第四章 第七話 空を見た旅人たち
翌朝、宿場を出た商隊は、まだ朝靄の残る西方街道を進んでいた。前日の夕方には乾いた土の匂いが目立ち始めていたが、朝の空気は冷たく、草の葉には薄く露が残っている。王都周辺ほど畑は多くないものの、道沿いには小さな農地や放牧地が点在し、遠くでは羊の群れが低い柵の中を移動していた。
隊列は前日と同じだった。先頭にガレスとニア、中央にアレンと鈴葉、後方にローデンとミック。バルドは一台目と二台目の間を歩きながら、ときどき御者へ声をかけている。初日の緊張が少し抜けたのか、護衛たちの動きにも無駄がなくなっていた。
「昨日より静かだな」
アレンが周囲を見ながら言うと、鈴葉は街道の先へ目を向けた。
「人が減ったからでしょうね」
「王都を出た時は、ずっと誰かとすれ違ってたのに」
「ここから先は、同じ方向へ行く人も限られてくるんじゃない?」
確かに、昨日までは荷車や旅人と頻繁にすれ違っていたが、今朝は間隔が長い。道そのものはまだ広く整備されているのに、人の流れだけが少し薄くなっていた。
昼前、前方から三台の荷馬車が見えてきた。こちらへ向かってくる隊商で、荷台には空になった木箱や布袋が積まれている。すれ違うには十分な幅があったが、双方の御者は自然に速度を落とした。先頭の男がバルドに気づき、手を上げる。
「レイグじゃないか」
「戻りか、ハルド」
「昨日の朝に第三宿場を出て、昨夜は第二宿場で泊まった。そっちは西か?」
「ああ。いつもの交易集落までだ」
顔見知りらしい。二人は短く近況を交わし、その間にこちらの馬も水を飲ませることになった。アレンたちは隊列を崩さない範囲で休憩し、荷馬車の脇へ寄る。
やがて、向こうの隊商の護衛らしい若い男が、アレンたちの会話に耳を向けながら言った。
「西へ行くなら、空も見といた方がいいぞ」
アレンは思わず顔を上げた。
「空?」
「ここ数日、変なのを見たって話が増えてる。俺は直接見た」
隣にいた鈴葉も視線を向ける。男は手で空を横切るような動きをしながら続けた。
「一昨日の夕方だ。山の方角から黒い影が出てきて、街道の上を東へ抜けた。かなり高かったが、それでも大きいって分かった」
「鳥だったんですか?」
「分からん。翼みたいなものは見えた気もする。でも遠かったし、逆光だった」
すると、少し離れて水を飲んでいた年配の御者が首を振った。
「翼なんてなかったぞ。俺が見たのは、雲より速く動く黒い影だ。形までは分からん」
「同じものか?」
「知らん。ただ、時間は近かった」
さらに別の商人が会話へ加わる。
「俺は見てないが、第三宿場じゃ飛竜だって言ってる奴もいた。別の奴は巨大な鳥だってさ。話すたびに形が変わってる」
アレンは無意識に鈴葉を見た。王都へ近づいた時に見た影。商人組合でバルドから聞いた、火山地帯での噂。それに今、別の隊商からの証言が重なった。
「方向は?」
鈴葉が尋ねる。
「俺が見た時は西から東へ。けど、その前日に南へ飛んだって話も聞いた」
「高さは?」
「かなり上だ。矢なんか届かん」
「鳴き声は?」
「俺は聞いてない」
男の答えは一つずつ具体的だったが、それでも全体像にはならない。翼を見た者と見ていない者。東へ飛んだという話と南へ飛んだという話。巨大な鳥、飛竜、ただの影。証言は増えたのに、正体はむしろ遠ざかったようにも感じられた。
「同じものとは限らないわね」
鈴葉が小さく言うと、アレンも頷いた。
「でも、見たって人が一人じゃないのは確かだ」
「そこまでは言える」
アレンはそれ以上、答えを急がなかった。王都で見た影と同じ存在なのかもしれない。違うものかもしれない。今は、複数の人が似た現象を見ているという事実だけを覚えておけばいい。
◇
休憩を終え、二つの隊商は反対方向へ動き始めた。ハルドたちの荷馬車は王都方面へ進み、アレンたちは再び西を目指す。
しばらくして、ニアが先頭から少し下がってきた。
「さっきの話、聞いてた?」
「ああ」
「私も似た噂は聞いたことがある。王都の西門で」
「ニアも?」
「見たわけじゃない。護衛仲間が話してただけ。大きな影が山の上を越えたって」
「いつ頃?」
「一週間くらい前だったと思う」
アレンは少し考えた。自分が王都の手前で影を見たのは、それより後だ。もし同じ存在なら、かなり広い範囲を移動していることになる。だが、それもまだ仮定でしかない。
「気になる?」
ニアに聞かれ、アレンは正直に答えた。
「気にはなる。でも、今のところはそれだけ」
「それがいい。護衛中に空ばかり見てたら、足元で何か起きた時に困るから」
その言葉に、少し前の鈴葉の忠告を思い出し、アレンは苦笑した。
「同じこと言われたことある」
「誰に?」
「隣の人に」
鈴葉が無言でアレンを見る。ニアは二人の様子を見て少し笑い、そのまま先頭へ戻っていった。
「私の言ったこと、ちゃんと覚えてたのね」
「忘れてないよ」
「なら、空を見るのはほどほどに」
「分かってる」
アレンはそう答えながらも、一度だけ上を見た。空は高く澄み、薄い雲が西から東へ流れている。巨大な影はどこにもない。
◇
午後になると、街道脇の草はさらに低くなり、土の色も少し淡くなった。乾いた風が吹くたびに、細かな砂が道の端で舞う。まだ灰ではない。けれど、昨日より確かに土地の水分が減っているのを感じる。
バルドは日が傾く前に二つ目の宿場へ入る予定だと告げた。そこから先は宿場同士の距離が少しずつ伸び、街道沿いの人家も減るらしい。
「さっきの影の話、前にも聞いたことあるんですか?」
アレンがバルドへ尋ねると、彼は歩きながら頷いた。
「だから説明の時に話した。だが、商人の噂は広がるほど形が変わる。十人が同じものを見ても、十通りの話になる」
「信じてないんですか?」
「見たって奴がいることは信じてる。何を見たかは別だ」
その答えに、アレンは納得した。事実と解釈は違う。誰かが空に大きな影を見た。それは事実として扱えるかもしれない。だが、それが鳥なのか飛竜なのか、それともまったく別の何かなのかは、まだ誰にも分からない。
鈴葉もそれ以上何も言わなかった。彼女なら何か知っているのではないかと期待する気持ちは、以前より薄れている。神獣であっても世界のすべてを知っているわけではないと、本人から聞いたばかりだった。
夕方近く、遠くに二つ目の宿場の屋根が見えた頃、アレンはもう一度だけ西の空へ目を向けた。山並みは昨日より少し近くなったように見えるが、その上には何も飛んでいない。証言は増えた。けれど、答えが増えたわけではない。それでいい、とアレンは思った。今は隊商を守り、道を進むことが先だ。空の影が本当に彼らの旅と関わるものなら、いずれまた自分たちの前に現れる。
六台の荷馬車は乾いた風を受けながら、西へ向かって一定の速度で進み続けた。
読んでくださり、ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。




