第一章 第七話 転ぶ理由
木剣を受け取った翌日も、その次の日も、アレンが想像していたような剣術の稽古はなかなか始まらなかった。朝食を終えて家の裏庭へ出れば、まず足の幅を確かめ、膝を伸ばし切らず、腰を落としすぎず、肩から余計な力を抜く。木剣を握る手にも必要以上の力を込めず、呼吸を整えてから前後左右へ動く。それは最初の日に教わったこととほとんど変わらない。毎日少しずつ姿勢は安定し、エララに直される回数も減っている。それでも八歳のアレンにとって、何日経っても一度も剣を振らせてもらえないことへの不満は、日に日に大きくなっていた。
「今日こそ剣振る?」
その朝も庭へ出るなり尋ねると、黒と薔薇色の髪を後ろでまとめていたエララは、いつもの落ち着いた表情を崩さなかった。
「まず昨日までの続きね」
「昨日もその前の日の続きだったよ」
「なら今日は、その続きのさらに続きね」
「いつ終わるの?」
「身体が覚えるまでかしら」
アレンは露骨に肩を落とした。
「物語の剣士って、こんなに足の幅ばっかり気にしてないよ」
「戦うたびに『右足を半歩出して、膝を緩めて、重心を戻しました』なんて説明していたら、敵を倒すまでに何ページも必要になるでしょう?」
「でもちゃんと斬ってる」
「斬れるようになるまでの何年かを、物語が省いているだけかもしれないわよ」
「ずるい」
そう言いながらも、アレンは木剣を構えた。最初の日のように片足を大きく前へ出すことはなく、膝にも余裕がある。本人が退屈だと思っているあいだにも、何度も繰り返した動きは少しずつ身体へ残り始めていた。
エララの声に合わせて一歩前へ出て、戻る。右へ動き、左へ戻る。最初の数回は問題なかった。しかし同じ動きを繰り返すうち、早く終わらせたいという気持ちが足運びへ現れ始めた。歩幅が少しずつ大きくなり、後退するときには次の足を急ぐ。木剣を握る指にも余計な力が入り、「急がない」と注意されるたびに「急いでない」と返すものの、その返事とは裏腹に動きは雑になっていった。
「後ろへ」
アレンが右足を引き、続いて左足を動かした瞬間、踵が反対の足先へ触れた。
「うわっ!」
身体が後ろへ崩れ、そのまま尻から土の上へ落ちる。木剣の先も乾いた地面を叩いた。
「怪我は?」
「してない」
「なら、自分で立てる?」
「立てる」
差し出される手を待たずに起き上がり、服についた土を強く払う。悔しさはあったが、原因は分かっていた。足が重なったのだ。もう一度構え、今度は後ろ足の位置を確かめながら下がると、問題なく元へ戻れた。
「できた」
「そうね」
少しだけ機嫌を取り戻したアレンは稽古を続けた。しかし、今度は横へ移動した際、地面の小さな窪みへ足を取られて片膝をついた。
「痛っ」
「大丈夫?」
「大丈夫。でもここ、地面悪い」
アレンは窪みを指差した。
「だから転んだ」
「そうかもしれないわね」
エララは否定しなかった。その曖昧な返事が気に入らず、アレンは眉を寄せる。
「何?」
「何も言っていないわよ。もう一度同じ場所を通ってみたら?」
「また足取られるじゃん」
「本当に?」
今度は窪みがあると分かっている。アレンは足元を確認し、少し手前へ足を置いて横へ移動した。身体は傾かなかった。
「……できた」
「どうして?」
「そこに穴があるって知ってたから」
「そうね」
その言葉の意味を、アレンはまだ深く考えなかった。
稽古を続ければ、姿勢を崩す理由はいくつもあった。速く進もうとして前足へ身体の重さを預けすぎることもあれば、失敗しないよう慎重になりすぎて膝や腰を固め、逆に動けなくなることもある。倒れずに踏みとどまれる失敗もあったが、土へ手や膝をつくこともあった。どれも大きな怪我をするようなものではない。それでもアレンには、一つ一つが「まだできていない」と言われているように感じられた。
しかも、剣はまだ一度もまともに振っていない。何日も立ち方を直し、足運びを直され、握り方を注意され、呼吸まで見られている。それでも完璧にはできない。自分では初日より上手くなったつもりなのに、一つ覚えるたびにエララはその先にある別の問題を見つける。午前も半ばを過ぎる頃には、最初にあった楽しさはほとんど消えていた。
「前へ」
アレンは一歩出る。
「少し大きいわ」
「分かってる」
「肩にも力が入ってる」
「入ってないよ」
「一度木剣を下ろしましょう」
「やだ。ちゃんとできるから」
むきになったアレンは、見せつけるように速度を上げた。前へ出て、右へ移り、そこから後ろへ戻る。最初の二つまではできた。しかし後退しようとした瞬間、エララが木剣の側面へ軽く手を添える。前へ進んだときの重心が身体の前側へ残っていたため、アレンは慌てて後ろ足を大きく引いた。反対の足まで急いで動かしたことで足の間隔が狭まり、次の瞬間には両手を地面へついていた。木剣も手を離れ、少し先へ転がっていく。
しばらく、庭には風が草を揺らす音しかなかった。
「アレン?」
「……もう嫌だ」
エララは何も言わず待った。
「剣、全然教えてくれないじゃん」
「今教えているわ」
「これ、剣じゃない!」
アレンは土の上から顔を上げた。
「何日もずっと歩いてるだけだよ。足が違う、膝が違う、肩に力入ってる、握りすぎ、息止めてるって、そればっかり。僕は剣を教えてって言ったんだよ!」
八歳の声が庭へ響いた。それでもエララは怒鳴り返さない。
「今の状態で剣を振れば、もっと姿勢を崩すわ」
「大丈夫だよ!」
「さっきは自分の足だけでも支えられなくなったでしょう?」
「お母さんが押したから!」
「戦う相手は、あなたが動きやすいように待ってくれるの?」
答えられない。分かっているからこそ、余計に悔しかった。
「もうやらない」
「そう」
「本当にやらないから」
「分かったわ」
もっと叱られるか、続けろと言われると思っていた。あまりにあっさり受け入れられ、怒っていたはずのアレンの方が戸惑う。
「……いいの?」
「あなたが本当に剣を学びたくないなら、無理に続けさせるつもりはないわ」
「僕は剣を学びたい!」
「でも、もうやらないと言ったでしょう?」
「だって、こんなの剣じゃない」
エララは地面へ転がった木剣へ視線を向けた。
「アレンが思っている剣術って、どんなもの?」
「剣を振って、斬ったり、突いたり、相手の攻撃を止めたりすること」
「足が絡まって倒れた状態で?」
アレンは口を閉じる。
「相手の前で転んだら?」
「すぐ起きる」
「起きる前に攻撃されたら?」
「剣で止める」
「今みたいに剣を手放していたら?」
土の上にある木剣を見る。もう答えはなかった。
「……じゃあ僕、弱いってこと?」
エララは誤魔化さなかった。
「今は、強い剣士ではないわね」
「だから練習してるんじゃん。でも毎日うまくできない」
「最初から全部できたら、練習する必要がないでしょう?」
「でも僕、下手じゃん。トーマたちに見られたら笑われる」
そこでエララの表情が僅かに変わった。
「それが嫌だったの?」
「……格好悪いから」
「転ぶことが?」
「強い人は転ばないでしょ」
「転ぶわよ」
即答だった。
「お母さんも?」
「もちろん」
「剣持ってるときも?」
ほんの僅かな間があった。
「あるわ」
「戦ってるとき?」
「そういうときもね」
アレンの怒りが一瞬だけ好奇心へ変わった。
「誰と戦ったの?」
「今はそこが大事じゃないでしょう?」
「魔物?」
「アレン」
「人?」
「そこまで」
エララは穏やかなまま、それ以上踏み込ませなかった。アレンは不満そうに口を閉じる。
「でも、お母さん強いんでしょ?」
「強くても転ぶわ。地面が崩れるかもしれない。避けたところに石があることもある。相手に押されることも、自分で距離を間違えることもあるし、疲れれば足だって動かなくなる。どれだけ練習しても、身体を持っている以上、絶対に転ばない人にはなれないの」
エララは木剣を拾い、表面についた土を手で払った。
「転ぶことそのものは、失敗じゃないわ」
「転んだのに?」
「転んだことは事実よ。なかったことにはできない。でも、そこで終わる必要もないでしょう?」
エララは先ほどアレンが足を取られた窪みへ視線を向ける。
「一度目は気づかずに転んだ。でも二度目は?」
「穴があるって知ってたから避けられた」
「なら一度目から、何か一つ覚えたでしょう?」
アレンは窪みを見つめた。
「じゃあ、転んでも何か覚えればいいってこと?」
「何度でも転べばいいという意味ではないわ。本当に危険な場所なら、一度身体を崩しただけで命を失うこともある。でも、生きて立ち上がれたなら、何が自分を倒したのかを見なさい。足だったのか、周りを見ていなかったのか、急ぎすぎたのか、怖くて身体が固まったのか。理由を見ないまま『たまたまだった』で終わらせる方が、私はずっと怖いと思う」
「戦ってる最中にそんなこと考えてたら、また攻撃されるよ」
「そのときはまず生きるの。立つ、避ける、離れる、助けを求める。理由を考えるのは帰ったあとでいい」
「帰れたら?」
「ええ。次があるなら、同じ危険を少しでも減らせるから」
普段と変わらない穏やかな声だった。それでも、その言葉だけは妙に重く聞こえた。物語から覚えた教訓を話しているのではなく、エララ自身がどこかで倒れ、立ち上がり、その理由を何度も考えてきたような響きがあった。
「お母さんも、転んだ理由考えた?」
「もちろん」
「それで、もう転ばなくなった?」
エララは小さく笑う。
「同じ理由では減ったわね」
「違う理由なら?」
「失敗したこともあるわ」
「じゃあ意味ないじゃん」
「一つずつ減っているなら、意味はあるでしょう?」
アレンはしばらく考えたあと、ようやく口元を少し緩めた。
「百回転んでも?」
「百回全部同じ理由なら心配するわ。でも百回それぞれ違うことを知って直してきたなら、最初の自分とはかなり違うはずよ」
「百回は絶対嫌」
「私も嫌ね」
エララが木剣を差し出す。
「続ける?」
アレンはすぐには受け取らなかった。一度「もうやらない」と言った手前、少しだけ恥ずかしい。それでも、本当に剣をやめたいわけではない。七聖獣に会いたい。世界を旅したい。危険なものに出会ったとき、戦うにしても逃げるにしても、自分で選べるくらいには強くなりたい。
「……続ける」
木剣を受け取る。
「でも次は転びたくない」
「なら、さっき何が悪かったか考えてみましょう」
アレンはすぐに構えず、直前の動きを頭の中で辿った。前へ出て、木剣を押され、慌てて戻ろうとした。ただ足が絡まっただけだと思っていたが、それより前から身体は崩れていた。
「前に出すぎた。それで戻るとき急いだ」
「どうして急いだの?」
「身体が前に残ってたから……」
言葉にした瞬間、アレンは自分で同じ姿勢を作った。
「僕、身体は前にあるのに、足だけ後ろに戻そうとしてた」
「そうね」
「じゃあ前に出すぎない。それと、戻るとき身体も一緒に戻す」
「やってみましょう」
先ほどより小さく前へ出る。エララが木剣へ軽く手を添えると身体が僅かに揺れたが、今度は後ろ足だけを慌てて引かなかった。腰と上半身を戻しながら、一歩下がる。
「できた!」
「今はね」
「絶対そう言うと思った」
「一度できたことと、身についたことは別でしょう?」
「でも一回はできた」
「ええ。それはちゃんとできたわ」
今度は、その言葉を素直に受け取ることができた。
稽古を再開してからも、アレンは失敗した。けれど、倒れたり姿勢を崩したりした瞬間に「下手だから」と腹を立てることは少しずつ減った。一度は横へ動く際に身体が傾き、手を地面へついたが、すぐには立たず、直前の足運びを思い返した。
「……右足がまだ止まってないのに、左へ行こうとした」
「そうね」
自分で原因を見つけてから立ち上がり、同じ動きをもう一度やる。今度は問題なく移動できた。原因が分からないときには、エララが答えを教えるのではなく、速度を落として同じ動きを再現させた。ゆっくり動けば、自分の足がどこにあり、腰がどちらへ流れ、何を急いだのかが見えやすくなる。
昼近くになって稽古が終わる頃、アレンは汗の浮いた額を袖で拭いながら木剣を見た。
「今日も一回も振ってない」
「そうね」
「でも昨日よりは、ちょっと分かった」
「何が?」
少し考えてから答える。
「転んだとき、ただ下手だったって思って終わっちゃ駄目ってこと。何で転んだのかを見る。それで次は同じことしないようにする」
エララは静かに微笑んだ。
「十分ね」
「じゃあ明日は剣振る?」
「そこへ戻るの?」
「だって剣の練習だもん」
「今日のことを忘れていなければ、少しくらい考えてもいいわ」
「本当?」
「考えるだけかもしれないけれど」
「お母さん!」
昼食を終えたあと、アレンは寝室へ上がり、棚に並ぶ七体の木像を眺めた。不揃いな翼を持つ不死鳥。折れた脚を樹脂で繋いだグリフィン。倒れないよう台座を残したキツネ。どれにも、上手くできなかった跡が残っている。
以前エララから、失敗したことと、失敗したものに意味がないことは同じではないと教えられた。あのときは木彫りの話だと思っていた。しかし今日の稽古も、どこか似ている。転んだ事実を消すことはできない。それでも、その跡を見れば次に何を変えるべきなのかを考えることはできる。
夕方、薪を取りに裏庭へ出ると、午前中の稽古でついた足跡がまだ残っていた。何度も踏み込んだ場所は土が削れ、滑ったところには線が伸び、手や膝をついた場所にも小さな跡がある。アレンは木剣を持っていなかったが、その場で一歩前へ出てみた。朝より歩幅を抑え、身体の重さを前へ残しすぎない。そこから足だけを急いで引かず、身体ごと後ろへ戻る。
朝より自然に元の位置へ立つことができた。
「何してるの?」
家の入口からエララの声がした。
「確認してる」
「何を?」
「今日、何で転んだか」
「分かった?」
「全部じゃないけど、だいたい」
「なら明日は転ばない?」
反射的に「絶対」と答えそうになり、アレンは言葉を止めた。今朝だって、転ぶつもりなどなかったのだ。
「……今日よりは減らしたい。でも、また転ぶかもしれない」
「そのときは?」
アレンは少し考えてから母を見る。
「何で転んだか探す。それで次に直す」
エララの表情が柔らかくなる。
「そうね。ただし、転ぶ前にもちゃんと気をつけること」
「分かってる」
「それから薪」
「あ」
「忘れていたでしょう?」
「今持つ!」
慌てて薪の束へ向かう息子を見て、エララは小さく笑った。
その日アレンが覚えたのは、二度と倒れないための方法ではなかった。明日になれば、また別の理由で姿勢を崩すかもしれない。もっと速く、もっと複雑に動くようになれば、今まで知らなかった失敗も増えていくだろう。
それでも、転んだ自分を恥じるだけで終わる必要はない。
何が自分を倒したのかを見て、自分で立ち上がり、もう一度同じ一歩を踏み出す。そのとき今日よりほんの少しだけ上手く立てるようになっていれば、それでいい。
明日は、今日より少しだけ転ぶ回数を減らしたい。
そう思えるようになったことが、その日のアレンにとって一番大きな変化だった。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




