第四章 第九話 夜空の遠雷
宿場へ着く頃には、アレンの外套にも鈴葉の髪にも、細かな灰が薄く積もっていた。昼間ほど風に混じってはいなかったが、荷馬車の幌や車輪の隙間にはまだ灰色の粉が残っている。バルドは到着するとすぐ、御者と護衛たちへ荷と馬の確認を命じた。水樽の蓋、車軸、縄、幌の継ぎ目。火山地帯へ近づくほど、戦いより先にこうした手入れが重要になるのだと、アレンにも少しずつ分かり始めていた。
ひと通りの作業を終えると、空はもう夕闇へ変わりかけていた。宿場は前日に泊まった場所より小さく、街道沿いに宿と食堂、馬小屋が並ぶだけの簡素な造りだった。建物の屋根には古い灰がうっすら残り、軒先には灰を払うための長い箒が何本も立てかけてある。ここでは今日の灰も珍しい出来事ではないらしい。
「じっとして」
宿の裏手にある水場で、鈴葉がアレンの肩を払った。
「自分でできるって」
「できてないから言ってるの」
「どこ?」
「ここ」
鈴葉の指が外套の襟元をなぞり、細かな灰が落ちる。アレンは少し身体を傾けて任せたあと、今度は彼女の銀髪へ目を向けた。
「鈴葉もまだ残ってる」
「どこ?」
「後ろ。自分じゃ見えないだろ」
「じゃあお願い」
「本当に俺がやるのか」
「昼間に約束したでしょう?」
仕方なく手を伸ばし、髪の表面についた灰を指先で軽く払う。鈴葉は普段通りの顔をしていたが、アレンの方は妙に慎重になった。強く触れれば髪を乱しそうで、灰だけ落とそうとすると意外に時間がかかる。
「そこまで丁寧にしなくても取れるわよ」
「文句言うなら自分でやってくれ」
「言ってない」
鈴葉の声には少し笑いが混じっていた。アレンもそれ以上気にせず、残った灰を払って手を離した。
◇
夕食を終えた頃、宿場の外はすっかり暗くなっていた。護衛たちは交代で荷馬車を見張ることになり、最初の番はガレスとローデンが引き受けた。アレンと鈴葉は次の組まで休めるはずだったが、昼間に吸った乾いた空気のせいか、アレンはすぐ眠る気になれず、宿の前へ出た。
夜空はよく晴れていた。雲は少なく、街道の上には星が広がっている。王都では建物の灯りに消えていた小さな星まで見えた。
「眠れないの?」
後ろから鈴葉の声がした。
「まだ眠くないだけ」
「私も」
鈴葉は隣まで来ると、建物の壁へ軽く背を預けた。昼間の乾いた風は弱まり、代わりに夜の冷気が地面を這っている。宿場の灯りは少なく、少し離れれば街道も草地も闇へ溶けていた。
しばらく二人は何も話さず、西の空を見ていた。
その時、遠くで低い音がした。
最初は、荷車がどこかで石を踏んだのかと思った。だが音は一度きりではなく、数呼吸遅れて、また低く響いた。雷に似ている。しかし空には雲がない。
「……今の聞こえた?」
「ええ」
鈴葉は壁から背を離した。
もう一度、音が来る。今度は少し長い。空から落ちる雷鳴というより、地平の向こうで何か巨大なものが軋んだような響きだった。
宿場の馬小屋でも馬が数頭、落ち着かない様子で鼻を鳴らした。見張りをしていたガレスが街道側から戻り、西を見上げる。
「雷か?」
「雲はない」
ローデンもそう言って空を見た。
アレンは遠い山並みへ目を凝らした。その輪郭は夜の中へ沈んでいたが、よく見ると、その上の空だけがわずかに赤い。
「鈴葉」
「見えてる」
赤みは強くない。炎そのものが見えるわけでもない。ただ、地平の向こうから薄い光が滲み、山の縁を暗く浮かび上がらせている。
バルドも宿から出てきた。しばらく西を見たあと、低く息を吐く。
「山の方だな」
「火山ですか?」
アレンが聞くと、バルドはすぐには頷かなかった。
「可能性はある。だが、ここから見えるのは光だけだ。何が起きてるかまでは分からん」
その答えに、アレンもそれ以上は決めつけなかった。低い音と赤い空。火山地帯へ向かっている以上、関係があると考えるのは自然だ。それでも、見えていないものまで事実にはできない。
◇
やがて音は途切れた。宿場の人々も一度は外へ出ていたが、慣れている者が多いのか、しばらくすると少しずつ建物へ戻っていく。
「珍しくないんですか?」
アレンが近くにいた宿の主人へ尋ねると、男は肩をすくめた。
「ここまで響くのは毎日じゃない。でも、山が荒れてる時期なら聞くことはある。昔から遠雷って呼ぶ奴もいるよ」
「本当の雷じゃなくても?」
「音が似てりゃ呼び名なんてそんなもんだ」
主人はそう言って中へ戻った。
アレンはもう一度、西の空を見る。薄い赤みはまだ残っていた。
その時だった。
鈴葉が急に顔を上げた。
「上」
アレンも反射的に空を見る。
星の並びの一部が、一瞬だけ消えた。
何かが高い場所を横切っている。黒い。大きい。だがあまりに遠く、輪郭は夜空に溶けている。翼のように左右へ広がったものが見えた気もしたが、次の瞬間には形が崩れ、ただ巨大な影にしか見えなくなった。
「……あれ」
アレンはそれ以上言葉を続けられなかった。
影は宿場の真上までは来なかった。西寄りの高空を斜めに横切り、数秒のうちに星空の向こうへ消えていく。音は聞こえない。羽ばたきも鳴き声もない。ただ、通り過ぎた瞬間だけ夜空の一部が欠けたように見えた。
「見たか?」
ガレスが声を上げる。
「見た」
ローデンも西の空を睨んでいる。
「鳥か?」
「分からん。遠すぎる」
アレンは鈴葉を見る。彼女も影が消えた方向から目を離していなかった。
「前に見たのと同じだと思う?」
「似てはいる。でも、同じだとは言えない」
鈴葉の答えは慎重だった。
アレンも頷く。王都へ近づいた時の影。街道で聞いた複数の証言。そして、今見たもの。共通している部分はある。だが、それだけで一つの存在だと決めるには足りない。
「追うなよ」
いつの間にか近くへ来ていたバルドが言った。
「追えませんよ。あんな高さじゃ」
「高さの話じゃない。気になったからって隊商を離れるなって意味だ」
「分かってます」
「ならいい」
バルドはそれだけ言い、荷馬車の方へ戻っていった。
鈴葉が小さく息を吐く。
「信用されてないわね」
「俺が悪いみたいに言うなよ」
「実際、気になってるでしょう?」
「それは否定しない」
アレンは笑いかけたが、視線はもう一度空へ戻った。影は消えている。赤い地平だけが、遠くに残っていた。
◇
夜が深まるにつれて、西の赤みも少しずつ弱くなった。遠雷のような音も、それ以上は聞こえない。
見張りの交代時間になり、アレンと鈴葉はガレスたちから持ち場を引き継いだ。六台の荷馬車は宿場の端に並び、馬たちは馬小屋で静かに休んでいる。街道にはもう旅人の姿もなかった。
アレンは荷馬車の間を歩きながら、時折西を見る。
今日初めて灰が服へ積もった。そして夜には、遠い山の空が赤くなり、低い音がここまで届いた。さらに、その上を巨大な何かが通り過ぎた。
どれが互いに関係しているのかは分からない。今の段階で一つの答えへまとめる理由もない。
「明日も西へ行くのね」
鈴葉が隣で言った。
「それが仕事だからな」
「怖くない?」
アレンは少し考えた。
「怖くないわけじゃない。でも、分からないから戻るっていうのも違う気がする」
「そう」
鈴葉はそれ以上何も言わなかった。
二人の前には、闇に沈んだ西方街道が伸びている。その先に何があるのか、まだ誰にも見えていない。ただ、王都を出た時よりも、火山の存在は確実に近くなっていた。
夜空には再び星だけが残り、巨大な影が通った痕跡はどこにもなかった。
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