第一章 第八話 初めての一撃
昨日より転ぶ回数を減らす――そう決めて眠った翌朝、アレンはいつもより早く目を覚ました。春の淡い朝日がラークホロウの屋根を照らし始めたばかりで、中央通りから聞こえる人の声もまだ少ない。寝台から起き上がったアレンは、着替える前に棚へ並ぶ七体の木像を見た。左右の翼が揃わない不死鳥、折れた前脚を樹脂で繋いだグリフィン、台座がなければ倒れてしまうキツネ。以前なら失敗した場所を見るたび作り直したいと思っていたが、今では、その跡が残っているからこそ最初の自分が何を知らなかったのか分かる。昨日エララから教わった「転ぶ理由」を思い出しながら、アレンはいつもより早く服へ着替えた。
朝食の席でも意識は稽古へ向いたままだった。パンを食べながら何度も母の顔を窺い、とうとう待ちきれなくなって身を乗り出す。
「お母さん、今日こそ振るよね?」
「何を?」
「木剣だよ。昨日、今日のことを忘れてなかったら少しくらい考えるって言ったじゃん」
「考えるとは言ったけれど、振らせるとは言っていなかった気がするわ」
「じゃあ、もう考えた?」
「今は朝食を食べているところね」
わざと平然としているエララを見て、アレンは不満そうにパンを齧った。それでも以前のように急いで喉へ詰まらせれば、かえって稽古が遅くなることは覚えている。きちんと噛んで食べ終え、食器を片づけて裏庭へ出ると、そこには木剣が用意されていた。
ただし、新しい稽古へすぐ進めるわけではなかった。まず姿勢を整え、前後左右へ動く。昨日まで繰り返した足運びを確かめるよう言われ、アレンは「やっぱり足からじゃん」と肩を落としたが、今日は数日前ほど注意されなかった。右へ急いで身体を流しかけたときも、倒れる前に自分で重心を戻すことができた。
「今の、速く行きすぎた」
「そうね。昨日なら、そのまま次の足を急いでいたかもしれないわ」
「でも今日は転ばなかった」
「そこは昨日より良くなったわね」
認めてもらった瞬間、アレンの顔が明るくなった。
「じゃあ剣は?」
「本当にそれしか考えていないの?」
「だって剣の練習なんだから」
エララは小さく息を吐き、今度は庭の奥を指した。そこには昨日までなかった練習用の標的が立っている。太い木杭へ藁と古布が幾重にも巻かれ、アレンの胸ほどの高さには細い布帯、その中央には炭で小さな丸が描かれていた。
「これ、僕が使うの?」
「今日はね」
「斬っていい?」
「木剣で?」
「じゃあ叩く」
「まずは振るところから」
ようやく本当に剣を振れる。その言葉だけで胸が高鳴った。アレンは標的の前へ立ち、これまで何度も直されてきた足の位置へ身体を収める。エララから「最初は丸を狙って、好きなように振ってみて」と言われると、少し意外に思いながらも木剣を大きく頭上へ持ち上げた。
頭の中にあったのは「強く」と「速く」だった。物語の剣士のように、一撃で敵を倒すつもりで腕を振り下ろす。
「やっ!」
木剣が藁を叩き、乾いた大きな音が庭へ響いた。手へ返った衝撃に驚きながらも、アレンは笑顔で標的を見る。
「すごい音した!」
「したわね」
「今の強かったでしょ?」
「強かったと思うわ」
「じゃあ、できた?」
エララは答えず、炭の丸を指した。木剣が当たった跡は、その中央ではなく右上の肩近くへ残っている。
「……ちょっとずれた」
「胸を狙って肩なら、私は『ちょっと』とは言わないかしら」
「でも当たったよ」
「標的にはね。狙った場所には?」
「……当たってない」
音が大きいことも、強く叩けたことも、それだけでは正しい一撃にならない。そう言われたアレンは、今度こそ丸へ当てようと再び構えた。だが二度目も力と速さを優先し、木剣は反対側へ外れた。さらに、当たる直前には反射的に目を細めていたことまで指摘される。
「まず強く当てることは忘れましょう。今は相手を倒す練習ではなく、自分の木剣を狙った場所へ届ける練習よ」
エララは木剣を受け取ると、標的の前へ立った。派手に力を溜めることもなく、剣を上げ、そのまま滑らかに振り下ろす。乾いた軽い音とともに剣先が炭の丸へ正確に触れた。アレンの一撃より音は小さく、標的もほとんど揺れていない。
「弱くない?」
「今は力を競っていないもの。必要なら強くする。でも最初から力だけを優先して狙いを失えば、どれだけ強い剣でも届かないでしょう?」
木剣を返され、アレンは全身へ入れていた力を少し抜いた。半分くらいと言われても正確な加減は分からない。それでも先ほどほど強く握らずに振ると、今度は右胸へ当たった。まだ丸からは外れているが、大きくずれることはなかった。
「近くなった」
「そうね。もう一度」
そこから、ただ剣を振るだけでも考えることが多いと知った。狙いへ意識を向けすぎれば肩が固まり、腕を気にすれば足元がおろそかになる。力を抜こうとしすぎれば剣先が鈍り、足へ意識を戻せば柄を握りすぎる。一つ直すと別の場所が崩れ、「全部一緒に考えるの無理だよ」と音を上げるアレンに、エララは何度も繰り返すうち、考えなくてもできることが少しずつ増えるのだと教えた。
「じゃあ、いっぱい振ればいい?」
「間違った動きを何度繰り返しても、その間違いを身体が覚えるだけよ。上手くいかなかったら、一度止まって何が違ったのかを見る。昨日と同じ」
そこでアレンは、昨日の足運びと今日の一撃が別の話ではないことに気づいた。失敗した理由を見つけ、次を変える。木剣を握り直して何度か試すうち、最初ほど大きな音は出なくなった代わりに、剣先が炭の丸へ近づく回数は増えていった。
そんなとき、庭の柵の向こうから名前を呼ばれた。振り向くと、人間の少年トーマが柵へ腕を掛け、その横には犬人族の少女ミーナ、少し後ろには年下の猫人族の少年フィルがいる。遊びへ誘いに来たらしい。
「何してんの?」
「剣の練習」
アレンが少し誇らしげに木剣を見せると、トーマは自分も棒で練習していると言い、「昨日フィルに勝った」と胸を張った。
「勝ってない! 僕、何も持ってなかったじゃん!」
「逃げたから俺の勝ち」
「追いかけてきたから逃げただけだよ!」
ミーナが呆れたように尻尾を揺らし、「フィルより三つも大きいのに、それ自慢すること?」と呟く。言い合いを聞いて笑っていたアレンへ、トーマは「だったらあとで俺とやろうぜ」と持ちかけたが、その返事より先にエララが「駄目よ」と止めた。
「アレンはまだ、振った木剣を相手へ届く前に止める練習をしていないから。木でも顔や手へ強く当たれば怪我をするわ」
「俺は止められる」
「誰に教わったの?」
「自分」
「では、なおさら今日はやめておきましょうか」
トーマは不満そうだったが、フィルが昨日も枝を向けられたと抗議し始め、結局三人は先に広場へ行って待つことになった。
友人たちが去ったあと、アレンは木剣を見下ろした。
「止める練習もするの?」
「もちろん。振るより大切になることもあるわ。危ないと思った瞬間に止められなければ、練習相手を傷つけるでしょう。本当の戦いでも、斬る必要がなくなったのに勢いだけで止まれないのは危険よ」
剣術とは上手く斬るためのものだと思っていたアレンには意外だった。立つこと、逃げること、振らないこと、止めること。教わるほど、最初に想像していた「強い剣士」は単純ではなくなっていく。
「一回ちゃんとできたら、今日は終わっていい?」
「何をもって『ちゃんと』とするの?」
「真ん中に当てる。それで、振ったあともちゃんと立ってる」
「なら、急いで終わらせようとして崩さないことね」
早く広場へ行きたい気持ちを抑え、アレンは標的へ向き直った。何度か振ったが、丸へ近づけば今度は前足へ重心が寄りすぎ、足を意識すれば腕が固くなる。「今度こそ」と思うほど焦りが身体へ伝わり、また別の場所が崩れた。
「一回木剣を下ろして」
エララに言われ、アレンは不満そうに従う。
「怒ってる?」
「怒ってない。ちょっと悔しいだけ」
「それなら呼吸して」
ゆっくり息を吸って吐く。怖いときには呼吸を忘れないよう以前教わったが、今は恐怖ではなく、早くできるようになりたいという焦りで身体が固くなっていた。何度か呼吸を繰り返すうち、指と肩から余計な力が抜けていく。
再び標的の前へ立ったアレンは、「強く」とも「速く」とも考えなかった。足は動ける位置へ置き、膝を固めず、重心を一方へ預けすぎない。柄は落とさない程度に握り、肩を上げず、狙いから目を逸らさない。最初は一つずつ言葉にしていたそれらが、木剣を振り始めた瞬間、一つの動きへ繋がった。
ぱしん、と乾いた音がした。
最初ほど大きな音ではない。それでも剣先は炭の丸の中央へ真っ直ぐ届き、振り終えたアレンの足も崩れていなかった。
「……今の?」
エララの表情が柔らかくなる。
「今のよ」
「できた!」
「一回ね」
「でもできた!」
満面の笑みを浮かべたアレンは、すぐに「じゃあもうできる」と胸を張った。エララに促されてもう一度振ると、今度は中央から大きく左上へ外れる。
「……何で?」
「一度できたことと、身についたことは違うでしょう?」
成功した一撃には意味がある。昨日まで知らなかった「正しく動けた感覚」を一度でも知れば、次からは何も分からず振るのではなく、その感覚と比べながら練習できる。そう説明されると、アレンは炭の丸に残った跡を見つめた。
「僕、さっきの感じ覚えとく。音も違ったし、手も変に痛くなかった。振ったあとも動けそうだった」
「なら、それを忘れないことね」
そのあとも何度か振ったが、同じように綺麗に繋がる一撃は僅かだった。それでも、外すたびに腹を立てることは減っていた。うまくいった感覚を知ったからこそ、何が違ったのか以前より少しだけ分かる。
稽古を終えると、アレンは木剣を家へ戻し、エララから「遊びで人へ向けないこと」と改めて念を押されてから広場へ走った。待ちくたびれていたトーマに「強くなった?」と聞かれ、一瞬「なった」と答えかけたものの、今朝のことを思い出して言い直す。
「一回、ちゃんとできた。そのあとも少し」
「俺なら十回できる」
「じゃあお母さんに見てもらえば?」
「それは嫌。細かいこといっぱい言われそう」
「めちゃくちゃ言われるよ」
四人は笑い、そのあとは剣を使わず、いつものように村を走り回って遊んだ。
夜、身体を洗い、眠る準備を終えたアレンは、寝台へ入る前に棚の七体へ目を向けた。初めて木を削った日、一枚の木屑が落ちただけで嬉しかったことを覚えている。その一削りだけでは不死鳥の形など見えなかった。それでも、そこから何度も削り、失敗し、形を変えながら最初の一体を完成させた。
「お母さん。今日の一撃、最初に木を削ったときと似てる?」
毛布を整えていたエララが振り返る。
「どうしてそう思ったの?」
「一回削っただけじゃ不死鳥にならなかったけど、そこから作れたでしょ。今日も一回できただけじゃ剣を使えるようにはならないけど、ちゃんとできる感じを一回知ったから」
エララは少しだけ目を細めた。
「そう考えるなら、よく似ているかもしれないわね」
「じゃあ明日、もっとできるかな」
「明日の方が上手くいかないことだってあるわよ」
「分かってる。ちょっと怒るかもしれないけど、失敗したら何が違ったか見る」
「それを忘れなければ十分よ」
灯りが消え、エララが部屋を出たあとも、アレンはすぐには眠らなかった。毛布の下で右手を僅かに動かしながら、昼間の一撃を思い出す。足が地面を捉えていた感覚。重心が前へ流れなかったこと。腕だけではなく、腰から木剣までが一緒に動いたような瞬間。そして、剣先が丸へ触れたときの乾いた音。
一度できたからといって、もう剣を使えるわけではない。明日は再び外すかもしれず、同じ失敗を何度も繰り返すかもしれない。それでも昨日までとは違う。自分の中に、比べるための感覚が一つ生まれた。
棚に並ぶ最初の七聖獣が、いつかもっと上手く彫れる自分へ繋がっているように、今日の一撃もきっと次の一撃へ繋がっていく。
そう思いながら目を閉じると、眠りへ落ちる少し前まで、あの乾いた音が耳の奥へ心地よく残っていた。
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