第一章 第五話 星のあいだの闇
北東の丘を渡る夜風は、ラークホロウの家々の間で感じるものより少し冷たかった。頭上では古い木の葉が静かに擦れ、草の先へ溜まった夜露が星明かりを受けて細かな光を返している。エララが消したランタンは毛布の端へ置かれたままで、辺りを照らす人工の灯りは一つもなかった。そのおかげで夜空には村からでは見えなかった無数の星が浮かび、とりわけ七聖獣を表す「創造主の冠」の七つの光は、つい先ほど名前を教わったばかりのアレンには、もう他のどの星より特別なものに見えていた。
毛布の上へ仰向けになったアレンは、母に指を差してもらわなくても見つけられるか確かめるように、左から一つずつ星を追っていた。少し赤みを帯びた不死鳥の星から始まり、グリフィン、キツネ、青白く目立つネラリス、黄白色のウルリクムミ、その隣の麒麟、そして最後のエイラヴェル。途中で見失いそうになっては最初へ戻り、それでも三度目には迷わず七つを数え終えた。
「もう覚えた」
得意げに報告すると、隣で同じように夜空を眺めていたエララが笑った。
「さっきも同じことを聞いた気がするわ」
「でも今は、もっとちゃんと覚えた。お母さんが教えてくれなくても全部分かる」
「では明日、家の窓からでも見つけられる?」
「……たぶん」
「ずいぶん早く自信が小さくなったわね」
「ここより星が少なく見えるから難しいだけだよ」
アレンは言い訳するように答えながらも、すぐ再び夜空へ目を向けた。創造主の冠は完全な円ではなく、緩やかな弧を描いている。冠と言われれば確かにそう見えるし、大きな弓を夜空へ立て掛けているようにも見える。七つの明るい星の周囲には、名前も知らない小さな光が無数に散っていた。
「星って動くの?」
「動いて見えるわよ。夜のあいだにも少しずつ位置が変わるし、季節によって見える場所も違う」
「じゃあ創造主の冠も?」
「ええ。でも星同士の並びそのものは大きく変わらないから、昔の旅人たちは星を道しるべにもしたの」
「海を渡る人も?」
「海でも、広い草原でも、砂漠でもね。道のない場所では、夜空が方角を知る助けになることがあるわ」
旅という言葉が出た途端、アレンの興味はさらに強くなった。
「僕も覚えた方がいい?」
「本当に旅へ出たいなら、知っておいて損はないでしょうね」
「じゃあ教えて」
「今夜全部?」
「覚えられるところまで」
「七歳で随分欲張りね」
そう言いながらも、エララは簡単な星の見方をいくつか教えてくれた。季節によって位置を変える星、方角を知る手掛かりになる並び、海を渡る船乗りたちがよく探す星。ただし、星だけを覚えて森へ入り、雲が出た途端に帰れなくなるような真似は絶対にしてはいけないとも釘を刺された。
「星が見えなくなったら、他のものを見るの。地形、川の流れ、風、木や苔、それから地図。何より、自分がどこから来たのかを覚えておくことね」
「覚えるもの、いっぱいある」
「旅は道を歩くだけじゃないもの」
「でも、七聖獣を探すなら必要なんでしょ?」
「きっとね」
アレンはその答えに満足したようで、しばらく黙って空を眺めた。七つの星だけでなく、その周囲へ散る小さな光にも目を向ける。ある並びは剣に見え、別の星々は翼を広げた鳥のようにも思えた。昔の人々が夜空を見ながら様々な物語を考えた理由が、少しだけ分かった気がした。
やがてアレンの視線は、もう一度創造主の冠へ戻った。不死鳥から順番に追い、グリフィン、キツネ、ネラリスまで来たところで、その目が止まる。
「……お母さん」
「なあに?」
「星って、何もないところもある?」
「もちろん。どこにでも同じ数だけ星が見えるわけじゃないから」
「そうじゃなくて……なんか、そこだけ違う」
アレンは上体を起こし、ネラリスとウルリクムミのあいだを指差した。
「ここ」
エララも身体を起こした。
「どこ?」
「ネラリスの次。ウルリクムミの前」
その場所へエララの視線が向いた瞬間、彼女の表情から笑みが消えた。それはほんの僅かな変化だったが、今度はアレンも母の横顔を見ていたため、完全には見逃さなかった。
「……何か見える?」
エララは穏やかな声を保っていた。ただ、先ほどまで星を教えていたときより僅かに低い。
「黒い」
「夜空だからでしょう?」
「違うよ。周りより、もっと黒い」
アレンの言葉通りだった。青白いネラリスの星と、落ち着いた黄白色をしたウルリクムミの星。そのあいだには本来、他の場所と同じように小さな星々が散っているはずなのに、今夜はそこだけが不自然に暗かった。単に星が少ない場所なのではない。周囲の夜空よりも一段深い黒が、輪郭の曖昧な塊となって浮かび、その向こう側にあるはずの光をまとめて覆い隠しているように見える。
「雲かな?」
アレンが尋ねた。
エララはすぐには答えず、その暗い場所を見つめ続けていた。
「……そうかもしれないわね」
「でも動いてないよ」
「地上と高い空では、風の向きも強さも違うわ。私たちのところで風が吹いていても、高い場所の雲がほとんど動かないことはある」
説明そのものは不自然ではなかった。七歳のアレンにも納得できる理屈だった。それでも、母の反応の方が気になった。
「お母さん」
「何?」
「さっきまで笑ってたのに」
エララが息子を見る。
「今、怖い顔してる」
夜風が二人の髪を揺らした。アレンの黒髪には星明かりの下でも僅かな赤銅色が混じり、エララの黒と薔薇色の髪は頬へかかっている。彼女は一度だけ目を伏せ、それからいつもの柔らかな表情を作った。
「少し驚いただけよ」
「何に?」
「アレンがよく気づいたから」
「お母さんは気づいてなかった?」
「星の方を見ていたもの」
アレンは再び暗闇へ視線を戻した。おかしい気がする。エララは星の場所をよく知っている。創造主の冠の七つも、周囲の星も、旅で星を使う方法まで知っていた。そんな母が、自分より先にあれへ気づかなかったのだろうか。
「昨日もあったのかな」
「昨日はここから空を見ていないでしょう?」
「お母さんは?」
「覚えていないわ」
「いつもあるの?」
「分からない」
エララが「分からない」と答えるのは珍しくなかった。けれど今夜のそれは、普段とは少し違って聞こえた。知らないから答えられないというより、何かを確かめながら慎重に言葉を選んでいるようだった。
アレンはもう一度暗闇を見る。周囲には薄い雲がいくつか流れていた。目を凝らしていれば、その形が少しずつ変わっていることも分かる。しかしネラリスとウルリクムミのあいだに浮かぶ黒い部分だけは、同じ場所から少しも動いていない。
「やっぱり変だよ」
「何が?」
「周りの雲は動いてるのに、あれだけずっと同じところにいる」
エララは返事をしなかった。毛布の上へ置かれていた彼女の手が、無意識に布を僅かに握り締める。
「お母さん?」
アレンが母へ顔を向けた。
「これ――」
再び空を見る。
そこで言葉が止まった。
先ほどまで黒いものが浮かんでいた場所には、普通の夜空が戻っていた。小さな星々が何事もなかったように瞬いている。暗闇が少しずつ薄れたところを見たわけではない。風に押されて横へ流れたわけでもない。アレンがほんの短い時間だけ母へ視線を向け、再び見上げたときには、最初から何も存在しなかったかのように消えていた。
「……なくなった」
「そうね」
エララも同じ場所を見ている。
「雲だったの?」
「たぶん」
「でも、急に消えた」
「薄い雲なら、見る角度や光の当たり方で急に見えなくなることもあるわ」
アレンは納得できなかった。ネラリスの星からウルリクムミまでを何度も目で辿る。そこにはもう異常なものはなく、細かな星々が普通に並んでいる。
「お母さん、ああいうの見たことある?」
その問いに、エララは一瞬だけ間を置いた。
「……似たものなら」
「どこで?」
今度は答えが返ってこなかった。エララは毛布の端を持ち上げ、丁寧に畳み始める。
「少し冷えてきたわ。今日はもう帰りましょう」
「まだそんなに寒くないよ」
「明日の朝、ちゃんと起きると言っていたでしょう?」
「起きるけど……」
アレンはもう少し空を見ていたかった。しかしエララはすでにランタンへ火を戻している。結局、アレンも立ち上がり、最後に一度だけ創造主の冠を振り返ってから丘を下り始めた。
来るときには、暗い道さえ知らない世界へ続いているようで楽しかった。今も同じ道なのに、アレンは何度も夜空を見上げてしまう。創造主の冠には七つの星がある。それ以外に不自然なものは何も見えない。けれど、たった今見たものが自分の見間違いだったとは思えなかった。
「お母さん」
「今度は何?」
「創造主の冠って、ずっと七つ?」
前を歩いていたエララの足取りが、ごく僅かに乱れた。
「ええ」
「昔から?」
「昔からよ」
「八つだったことはない?」
今度こそ、エララは完全に足を止めた。
アレンも二歩ほど進んでから止まり、振り返る。ランタンの明かりが母の顔を下から照らしているため、その表情はいつもより読み取りにくい。
「どうして八つだと思ったの?」
「八つだと思ってるわけじゃないよ。ただ、七つの星のあいだにあれがあったから。もし雲じゃなくて何かだったなら、もう一個そこにいたみたいに見えた」
エララはしばらく黙っていた。アレンは、自分が何か変なことを言ったのだろうかと思い始めた頃、ようやく母が口を開く。
「創造主の冠は七つよ」
「七つだけ?」
「ええ」
「絶対?」
短い沈黙のあと、エララは頷いた。
「……ええ」
アレンは母の顔を見た。何がおかしいのかはまだ分からない。ただ、いつものエララと少し違う。七歳の少年には、大人が嘘をつくときの顔を正確に見抜くことなどできなかったし、本当のことの一部だけを話している場合があることも、まだよく知らない。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
ラークホロウの村門へ戻ると、出発するときに会った犬人族の夜警がまだ勤務についていた。茶色い耳を持つ男性は二人の姿を見ると軽く手を上げる。
「お帰りなさい。星はよく見えましたか?」
「いっぱい見えたよ。七聖獣の星も!」
「創造主の冠か。今夜は空が澄んでいるから、綺麗だっただろう」
「うん。それと、途中で黒い――」
アレンの肩へ、エララの手が静かに置かれた。
「アレン。夜番の邪魔をしたら駄目でしょう?」
「でも聞かれたから」
「星が綺麗だったと伝えれば十分よ」
夜警は気にした様子もなく笑った。
「子供が星の話をするくらいなら邪魔にはなりませんよ」
「ほら」
「アレン」
今度は少しだけ強い声だった。アレンは口を閉じる。
「……はい」
家へ戻り、寝る準備を終える頃になっても、アレンの頭から星のあいだにあった暗闇は消えなかった。寝室へ入ると、自然に棚へ目が向く。そこには自分で作った七体の木像がいつもの順番で並んでいる。
不死鳥、グリフィン、キツネ、ネラリス、ウルリクムミ、麒麟、エイラヴェル。
アレンは少し考え、ネラリスの木像へ手を伸ばした。続いてウルリクムミも持ち上げ、二体の間隔を以前より少しだけ狭くする。
「何をしてるの?」
寝室へ入ってきたエララが尋ねた。
「何でもない。ちょっと、こっちの方がいいかなって」
アレンは二体を見る。
今夜、あの黒いものが現れたのは、この二頭を表す星のあいだだった。近づけたところで何が変わるわけでもない。それでも、離して置いておくより少しだけ安心できるような気がした。
「そう」
エララはそれ以上追及せず、いつものように寝台の毛布を整えた。灯りを消し、母が部屋を出たあとも、アレンは暗闇の中でしばらく棚の方を見ていた。木像の形はほとんど見えない。それでも、星空に浮かんでいたあの黒い部分だけは、目を閉じても妙にはっきりと思い出すことができた。
やがて少年の呼吸が規則正しくなり、家の中が静かになる。
エララは一階へ降りても、すぐには自分の寝室へ向かわなかった。暖炉には弱い火が残り、橙色の光が食卓と壁へ揺れている。彼女は机の上に置かれていた一冊の古い本を手に取った。それは前夜、アレンへ七聖獣の物語を読み聞かせた本だった。
表紙を指先でゆっくり撫でる。
けれど開かなかった。
代わりに窓へ近づき、木戸を押し開ける。
ラークホロウの屋根の向こうに夜空が広がっていた。丘からより見える星は少ない。それでも創造主の冠は確認できる。不死鳥から始まり、グリフィン、キツネ、ネラリス、ウルリクムミ、麒麟、エイラヴェル。七つの光は昔からそうであったかのように静かに輝き、そのあいだにも今は何の異常もなかった。
エララは長いあいだ、ネラリスとウルリクムミの星の間を見つめていた。
「……まだ早いわ」
誰へ向けた言葉なのかは分からない。
眠っているアレンへなのか、自分自身へなのか。それとも、ほんの一瞬だけ星々のあいだに現れた、あの名もない暗闇へなのか。
答えるものはなかった。
エララは窓を閉め、今夜に限って木戸まできっちりと掛けた。
その夜、ラークホロウの上には創造主の冠が変わらず輝いていた。数えれば七つ。昔からそう伝えられてきた通り、世界を創った七聖獣を象徴する七つの星だけが、静かな夜空に並んでいる。
少なくとも、そのとき見えるものは。
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