第四章 第十話 焼けた森の境界
翌朝、宿場を出た時には、西の空に昨夜の赤みは残っていなかった。遠雷のような音も止み、空は薄い雲を浮かべながら静かに明るくなっている。だが、前日の灰は消えていなかった。宿場の屋根や道端の草には灰色の粉が残り、馬車が動き始めるたび、車輪の後ろで細かな灰が土埃と混ざって舞い上がった。
六台の荷馬車は前日までと同じ隊列で西へ進んだ。先頭にはガレスとニア、中央にはアレンと鈴葉、後方にはローデンとミック。バルドは出発前に全員へ灰除けの布をすぐ取り出せる場所へ置いておくよう念を押していたが、朝のうちは風も弱く、口元を覆うほどの灰は飛んでいない。
「昨日の夜の音、今日はしないな」
アレンが西の山並みを見ながら言うと、鈴葉は足元の街道へ視線を落とした。
「聞こえないから静かとは限らないけどね」
「そういう言い方すると余計に気になる」
「気にして空ばかり見ないようにするため」
「それ、昨日も言われた」
「なら覚えてるでしょう?」
アレンは苦笑し、今度は前方へ意識を戻した。昨夜見た巨大な影は気になっている。それでも、隊商を守る仕事の最中に答えを追うつもりはなかった。今は、目の前の道を見る方が大事だ。
午前の半ばを過ぎた頃から、街道の両側に木が増え始めた。王都の近くで見た豊かな森とは違い、幹は細く、枝も低い。葉の色も濃い緑ではなく、灰をかぶったようにくすんでいる。地面には乾いた落ち葉が多く、踏めばぱり、と軽い音を立てた。
「森に入るのか?」
アレンが前方の木立を見ていると、近くを歩いていたバルドが答えた。
「昔はもっと広かった。今は道の途中で途切れてる」
「切り開かれたんですか?」
「違う。見れば分かる」
それだけ言って、バルドは前へ戻った。
◇
しばらく進むと、その意味は本当に説明されなくても分かった。
街道の右側には、まだ生きた木々が続いていた。葉は薄く灰をかぶっているものの、枝には小鳥が止まり、低木の間には草も残っている。ところが左側では、ある地点を境に森の色が変わっていた。
最初に目についたのは、葉のない黒い幹だった。一本だけではない。その奥にも、さらにその奥にも、焼け焦げた木が並んでいる。枝先は折れ、樹皮は剥がれ、地面には灰と黒い炭が厚く積もっていた。炎が通った跡なのは明らかだったが、家が燃えた時のような焦げ臭さはほとんど残っていない。古い焼け跡らしい。
「ここから……?」
アレンは歩きながら左右を見比べた。
生きた森と焼けた森の間には壁も柵もない。ただ、数十歩ほどの幅の中で緑が減り、枝が細り、幹が黒くなり、最後には灰だけが残っている。その変化があまりに段階的だったため、どこからが境界なのか一目では決められなかった。
「火事?」
鈴葉が低く呟く。
「たぶんな。でも、一回だけじゃない」
前方からニアの声がした。彼女は街道脇の黒い幹を見ながら弓を背負い直す。
「古い焼け跡の上に、もっと新しい灰が乗ってる。木によって傷み方も違う」
アレンも近くの一本へ目を向けた。完全に炭化した木の隣に、幹の半分だけ焼けた木がある。そのさらに先には、葉こそ少ないものの生きている木も残っていた。
「山から火が来ることがある」
バルドが言った。
「溶岩がここまで流れるわけじゃない。熱い灰や火の粉、乾いた季節の山火事だ。風向き次第で森の一部だけ焼ける」
「じゃあ、この森はずっとこうやって削られてるんですか?」
「焼けても戻る場所は戻る。戻る前にまた焼ける場所もある。それだけだ」
短い説明だったが、アレンには十分だった。焼けた森は死んだ土地ではない。ただ、生き直そうとしている途中で、また火に触れることがある。
◇
昼前、商隊は街道脇の広い場所で休憩を取った。右側にはまだ灰をかぶった低木が残っていたが、左側はほとんど黒い幹ばかりだった。御者たちが馬へ水を与えている間、アレンは道から離れすぎない範囲で焼け跡の地面を観察した。
灰の間には、小さな緑があった。
「鈴葉、これ」
呼ばれて近づいた鈴葉は、しゃがみ込んだアレンの指先を見る。黒い土の割れ目から、細い芽が一本伸びていた。周囲は炭と灰しかないのに、その葉だけは鮮やかな緑色をしている。
「生えてるな」
「生えるでしょう。全部が死んだわけじゃないもの」
「いや、分かってるけど……こういう場所でもちゃんと戻るんだなって」
鈴葉は芽へ手を伸ばさず、少し離れた位置から見つめた。
「森は、人間が思うよりしぶといわ」
「神獣っぽいこと言うな」
「私は神獣だけど?」
「そうだった」
鈴葉が呆れたように見る。その表情にアレンは小さく笑ったが、すぐに周囲へ視線を戻した。
生き物の気配は少なかった。生きた森側では鳥の声が聞こえるのに、焼け跡側は静かだ。ただし、完全な無音ではない。灰の上には小さな足跡があり、倒木の陰には何かが掘った穴もある。
「動物も戻ってるのか」
「少しずつでしょうね」
鈴葉は足跡を見てから、森の奥へ鼻先を向けるように顔を上げた。
「でも、種類は少ない。匂いも薄い」
「いつもの森と違う?」
「かなり」
その言葉に、アレンは改めて左右の森を見た。同じ土地の続きなのに、生き物の数も、木の形も、地面の色も違う。火山の影響というものが、灰や遠雷だけではないことを実感した。
◇
午後、街道はさらに焼け跡の深い場所へ入っていった。生きた木々は徐々に減り、左右どちらを見ても黒い幹が増える。ただ、完全に何もないわけではない。低い草、灰に強い苔、地面を這う赤茶色の植物が点々と残り、焼けた倒木の陰には小さな虫が動いていた。
景色は荒れている。それでも、そこにはその土地なりの生き方があった。
「火山地帯って、全部真っ黒な岩だと思ってた」
アレンが言うと、鈴葉は前を向いたまま答えた。
「まだ本当の火山地帯じゃないでしょう?」
「そうだけど。近づく途中もちゃんと違うんだな」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「昨日は灰の話。今日は森」
「明日は何かしらね」
「毎日一個ずつ増えるな」
鈴葉の口元がわずかに緩んだ。
日が傾き始めた頃、街道は焼けた森の中を抜けきらないまま西へ続いていた。遠くの山は朝より少し大きく見え、空気には乾いた灰と木の匂いが混じっている。
アレンは黒い幹の間に残る小さな緑を何度か目で追った。焼けた土地にも、戻ろうとするものがある。そのことが妙に心に残った。
六台の荷馬車は、生きた森と焼けた森の境界を越え、さらに西へ進んでいった。
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