第四章 第八話 最初の灰
第二宿場を出た翌朝、街道の景色は前日よりさらに乾いていた。道の両側に残っていた農地は少なくなり、低い草とむき出しの土が広がる場所が増えている。遠くの丘も緑より茶色が目立ち、吹き抜ける風には湿った草の匂いより乾いた土の匂いが強く混じっていた。六台の荷馬車は朝から一定の速度を保ち、先頭のガレスとニア、中央のアレンと鈴葉、後方のローデンとミックという配置も変わっていない。
「昨日より、また景色が変わったな」
アレンが道の端に目を向けると、鈴葉も同じ方向を見た。
「少しずつね。木も低くなってる」
「こういうの、本当に急に変わるわけじゃないんだな」
「急に変わったら、その方が怖いでしょう?」
「確かに」
アレンは苦笑しながら前へ視線を戻した。空は薄く白んでいたが、雲が厚いわけではない。山並みも前日より近く見えるものの、まだ火山だと断言できる形ではなく、煙も見えなかった。昨日まで聞いてきた灰や地鳴りの話も、今はまだ遠い土地の出来事のように思える。
昼前になった頃、ニアが先頭で足を止め、片手を上げた。
「風、変わった」
バルドもすぐに御者へ合図し、商隊の速度が少し落ちる。アレンには最初、何が変わったのか分からなかった。だが数歩進んだところで、頬に何か細かなものが触れた。
「砂?」
指で払うと、灰色がかった粉が薄く残った。道から舞った土にしては色が淡く、粒もずっと細かい。鈴葉が手の甲を差し出すと、そこにも同じ粉が一粒、二粒と落ち始めた。
「……灰?」
アレンが呟くと、前方からバルドの声が飛んだ。
「布を出せ! まだ薄いが、灰だ!」
御者たちが手慣れた様子で口元を覆い始める。アレンと鈴葉も荷から灰除けの布を取り出し、鼻と口を覆った。買った時にはまだ実感がなかった装備が、初めて本当に必要になった瞬間だった。
◇
灰は雪のように降るわけではなかった。空から大量に落ちてくるというより、風に混じって流れ、時折まとまって視界を横切る。最初は気づかないほど薄かったのに、しばらくすると荷馬車の幌や馬の背に灰色の粉が少しずつ積もり始めた。
「思ってたより細かいな」
アレンは口元を覆ったまま言った。布越しの声は少しくぐもる。
「砂より軽いみたい」
鈴葉は銀髪へ触れ、指先についた灰を見た。髪の表面にも薄く灰色が乗っている。
「鈴葉の髪、目立つな」
「あなたも同じよ」
アレンが自分の肩を見ると、外套の濃い色の上に細かな灰が点々と残っていた。払えば落ちる程度だが、風が吹くたびまた付着する。
バルドは隊列の中央まで戻り、全員へ声をかけた。
「まだ軽い。呼吸が苦しくなるほどじゃないが、布は外すな。水を飲む時も灰を入れるなよ。蓋を開けたままにするな」
「この辺りでも降るんですね」
アレンが尋ねると、バルドは西の空を見た。
「風次第だ。ここはまだ火山地帯の外だが、強い風ならもっと東まで飛ぶ。今日は薄い方だ」
「これで?」
「本当にひどい日は、昼でも遠くが見えなくなる」
アレンは思わず周囲を見渡した。今はまだ街道も丘も十分に見えている。それでも、空気の中に灰が混じるだけで景色の色が少し鈍く感じられた。
前方ではガレスが馬の目元を気にしており、ニアは弓の弦に灰が溜まらないよう布で軽く拭いている。後方のローデンとミックも盾や剣の鞘を確認していた。灰は人間の喉や目だけではなく、道具や荷にも入り込むのだと分かる。
アレンは腰の剣へ触れ、鞘口に灰が入っていないことを確かめた。
「これ、毎日やることになるのかな」
「火山地帯に入ったら、もっと頻繁になるでしょうね」
鈴葉の答えに、アレンは布越しに小さく息を吐いた。
「旅支度で灰対策ばっかり言われた理由、やっと分かった」
「実際に使わないと分からないものもあるわ」
「うん。今なら水袋増やしたのも納得できる」
鈴葉は少しだけ目を細めた。
「成長したわね」
「それ、まだ言うのか」
「使えるうちは使うつもり」
アレンは呆れたように笑ったが、布で隠れているせいで鈴葉には表情が見えにくかったらしい。それでも彼女の目元がわずかに緩んだ。
◇
午後になると、灰は一度薄くなった。風向きが変わったのか、空気の透明さが戻り、遠くの山並みも朝よりはっきり見えるようになる。だが街道脇の草や石には、薄い灰色の膜が残っていた。
休憩のため商隊が止まると、御者たちは真っ先に荷馬車の車輪と車軸を確認した。灰が油に混じると動きが悪くなるらしく、布で拭き取ってから新しい油を少量足している。アレンと鈴葉も馬車の幌や水樽の蓋に積もった灰を払い、開け閉めする場所へ粉が入り込まないよう手伝った。
「ただ降ってくるだけじゃないんだな」
アレンが言うと、作業をしていたバルドが鼻で笑った。
「土地の厄介さってのは、戦う相手ばかりじゃない。灰一つで車輪は重くなるし、水は汚れるし、目も喉もやられる。そういうのを放っておく方が、魔獣より先に旅を止めることもある」
「覚えておきます」
「覚えるだけじゃなく、次から自分で見ろ」
「はい」
バルドは満足した様子も見せず、次の車輪へ向かった。だがアレンには、その言葉が昨日まで聞いたどんな説明より実感を伴っていた。
鈴葉は水袋の口を布で拭きながら、道の先を見ている。
「どうした?」
「空気の匂いが変わった」
アレンも布を少しずらし、慎重に息を吸った。乾いた土の匂いに混じって、ごくわずかに焦げた石のような、これまで嗅いだことのない匂いがある。
「これが火山の匂い?」
「分からない。でも、昨日まではなかった」
それ以上は決めつけなかった。灰が飛んできたことは事実でも、その匂いの原因まで今の二人には分からない。アレンは再び布を戻し、遠い山並みを見つめた。
◇
夕方が近づく頃には、街道沿いの草原にも灰の跡が目立つようになっていた。緑の上に薄い灰色が重なり、風が吹くと表面の粉だけがふわりと舞い上がる。まだ人家はあり、宿場も街道も使われている。それでも、王都周辺とは明らかに違う土地へ入りつつあることを、アレンは初めて身体で感じていた。
その日の宿場へ向かう途中、アレンは肩へ積もった灰を軽く払った。隣では鈴葉も銀髪についた粉を指で落としている。
「白い髪だったら、もっと分かりにくかったかもな」
「銀色でも十分目立たないと思うけど」
「いや、近くで見ると結構ついてる」
「じゃあ宿に着いたら払うの手伝って」
「俺が?」
「言い出したのはあなたでしょう?」
アレンは少し言葉に詰まり、それから笑った。
「分かったよ」
軽いやり取りを交わしながらも、二人の足元には灰が薄く残っている。王都を出た時には、火山地帯は地図の先にある遠い場所だった。だが今は、その土地から流れてきたものが服や髪へ触れ、馬車や道の上に残っている。
アレンは西へ続く街道を見た。灰はまだ薄い。空も明るい。山々も遠い。それでも、この先ではさらに土地が変わっていくのだろう。そう思うと、不安よりも先に、これから自分の目で確かめるものへの静かな緊張が胸に残った。
六台の荷馬車は、薄灰色に染まり始めた街道をゆっくり西へ進んでいった。
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