、説明できない状況に村人たちが意味を与えようとしているだけだ。アレン自身、巨大な影を何度も見聞きしていなければ、もっと簡単に笑い飛ばしていたかもしれない。
鈴葉が低い声で言う。
「大きなものが空を飛んでいることと、この村の家畜が消えていることは別の話よ」
「うん」
「今は、ね」
最後の一言だけがわずかに重かった。
◇
昼過ぎ、商隊の整備を手伝いながらも、アレンは何度か家畜小屋の方へ目を向けた。村人たちは柵を高くするための板を運び、縄や金具を追加している。扉には新しい閂まで取りつけられていた。
それで防げるのかは、誰にも分からない。
ニアが弓の弦を張り直しながら、アレンの視線に気づいた。
「気になる?」
「そりゃな」
「空の影と結びつけてる?」
「まだ」
「まだ、か」
ニアは少し笑ったが、からかう調子ではなかった。
「私は鳥より獣を疑う。地面の痕跡をちゃんと見てからだけど」
「明日までここにいるし、村の人が許してくれるなら見てもいいかもな」
アレンがそう言うと、鈴葉が隣から口を挟んだ。
「勝手に決めない」
「分かってるよ。だから許してくれるならって言っただろ」
「ちゃんと学習してる」
「最近それ多くない?」
鈴葉は答えず、わずかに笑った。
夕方が近づくと、家畜はいつもより早く小屋へ戻された。山羊も羊も一頭ずつ数えられ、牛の区画まで確認される。昨日はただの日常だった作業が、今日は村全体の緊張を帯びていた。
アレンも、柵の向こうで干し草を食べる山羊たちを見た。朝に三頭が消えたことなど知らないように、残った家畜はいつも通りに過ごしている。
西の空には、巨大な影は見えなかった。
それでも日が沈むにつれ、村人たちは何度も空と柵を見上げた。誰も何が来るのか知らない。そもそも、本当に何かが来るのかさえ分からない。
ただ一つ確かなのは、数日前までそこにいた家畜が、夜を越すたび少しずつ消えているということだけだった。
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