第一章 第六話 木剣を握る日
春が再びラークホロウへ巡ってきた頃、アレン・ヴェイレンは八歳になった。冬のあいだ白く凍っていた畑は柔らかさを取り戻し、村の外れを流れる小川には雪解け水が勢いよく走っている。軒先では小鳥が巣を作り、街道を行き交う荷車や旅人も日ごとに増えていた。アレンも一年前より少し背が伸び、肩や腕には、木登りや村中を走り回る子供らしい筋肉がつき始めている。それでも寝室の棚には、七歳の自分が初めて彫った七聖獣の木像が変わらず並んでいた。左右の翼が揃わない不死鳥も、怒った鶏にしか見えないと母に笑われたグリフィンも、今ではときどき自分で埃を払うほど大切なものになっている。
八歳の誕生日から三日後の朝、アレンは食卓の上に置かれた一本の木剣を前に、朝食へほとんど目を向けていなかった。大人の剣より短く、金属の刃もない。それでも玩具とは明らかに違う。硬く粘りのある木を丁寧に削った剣身には歪みがなく、柄はアレンが両手で握れる太さに整えられ、簡素な鍔まで備わっている。磨かれた表面の根元には、小さく「B」の文字が刻まれていた。
「これ、本当に僕の?」
向かいで薬草茶を飲んでいたエララが、呆れたように眉を上げた。
「昨日も同じことを聞かなかったかしら」
「昨日は包んであったから、ちゃんと見てない」
「隙間からずっと覗いていたでしょう?」
アレンは聞こえなかったふりをして木剣へ顔を近づけ、根元の印を指差した。
「これ、ボルドさん?」
「ええ。あなたの身体に合わせて作ってくれたの。重すぎず、軽すぎて振り回すだけにもならないようにね」
「持っていい?」
「朝食を食べてから」
一度だけ、と食い下がっても許可は出なかったため、アレンは普段では考えられない速さでパンと卵を口へ運び、急ぎすぎてパンを喉へ詰まらせかけた。エララに背中を叩かれながら水を飲み、「剣を持つ前に朝食で倒れないでね」と言われると、涙目のまま「パンが悪い」と反論して、今度はきちんと噛んで食べる。
食器を片づけてようやく木剣を手に取ると、見ていたときよりはっきりと重みを感じた。両手なら問題なく持てるが、長く構えていれば腕が疲れるだろうことは八歳のアレンにも分かる。
「思ったより重い」
「本物の剣はもっと重く感じるわ。重さだけじゃなく、刃の長さや重心も違うから」
「お母さん、本物使えるの?」
「少しくらいならね」
「どれくらい?」
「その質問は外へ行ってからにしましょう。それと、剣を持ったまま家の中を歩かない」
先回りして注意され、アレンは木剣を身体へ引き寄せた。
家の裏手にある土の庭では、一角だけ石や道具が片づけられ、地面も平らに均されていた。そこへ出るなり中央まで進んだアレンは、期待に満ちた顔で振り返る。
「最初は何する? 上から振る? 横? 突き?」
「立つところから」
「……立つ?」
「そう」
「もう立ってるよ」
エララは笑わず、普段立っていることと、何かが自分へ向かってくる状況で立つことは違うと説明した。足元が崩れれば、どれほど上手く剣を振れても意味がない。納得し切れないまま、アレンは村の警備兵や物語の挿絵を思い出し、右足を大きく前へ出して膝を曲げ、木剣を肩の横まで持ち上げた。
「これ」
「格好いいわね」
「でしょ?」
「では、そのまま動かないで」
褒められて胸を張った直後、肩を軽く押された。ほんの僅かな力だったのに重心が崩れ、アレンは慌てて足を引いて尻餅を避ける。
「今のずるい。急に押した」
「戦う相手が『今から押します』と教えてくれると思う?」
「剣で戦うなら押さないでしょ」
「身体ごとぶつかってくることもあるわ。人間より重い魔物なら、もっと簡単に飛ばされるかもしれない」
昨年聞いた牙猪の話を思い出し、アレンは反論をやめた。エララは右足を僅かに前へ置き、膝を固めず、腰を落としすぎず、前後左右のどこへでも動ける位置を探すよう教える。母の足の位置をそのまま真似しようとすると、「私とあなたでは身体が違うでしょう」と直された。何度か位置を変えた末、正面から肩を押されても足を動かさず耐えられたが、安心したところを横から押され、今度は大きく傾いた。
「……できてなかった」
「正面から押されるためだけに立つわけじゃないからね」
そこからしばらく、剣らしいことは何一つしなかった。アレンは木剣を持ったまま立ち、前、横、斜めから軽く押されるたびに足や腰を直す。最初は何度も一歩を踏み出したものの、少しずつ、自分の身体の中心がどこにあるのかを意識できるようになった。
「いつ剣振るの?」
「まだ」
「ずっと立ってるだけなんだけど」
「振っても自分が転ばないためよ」
不満そうな顔のまま続けていると、次は握り方を教えられた。アレンは簡単だと言って柄を強く握ったが、一分もしないうちに指から前腕までが重くなった。そこでエララは木剣を受け取り、力んでいるようには見えない手で柄を握ってみせる。アレンが剣身側を引いても簡単には抜けない。
「落とさない。でも、最初から最後まで握り潰そうともしない。必要のないときまで全力で力を入れていたら、肝心なときに腕が動かなくなるわ」
「どれくらいの力?」
「それを自分で覚えるの」
「またそれ?」
木剣を返され、今度は意識して力を抜くと、柄尻を軽く引かれただけで剣が動きかけた。強すぎても弱すぎても駄目らしい。何度か試すうち、握るという単純な動作にも加減があり、指や手首だけでなく肩まで固めれば、構えているだけで疲れることを身体で理解し始める。
「剣って、思ってたより面倒」
「だから教わるのでしょう?」
その次が呼吸だと聞いた瞬間、アレンはさらに疑わしそうな顔をした。
「息する練習もするの? 僕、八年間ずっとしてる」
「では、今教えた姿勢を崩さず十まで数えてみて」
簡単だと言って構えたアレンは、足、膝、腰、握り、肩へ順番に意識を向けた。何一つ間違えたくない。そのまま数え続け、「七、八」と口にしたところでエララに呼び止められる。
「アレン。息してる?」
言われた瞬間、大きく空気を吸い込んだ。
「……してなかった」
「集中すると止める癖があるみたいね」
エララは、呼吸に合わせて肩を大きく上下させず、吸いながら姿勢を保ち、吐きながら不要な力を抜くよう教えた。そして、相手が怖いときほど人は息を止め、身体を固め、目の前の一つしか見えなくなることがあると話す。
「お母さんも怖くなる?」
「なるわよ」
「本当に? 何でも平気そうなのに」
その言葉に、エララはほんの僅かに目を細めた。春風が黒と薔薇色の髪を揺らし、一瞬だけ視線が遠くへ向く。
「そんな人はいないわ。少なくとも私は違う」
「何が怖い?」
「大切なものを失うことかしら」
「物?」
「物とは限らないわ」
アレンは首を傾げたが、それ以上の説明はなかった。エララはただ、怖くないふりをする必要はないと続けた。怖いと気づいたら、まず呼吸を思い出すこと。必要なら戦えばいいが、戦わなくていいなら逃げてもいい。
「英雄は逃げないよ」
「物語を書いた人が、逃げた場面を省いたのかもしれないでしょう?」
「それはずるい」
「生きて帰るためなら、少しくらい格好悪くてもいいのよ」
納得し切れないながらも、アレンはもう一度静かに呼吸した。先ほどより肩の力は抜けていた。
午前も半ばを過ぎる頃、ようやく歩法へ移った。とはいえ、期待したような踏み込みや斬り込みではない。構えを崩さず、足を交差させず、一歩前へ出て戻る。右へ動き、左へ戻る。それだけを繰り返す。
「普通に歩くのと何が違うの?」
「前へ出た直後にも後ろへ戻れること。右へ避けたあとにも左へ動けること。自分の足で自分の動きを邪魔しないことよ」
簡単そうだと思ったのは最初だけだった。少し速く動こうとした瞬間、後退する足が交差し、自分の踵へ引っかかって尻餅をつく。乾いた土が舞い、アレンは痛そうに顔をしかめた。
「どこか怪我した?」
「お尻だけ」
「なら、どうして転んだと思う?」
転ぶ直前を思い返し、急いで戻ろうとして足を交差させたからだと答えると、エララは頷いた。
「なら次は?」
「交差しない」
「それが分かったなら、転んだ意味はあるわ」
アレンは尻についた土を払い、すぐに構え直した。前へ一歩、戻る。右、左。疲れが出始めると膝が伸び、握りが強くなり、呼吸も浅くなる。そのたびに直され、一度できたことでも疲れれば簡単に崩れるのだと知った。
「何回やればいい?」
「数え切れないくらい」
「百?」
「もっとかも」
「千?」
「それも越えるかもしれないわね」
露骨に嫌そうな顔をしたアレンへ、エララが「今からやめる?」と尋ねる。
「やめない」
返事だけは早かった。
昼近く、稽古の終わりを告げられると、アレンは汗の浮いた額を拭いながら木剣を見た。
「僕、まだ一回も振ってない」
「そうね」
「剣の練習なのに?」
「剣の練習だからよ」
「今日ずっと、立って、握って、息して、歩いただけだよ」
「それを何も考えずにできる?」
言い返しかけて、アレンは黙った。朝なら足を大きく開き、肩へ力を入れ、柄を全力で握ることが格好いい構えだと思っていた。しかし今なら、少し押されただけで崩れることも、握りすぎれば振る前に疲れることも、集中すると呼吸を止めることも、慌てて下がれば自分の足で転ぶことも知っている。
「……まだできない」
「なら、今日やったことは無駄だった?」
「……無駄じゃない。でも、一回くらい振りたかった」
「その気持ちは分かるわ。今日のことを忘れていなければ、明日は少しくらい振れるかもしれない」
「絶対?」
「アレン」
「はい」
木剣を受け取ろうとしたエララに、アレンはすぐには渡さなかった。朝とは違う持ち方で柄を握り、足を整え、膝と肩の力を抜いて静かに息を吸う。
「お母さん。僕、ちゃんと強くなれる?」
それまでの冗談めいた調子とは違っていた。エララは息子を見つめ、どうして強くなりたいのかと尋ねる。
「七聖獣に会いに行くから。世界を旅したいし、遠いところにも行きたい。魔物に会うかもしれないし……誰かが困ってたら、助けられるようになりたい」
「剣があれば、誰でも助けられる?」
「分かんない」
「剣ではどうにもならないこともあるわ。剣を抜いたことで、もっと悪くなることだってある。でも、使わなければ守れない場面もある。だから、剣を持つことと強いことを同じだと思わないでほしいの」
「じゃあ、強いって何?」
八歳の問いに、エララは少し考えた。
「私にも一つの答えしかないわけじゃない。でも、自分ができないことを知るのも強さだと思う。怖いときに怖いと認めることも、勝てない相手から逃げることも、誰か一人で全部背負おうとしないこともね」
「それ、格好いい?」
「格好悪く見えるときもあるでしょうね」
「じゃあ嫌だな」
「八歳らしくて安心したわ」
むっとしたアレンだったが、やがて自分でも笑った。
「でも、強くなりたい」
「なら続けなさい。今日みたいな退屈なことも含めて」
「明日も立つ?」
「必要なら」
「歩く?」
「必要なら」
「呼吸も?」
「それは毎日しなさい」
二人の笑い声が、春の庭へ広がった。
昼食のあと、エララが家の中で乾燥させた薬草を分けていると、庭から物音がしないことに気づいた。窓の外を見ると、アレンが一人で立っている。木剣は振っていない。今日は勝手に振らないという約束を守り、朝に教わった足の幅を確かめ、膝を緩め、柄を握りすぎないよう何度か指を開閉していた。静かに息を吸って吐き、一度姿勢が崩れると、また最初から立ち直る。誰かに見せるためではなく、自分の身体へ覚え込ませるように、同じ動きを繰り返していた。
エララは窓越しにその姿を見つめた。正式に剣術を学び始めた最初の日、アレンは結局一度も木剣を振らなかった。それでも、安定して立つこと、必要以上に力まないこと、恐怖や集中の中でも呼吸を忘れないこと、前へ進んだあとにも戻れる足を残しておくことを、ほんの少し身体で理解し始めている。
いつか遠い場所へ旅立つ日が来たとき、そのどれが命を守るのか、今のアレンには分からない。
けれど強さは、剣を振り下ろした瞬間に突然生まれるものではない。その日アレンは初めて、誰にも目立たないところで何度も立ち直り、自分の足で立ち続けることから始まるものがあると知った。
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