第四章 第五話 王都を離れる門
空がまだ群青色を残しているうちに、アレンと鈴葉は宿を出た。王都の通りには夜の静けさがわずかに残っていたが、完全に眠っているわけではない。パン屋の裏口からは焼き始めたばかりの小麦の匂いが流れ、遠くでは荷車の車輪が石畳を叩いている。昼間なら人で埋まる大通りも今は広く感じられ、二人の足音が冷えた石の上に小さく響いた。
アレンは肩の荷を一度持ち直した。昨夜確認した通り、水袋、灰除けの布、補修道具、薬、予備の食料はすべて入っている。金属の羽根も荷の内側に縫い付けられた小袋の中だ。剣の位置もいつもと同じで、歩くたびに鞘が腰へ軽く触れる。準備したものを頭の中でもう一度数えたところで、隣を歩く鈴葉が横目を向けた。
「また確認してる?」
「最後に一回だけ」
「昨日の夜も最後って言ってなかった?」
「朝になったら状況が変わるかもしれないだろ」
「荷物が勝手に増えたり減ったりするの?」
「そういう意味じゃない」
鈴葉は小さく笑った。アレンも苦笑しながら、西門へ続く通りの先へ目を向ける。王都に入った時は、門の向こうに何があるのか分からず立ち止まりかけた。今は反対に、その門から外へ出ようとしている。同じ石の街でも、向かう方向が変わるだけで見え方まで違って感じられた。
やがて最初の鐘が鳴った。低い音がまだ暗い屋根の上を渡り、王都の朝が少しずつ始まっていく。二人は歩調を速め、西門前の広場へ向かった。
◇
西門には、すでにバルドの商隊が集まっていた。六台の荷馬車が二列に並び、御者たちが車輪や縄を最後に確かめている。昨日まで布で覆われていた荷の一部は積み直され、樽や木箱がそれぞれ動かないよう固定されていた。馬たちは白い息を吐き、出発を待つように時折地面を蹄で叩いている。
「来たか」
アレンたちに気づいたバルドが、先頭の荷馬車から歩いてきた。
「時間通りだな。荷を見せろ」
二人が準備したものを簡単に確認すると、バルドは灰除けの布、水袋、靴を順に見て頷いた。
「十分だ。荷は軽い方がいい。途中で必要な物が増えたら宿場で足せる」
「分かりました」
「他の護衛もそろってる。先に顔だけ合わせておけ」
バルドに促され、二人は荷馬車の脇へ移動した。そこには四人の護衛が待っていた。一人は大きな槍を背負った壮年の男で、日に焼けた顔に短い顎髭がある。隣には弓を持つ若い女が立ち、残る二人は片手剣と丸盾を装備した旅人だった。
槍の男が最初に口を開く。
「ガレスだ。前を守る。隊商護衛は何度か経験してる」
弓の女は軽く手を上げた。
「ニア。遠距離を見る。よろしく」
残る二人は兄弟らしく、年上の方がローデン、弟がミックと名乗った。どちらも必要以上に愛想を振りまくタイプではなかったが、敵意もない。アレンも自分の名と剣を使うことを伝え、鈴葉は森での移動と危険察知に慣れているとだけ説明した。
「配置は?」
ガレスがバルドへ尋ねる。
「最初の数日は危険も少ない。先頭にガレスとニア、中央にアレンと鈴葉、後方にローデンとミック。状況を見て変える。勝手に位置を離れるな」
「了解」
アレンも頷いた。護衛として隊列の中で役割を持つのは、ただ旅をする時とは少し違う。自分たちだけが無事ならいいわけではない。六台の荷馬車と、その周りにいる商人や御者を守る必要がある。
バルドは全員を見回し、続けた。
「最初の宿場までは街道も広い。だが、だからって気を抜くな。問題が起きる時は安全だと思ってる場所で起きる」
「脅すなよ」
ガレスが笑うと、バルドは肩をすくめた。
「脅してるんじゃない。長く商売してると、そういうのを何度も見るだけだ」
その言葉には冗談らしさがなかった。アレンは静かに覚えておくことにした。
◇
二度目の鐘が鳴る少し前、西門の大扉の脇に設けられた通路が開いた。王都へ入る者と出る者で場所が分けられ、衛兵たちが荷馬車の通行証を一台ずつ確認していく。バルドの商隊も順番に前へ進み始めた。
先頭の荷馬車が門の下へ入る。厚い石壁の内部には、アレンが初めて王都へ入った時と同じように鉄格子の溝と監視窓が並んでいた。ただ、今回はその先に見えるものが違う。白い光の向こうには建物ではなく、まだ朝靄の残る街道と丘陵が広がっている。
「入った時とは逆だな」
アレンが小さく言うと、鈴葉も前を見たまま答えた。
「当たり前でしょう?」
「分かってる。でも、なんか変な感じする」
「王都に住み着きたくなった?」
「それはないかな。まだ見てない場所が多すぎる」
「なら大丈夫ね」
短いやり取りをしながら、二人も荷馬車とともに城壁の内部へ入った。頭上で靴音や兵士の声が反響し、少し先では御者が馬を落ち着かせている。アレンは一度だけ振り返った。通路の向こうには、夜明けの王都が見える。高い建物、店の看板、遠くの尖塔。数日前にはそのすべてが初めて見るものだった。
王都は多くのことを教えてくれた。世界には知らない土地がいくつもあり、その土地から人や物や噂が集まってくること。そして、そのどれもが別の道へ繋がっていること。ここで答えを得たわけではない。金属の羽根も、消された位置も、黒い九尾も、麗華も、空を横切った影も、何一つ解決していない。それでも、次にどこへ進めばいいか分からず立ち止まる必要はなくなった。
「アレン」
鈴葉の声で前を向くと、先の荷馬車との間が少し開いていた。
「悪い」
「また後ろ見てたでしょう」
「最後くらいいいだろ」
「まだ戻ってくるかもしれないのに?」
「それもそうか」
アレンが歩調を上げると、鈴葉も隣へ並んだ。
城壁の影を抜けた瞬間、朝の光が一気に視界へ広がった。王都の外には、西へ続く街道がまっすぐ伸びている。道の両側にはまだ緑が多く、遠くには低い丘が幾重にも重なっていた。火山地帯を思わせる灰も煙も、ここからはまだ見えない。
それでも、この道の先にある。アレンはそう思ったが、急いでその姿を想像することはしなかった。火山、地鳴り、動きの変わった魔獣、空の影。聞いた話は聞いた話でしかない。これから実際に歩き、自分の目で見ればいい。
◇
商隊の最後の荷馬車が門を抜けると、バルドが前方で腕を上げた。御者たちが馬を進ませ、六台の車がゆっくりと速度を揃えていく。護衛たちも決められた位置へ散り、アレンと鈴葉は三台目と四台目の間に入った。
王都の外壁は、振り返ればまだ圧倒的な大きさで朝空を切っている。門へ向かう旅人たちが列を作り、反対側では別の隊商が出発の準備をしていた。王都は今日も無数の人を受け入れ、同じ数だけ外へ送り出している。
「行くぞ!」
バルドの声が前から飛んだ。
馬車の車輪が回り始め、石で整えられた道を一定の音で叩く。アレンは肩の荷を整え、剣の位置を確かめた。鈴葉は隣で周囲へ目を配りながら、いつもの落ち着いた歩調を保っている。
「今度こそ出発したな」
「ええ。もう門の外よ」
「分かってる」
「念のため」
「昨日からそればっかりだな」
鈴葉が小さく笑い、アレンも笑った。
二人の後ろで、王都は少しずつ遠ざかっていく。前には朝日を受けた西の街道が続き、その先は丘の向こうへ消えていた。目的地まではまだ十日以上ある。まずは比較的安全な平地を数日進み、いくつもの宿場を経た先で山地へ入り、そこから少しずつ火山地帯へ近づいていく。
アレンはもう振り返らなかった。王都で見つけた道の一つを、自分たちは今、実際に歩き始めている。六台の荷馬車と六人の護衛を伴う商隊は、朝の光の中をゆっくり西へ進んでいった。
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