第一章 第九話 掌の火
木剣を握るようになってから、アレンの朝は少しずつ変わっていた。食事を終えれば裏庭へ出て、足の位置を確かめ、呼吸を整え、昨日より一つでも正しく動けるよう同じ動作を繰り返す。最初の頃は剣を振らせてもらえないことに不満ばかり口にしていたが、今では構えが崩れれば自分から足元を見直し、一撃が狙いから外れれば、ただ悔しがるのではなく原因を考えるようになっていた。
その日の稽古でも、藁を巻いた標的の中央へ木剣を当てることができたのは十回のうち数回だけだった。それでも最初の一撃のように偶然当たったのではない。外れたときと当たったときの身体の違いを少しずつ感じ取れるようになり、振り終えたあとにも姿勢を残せる回数が増えていた。
「今日はここまで」
エララがそう告げると、アレンは肩で息をしながら木剣を下ろした。
「昨日より当たった」
「ええ。力任せに振る回数も減ったわね」
「じゃあ明日はもっと速く振っていい?」
「今より速くしても同じ場所へ当てられるならね」
「できると思う」
「そう思えるのは良いことよ。できると決めつけるのは別だけれど」
相変わらず簡単には褒めきってくれない母へ頬を膨らませながら、アレンは木剣を片づけようとした。しかし、エララは「まだ終わりじゃないわ」と呼び止める。
「でも今、ここまでって言ったよ」
「剣の稽古は、ね」
意味が分からず振り返ったアレンの前で、エララは右手を上向きに開いた。
「今日は少しだけ、別のことをしましょう」
何も持っていない掌だった。アレンが首を傾げた次の瞬間、その中央に淡い光が集まり、小さな炎が生まれた。
「わっ」
炎は蝋燭より僅かに大きい程度だった。風に揺れているのに、薪も油もない掌の上で消えずに燃えている。赤と橙の光がエララの指先を照らしているにもかかわらず、本人は熱さを感じている様子すらなかった。
「魔法!」
「そう」
「僕もやる!」
返事を待つより早くアレンが手を差し出したため、エララは苦笑しながら炎を消した。
「だから今日教えるのよ。ただし、いきなり炎を出そうとしては駄目」
「何で? 今お母さんすぐ出したじゃん」
「私は初めてではないもの」
剣と同じだと言われ、アレンは少しだけ口を閉じた。木剣を渡された日に、剣を持ったのだからすぐ振れると思っていた自分のことを思い出したらしい。
「魔法を使うには、まず自分の中にあるエーテルを感じる必要があるわ」
「エーテル?」
「この世界に満ちている力よ。大地にも、水にも、草木にも、生き物にも流れている。私たちは身体の中に取り込んだエーテルを、自分の力として扱うことができるの」
アレンは自分の腕や胸を見下ろした。何かが流れていると言われても、血のように目で確認できるわけではない。
「僕の中にもある?」
「もちろん」
「どこ?」
「一か所に入っているわけではないわ。でも最初は胸の奥を意識した方が分かりやすいと思う」
エララに促され、アレンは庭の中央へ座った。木剣の稽古とは違い、今度は楽な姿勢でいいと言われる。両手を膝へ置き、目を閉じる。
「何か感じる?」
「……心臓」
「それは普通ね」
「どくどくしてる」
「それも普通」
「お腹空いてきた」
「それはエーテルではないわ」
目を開けると母が笑っていた。
「分かんないよ」
「最初から分かる人の方が少ないわ。無理に探そうとしなくていい。呼吸して、自分の身体の中がどうなっているか静かに感じてみて」
アレンはもう一度目を閉じた。昨日まで何度も教わった呼吸を思い出し、ゆっくり空気を吸って吐く。足の裏が土へ触れていること、春の風が頬を撫でること、遠くから鳥の声が聞こえること。最初はそればかりが気になった。
しばらくすると、胸の奥に奇妙な感覚があることに気づいた。
温かいわけではない。痛くもない。それでも、そこだけ僅かに重さが違うような、何かが静かに脈打っているような感覚がある。
「……なんかある」
アレンが目を閉じたまま呟く。
「どこ?」
「胸の真ん中くらい。心臓とはちょっと違う」
「それを無理に動かさず、まず感じて」
意識を向けるほど、それは少しずつ明確になった。形があるわけではないのに、確かに自分の内側へ存在している。
「これがエーテル?」
「そうだと思うわ」
「思う?」
「人によって感じ方が違うから。光のように感じる人もいれば、水や熱みたいに感じる人もいる。誰かの感覚をそのまま真似しようとしない方がいいの」
そこでエララは、胸に感じたものを少しだけ右肩へ動かすよう言った。
アレンは眉間へ力を入れる。
「……動かない」
「力で押すものではないわ。右手を動かそうと思ったとき、腕の中へ命令を押し込んだりしないでしょう?」
「でも手は勝手に動く」
「エーテルも、慣れればそれに近くなるわ」
分かったような、分からないような説明だった。それでもアレンは、先ほど感じたものが右肩へ向かう姿を想像した。
何も起こらない。
もう一度。
やはり変わらない。
「できない」
「まだ数回でしょう?」
「でもお母さんはすぐできる」
「私が何年使っていると思っているの?」
「何年?」
「それは今、関係ないわ」
また答えを濁された気がしたが、アレンは追及せず目を閉じた。
何度か試したあと、胸にあった感覚が僅かに右側へ寄ったような気がした。確信はない。しかし肩の奥が、それまでとは違って温かく感じる。
「動いたかも」
「そのまま急がないで。次は肩から腕へ」
胸から肩、肩から上腕、肘、前腕。意識する場所を少しずつ移していく。途中で感覚を見失えば、また胸へ戻ってやり直した。剣の足運びと同じように、早く結果を出そうとするとかえって分からなくなる。
やがて右の掌まで、微かな温かさが届いた。
「手が変な感じする」
「痛い?」
「痛くない。ちょっと温かい」
「なら、そのまま目を開けてみて」
アレンはゆっくり瞼を上げた。
右手は何も変わっていない。
「何もない」
「まだ外へ出していないもの」
「じゃあ出す」
「待って。少しだけよ」
念を押され、アレンは掌へ集めた感覚を外へ押し出そうとした。
何も起きなかった。
今度はもっと強く意識する。
それでも炎は出ない。
「何で?」
「炎を作ることばかり考えているからかもしれないわね。今あなたが感じているものを、まず掌の外へ出すことを考えて」
アレンは掌を凝視した。炎ではなく、そこに集まったエーテルそのものを外へ。
胸から肩、腕、そして掌。
今度は一気に動かそうとせず、ここまで辿ってきた感覚を思い出す。
掌の上の空気が、僅かに揺れた。
「今!」
エララの声に驚きながらも、アレンは集中を切らさなかった。温かさを外へ送り、その形を炎として思い描く。
小さな赤い光が生まれた。
「……出た」
息をするのも忘れそうになった。
掌から指一本ほど上に、ほんの小さな炎が浮かんでいる。エララが最初に見せたものよりずっと小さく、今にも消えそうに揺れていた。
「出た! お母さん、見て!」
「見ているわ。呼吸を忘れないで」
「あっ」
慌てて息を吸った瞬間、集中が崩れ、炎は消えた。
「ああっ!」
「でも一度できたでしょう?」
「もう一回!」
すぐにやり直そうとするアレンを、エララは止めなかった。
二度目は胸の感覚を見つけるまでが早かった。肩から腕へ流す途中で一度見失ったものの、最初ほど時間はかからない。そして掌へ集め、外へ出す。
今度も小さな炎が灯った。
「できた!」
「そのまま保ってみて」
喜びで意識が乱れそうになるのを堪え、アレンは炎を見つめた。大きくしようとはしない。ただ消さないよう、掌へ少しずつエーテルを送り続ける。
数秒。
十秒ほど経ったところで炎が細くなり、そのまま消えた。
「難しい」
「最初なら十分よ」
「もっと大きくできる?」
「今日はしない」
「ちょっとだけ」
「しない」
「じゃあ長くする」
「それも少し休んでから」
エララはアレンの右手を取り、指先や掌を確かめた。火傷はない。痛みもないと聞くと、ようやく手を離した。
「魔法は、自分が出せる力を全部出せばいいわけではないの。必要な量を必要な形で使うことが大切よ」
「剣と同じ?」
「似ているところはあるわね。強く振ればいいわけではなかったでしょう?」
アレンは標的へ残った木剣の跡を見た。初めて剣を振った日は、力を込めるほど格好いいと思っていた。今朝も、狙った場所へ届けるには力だけでは駄目だと確かめたばかりだ。
「魔法も狙うの?」
「もちろん。火を出せても、燃やしてはいけないものまで燃やしたら困るでしょう?」
「じゃあ僕、ちゃんと狙えるようになったら大きい火出していい?」
「その話は、ちゃんと小さい火を扱えるようになってからね」
少し休んだあと、アレンは再び練習を始めた。
三度目の炎はすぐ消えた。四度目は形にならず、赤い光だけが一瞬浮かんだ。五度目でようやく最初と同じほどの火を灯すことができ、今度は十秒を越えて保つ。
そしてエララから「消してみて」と言われたとき、アレンは初めて困った顔をした。
「どうやって?」
「出すのをやめればいいの」
「それだけ?」
「まずは試してみて」
掌へ流していたエーテルを止めようと意識する。ところが、炎はすぐには消えなかった。焦って手を振りそうになり、「振らない」と止められる。
「出したときと逆。掌へ送るのをやめて、身体の中へ戻すつもりで」
言われた通りにすると、炎はゆっくり小さくなり、最後には赤い点となって消えた。
「消えた」
「出すことと同じくらい、消せることも大事よ」
その言葉には、先ほどまでより僅かに強い響きがあった。
アレンは気づかなかったが、エララは彼の掌を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
炎そのものは小さい。
八歳の子供が初めて作ったものとして、不自然なほど大きいわけではない。
けれど問題は、目に見える火ではなかった。
胸から掌へ流れたエーテルの量。
アレン自身はまだ感覚の違いを知らない。だから、自分がどれほどの力を動かしているのか分かっていなかった。
小さな炎を作るために使われた量としては、多すぎる。
しかも、これが初めてだった。
「お母さん?」
呼ばれ、エララはすぐにいつもの表情へ戻った。
「何?」
「次、何する?」
「今日は終わり」
「ええっ! まだできるよ」
「初めてエーテルを意識して動かしたのよ。自分では平気でも、身体は疲れているかもしれないわ」
「全然疲れてない」
「それでも終わり」
不満そうにしながらも、アレンは素直に右手を下ろした。初めて木剣を握った日のように、勝手に続きを試せば怒られることくらいは分かっている。
「明日もやる?」
「体調に問題がなければね」
「じゃあ明日はもっと長く出す。それで大きくする」
「まず同じ大きさを安定させること」
「その次は?」
「その次は、そのとき考えるわ」
「またそれ」
文句を言いながら家へ戻るアレンの背中を、エララは静かに見送った。
少年の右手には何も残っていない。
火傷もなく、痛みもなく、本人に異変はない。
それでもエララの視線は、しばらくその掌から離れなかった。
初めてだから加減が分からなかっただけならいい。
そう考えながらも、先ほど感じたエーテルの流れを思い返す。
あの小さな炎に、あれほどの量は必要ない。
もっと扱いに慣れれば、自然と抑えられるようになるかもしれない。今はまだ、それ以上の意味を持たせるべきではない。
エララはそう自分へ言い聞かせ、家へ戻った。
一方のアレンは、そんな母の懸念など知るはずもなく、自分の掌を何度も開いては閉じていた。
剣を初めて狙った場所へ届けられたときとは、また違う嬉しさがある。
自分の身体の中に、昨日まで知らなかった力が確かに存在していた。
そして、その力を使えば、自分の掌から本当に炎を生み出すことができる。
まだ指先ほどの小さな火だった。
けれどアレンにとっては、それで十分だった。
七聖獣の物語で聞いた魔法が、初めて物語の向こう側ではなく、自分自身の掌に灯ったのだから。
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