第一章 第四話 七つの星
七体の木像が寝室の棚へ並ぶようになってから、アレンは以前より頻繁に七聖獣のことを考えるようになっていた。朝起きればまず棚を見て、外へ遊びに行く前にも一度眺め、夜になれば眠る前に並びが崩れていないか確かめる。不死鳥の翼は左右で形が少し違い、グリフィンは相変わらず怒った鶏に見えなくもなく、キツネの尾は小さな台座がなければ後ろへ倒れてしまう。それでも今のアレンにとって、七体はただの不格好な木彫りではなかった。いつか本物を見るという夢を、毎日目に見える形で思い出させてくれる、大切なものになり始めていた。
その日のラークホロウは、夕暮れになっても普段より少し賑やかだった。季節を越えて街道を移動する旅人たちが何組か村へ入り、宿屋や厩舎の周囲には見慣れない荷物が並んでいる。アレンが家の前で薪を運んでいると、中央通りの向こうから硬質な蹄の音が近づいてきた。馬にしては足音の間隔が少し違うと思って顔を上げると、三人のケンタウロスが街道を進んでくるところだった。
先頭は大柄な男性で、人間と同じ上半身には深緑色の外套を纏い、その下へ続く馬体は艶のある黒褐色をしている。背には大きな荷袋が左右へ固定され、腰には短弓が吊られていた。その後ろには栗毛の女性と、まだ若い灰色の馬体を持つ少年らしいケンタウロスが続いている。三人は村人へ軽く会釈しながら宿屋の方へ向かい、アレンは抱えていた薪のことも忘れたように、その姿をじっと目で追った。
「珍しい?」
背後からエララに尋ねられ、アレンはようやく振り返った。
「前にも見たことある。でも、近くで見るとやっぱり大きい」
「そうね」
「ずっと歩いて旅するのかな」
「場所によるでしょうけれど、彼らなら人間より長い距離を移動しやすいでしょうね」
アレンは遠ざかる三人へ再び視線を向けた。腰の革袋、外套についた土、荷物の側面へ括りつけられた金属の鍋。そのどれもが、ラークホロウへ着くまでに長い道を進んできたことを感じさせる。
「どこから来たんだろう」
「聞いてみたかった?」
「ちょっと」
「だったら、じっと見ているより挨拶をして尋ねた方がいいわね」
アレンは少し気まずそうに母を見た。
「見すぎた?」
「少しだけ」
「だって珍しかったから」
「珍しいと思うこと自体は悪くないわ。でも、相手は見世物ではないでしょう?」
「うん」
「自分が知らない姿の人に会ったときほど、ちゃんと一人の人として見ること。覚えておきなさい」
言われてからもう一度見ると、最初に目へ入った馬の身体よりも、その向こうの様子へ意識が向いた。先頭の男性は宿屋の主人と笑いながら言葉を交わし、若い少年が荷物を降ろそうとすると、栗毛の女性が隣から手を貸している。姿が違っていても、旅をしてきた家族か仲間なのだろう。ラークホロウへ来た理由まで特別とは限らないのだと、七歳のアレンにも少しだけ分かった。
「分かった」
「なら薪を中へ運んで。あなたがずっと持っているせいで夕食が作れないわ」
「あ」
自分がまだ薪を抱えたままだったことを思い出し、アレンは慌てて家へ入った。背後から小さく笑うエララの声が聞こえたが、振り返ればまた何か言われそうだったので、今度は真っ直ぐ台所まで運んだ。
夕食を終えたあと、エララは食器を洗いながら、不意にアレンへ声を掛けた。いつもの夜なら、このあとは少し本を読んでもらうか、棚の木像を眺めて寝る時間になるところだった。
「今夜、少し外へ行きましょうか」
椅子へ座っていたアレンは、すぐに顔を上げた。
「どこ?」
「村の外」
「夜に?」
「夜だから見られるものよ」
「何?」
「行けば分かるわ」
それだけで十分だった。アレンは寝る前だということも忘れて急いで外套を取りに行き、左右を逆に羽織って戻ってきたため、結局エララに直されることになった。母は厚手の肩掛けと小さな布包み、それから折り畳んだ毛布を持っている。
「遠い?」
「歩ける距離よ」
「森?」
「違う」
「川?」
「質問が多い」
「だって何も教えてくれないから」
「たまには、知らないまま歩くのも楽しいでしょう?」
玄関を出ると、昼とは別のラークホロウが広がっていた。家々の窓には暖かな灯りが浮かび、煙突から立つ煙は暗い空へゆっくり溶けていく。通りを歩く人は少なくなっていたが、宿屋の前からは旅人たちの笑い声が聞こえ、パン工房では明日の仕込みをしているらしく、窓から細い光が漏れている。村門では二人の犬人族の警備員が夜番へ入り、門柱へ吊られたランタンの火を確認していた。
「こんばんは、エララさん。こんな時間に外へ?」
茶色い犬耳を持つ警備員が声を掛けると、エララは足を止めた。
「北東の丘まで。少し空を見に行くだけです」
「今日は月根の森側で牙猪の足跡が出ています。丘なら問題ないと思いますが、森の縁へは寄らないように」
「分かりました。ありがとうございます」
門を通り抜けたあと、アレンは気になって振り返った。
「牙猪って強い?」
「大人でも正面からぶつかられれば危険よ」
「剣があれば?」
「剣を持っているだけで安全になると思わないこと」
「まだ剣持ってないけど」
「だから今は、なおさら近づかない」
村を出ると人工の灯りは急に少なくなり、足元の道を照らすのは月明かりと、エララが持つ小さなランタンだけになった。左右には夜露を帯びた草が広がり、風が通るたび細かな波のように揺れている。昼間なら遠くまで見渡せる丘陵も、今は黒い輪郭が幾重にも重なって見えるだけだった。アレンは最初こそ暗さを気にしていたが、歩き続けるうちに虫の声や草の匂い、遠くで揺れる木々の音へ耳を傾け始めた。
「昼と全然違う」
「同じ場所なのにね」
「夜の方が広く見える」
「どうして?」
少し考え、アレンは遠くの暗がりを見つめた。
「遠くが見えないから」
「面白い考え方ね」
「見えないのに広いって変?」
「いいえ。見えないから、その先を想像できることもあるでしょう?」
エララの言葉を聞きながら、アレンは暗い丘の向こうへ目を凝らした。あの先にも道があり、それを辿れば知らない町や国へ繋がっているのだろう。七歳の今は、どれほど歩けばラークホロウが見えなくなるのかも、どれほど進めば言葉や食べ物まで変わるのかも知らない。それでも、見えない向こう側だからこそ、どこまでも続いているように思えた。
二人が辿り着いたのは、村の北東にある緩やかな丘だった。頂上近くには一本の古い木が立ち、太い幹から片側へ大きく枝を伸ばしている。その下だけ草が短くなっており、昼間なら村の子供たちが遊ぶこともある場所だったが、夜に訪れるとまるで別の土地のようだった。エララは木の下へ持ってきた毛布を広げ、アレンへ座るよう促した。
「ここ?」
「ここ」
「何見るの?」
「まず座って」
アレンが毛布へ腰を下ろすと、エララも隣に座り、持ってきたランタンの火を消した。辺りは一気に暗くなり、最初のうちは足元の草の形さえ曖昧になる。
「何で消すの?」
「少し待って」
言われるまま待っていると、少しずつ目が暗さへ慣れてきた。草も、古い木も、隣に座る母の横顔も再び輪郭を取り戻していく。その頃になって、エララが何も言わず指を上へ向けた。
アレンもつられるように空を見上げ、しばらく言葉を失った。ラークホロウの家々の間から見る夜空とはまるで違い、頭上から地平線近くまで数え切れないほどの星が広がっている。白いもの、青白いもの、僅かに黄色いもの、小さすぎて目を凝らさなければ消えてしまいそうなものまで、黒い夜を埋め尽くすように瞬いていた。
「……わあ。こんなにあったの?」
「毎晩あるわよ」
「村だと見えない」
「家の灯りや煙があるからね。ここまで離れると見やすくなるの」
アレンはそのまま仰向けになり、背中へ毛布と草の柔らかさを感じながら夜空を眺めた。エララも隣へ身体を横たえ、同じ方向を見上げている。
「全部に名前ある?」
「全部は知らないわ。昔から名前が付けられている星や、星の並びはたくさんあるけれど」
「七聖獣の星もある?」
エララはほんの少しだけ間を置いてから答えた。
「あるわよ」
アレンは勢いよく上半身を起こし、目を輝かせた。
「本当!?」
「静かにしないと星が逃げるわ」
「逃げないでしょ」
「さっきまで私の言うことを何でも信じていたのに」
「それは嘘って分かる」
「成長したわね」
エララも身体を起こし、アレンの後ろから同じ空を見た。
「あそこ。少し明るい星が見える?」
「どれ?」
「古い木の一番高い枝の先から、少し右」
アレンは目を細め、何度か場所を探した。
「……あれ?」
「そう。その周りを順番に追ってみて」
最初の一つを見つけると、その周囲に他より目立つ星がいくつかあることが分かった。完全な円ではなく、弓のようにも、頭へ被る冠のようにも見える緩やかな曲線を描きながら、七つの星が並んでいる。
「一、二……三、四、五……六……七」
何度か数え直してから、アレンは母を見た。
「七個」
「昔から『創造主の冠』と呼ばれている星々よ」
「創造主って七聖獣?」
「そう考えられているわ。一つ一つの星が、それぞれ七聖獣を表していると言われているの」
エララは左端から順番に示していった。
「最初が不死鳥。少し赤みを帯びて見えるでしょう?」
アレンはじっと目を凝らす。
「ほんとだ」
「その次がグリフィン。次がキツネ。青白く大きく見える星がネラリス。落ち着いた黄白色の光がウルリクムミ。その隣が麒麟。そして最後がエイラヴェル」
アレンは指先で空をなぞりながら、何度も順番を確かめた。
「不死鳥、グリフィン、キツネ、ネラリス、ウルリクムミ、麒麟、エイラヴェル」
「今日は忘れなかったわね」
「もう覚えたって言ったじゃん」
「確認しただけ」
少し得意そうに胸を張ったアレンは、もう一度七つの星を見上げた。木像と同じ数だけ、夜空に光が並んでいることが不思議で仕方ないらしい。
「何で空にいるの?」
「伝承はいくつかあるわ。一つは、世界を作り終えた七聖獣が最後に空へ昇って星になったというもの」
「じゃあ会えないじゃん」
「だから別の話もあるのよ」
「どんな?」
「七聖獣は今も世界のどこかにいて、空に残っているのは彼ら自身ではなく印だという話」
「印?」
「どれほど遠く離れても、お互いを見失わないために残した七つの光」
アレンの顔を見るだけで、どちらの伝承を気に入ったのかはすぐ分かった。
「じゃあ僕、こっち信じる」
「都合がいい方を選んだでしょう?」
「だって星になったら会えない」
「なるほど」
「七聖獣も迷子になるのかな」
「世界は広いからね」
「でも、空見れば分かる」
アレンは七つの光から目を離さないまま、少し考えた。
「離れてても、同じ星見えるんでしょ?」
「場所によって見え方は変わるけれど、この辺りからなら多くの土地で見えるでしょうね」
「じゃあ旅に行っても見える?」
「ええ」
「海でも?」
「雲がなければ」
「山でも?」
「空が見えれば」
「すごく遠い国でも?」
「きっと」
アレンはそこでしばらく黙り、創造主の冠を見つめ続けた。遠い国がどのような場所なのか、まだ具体的には分からない。どれほど歩けば故郷が見えなくなるのかも、どれほど遠くへ進めば言葉や食べ物、暮らしている人々まで変わるのかも知らない。それでも、自分がいつか旅をするという想像だけは、以前より少しずつ現実味を帯び始めていた。
「じゃあ、僕が旅してて何しに行ったか忘れたら、これ見ればいいね」
エララが横を見る。
「何を忘れるの?」
「七聖獣に会うこと」
「そんな大事な目的を忘れるつもりなの?」
「分かんない。旅って長いかもしれないし。でも空見たら七個あるでしょ。そしたら思い出す。僕、七聖獣探してるんだったって」
アレンは創造主の冠を指差した。エララはすぐには答えず、星へ向けられた小さな手を静かに見つめている。その横顔がいつもより少し遠く感じられ、アレンは不思議そうに首を傾げた。
「お母さん?」
「なあに?」
「お母さんも旅したことある?」
「あるわよ」
あまりにも自然な返事だったため、アレンは一瞬遅れて驚いた。
「ラークホロウの外?」
「もちろん」
「どこまで?」
「いろいろなところ」
「どこ?」
「いつか話してあげる」
「またいつか」
「全部今夜話してしまったら、次に聞くことがなくなるでしょう?」
「いっぱいあるから大丈夫」
「私は明日の朝も起きなくちゃいけないの」
アレンは不満そうに口を尖らせたものの、すぐに別のことを思いついたらしい。
「お父さんもこの星見た?」
エララの視線が、ゆっくり創造主の冠へ戻った。
「……ええ。きっと何度も」
「お父さんも旅してたから?」
「そうね」
「じゃあ今も見てるかも」
エララはすぐには答えなかった。夜風が丘を渡り、頭上の古い木の葉を静かに揺らしていく。アレンは母の沈黙を深く考えることなく、再び毛布へ仰向けになった。
「僕が旅したら、お母さんも空見る?」
「見るでしょうね」
「僕も見る。そしたら同じの見てる」
その言葉を聞いたエララは、僅かに目を細めた。
「ええ。そうね」
二人はそれからしばらく、何も話さず同じ夜空を眺めていた。頭上には数え切れない星があり、その中には遥かな昔から人々が世界を創った七聖獣へ重ねてきた七つの光がある。棚に並ぶ木像とは違い、星は手で触れることも、旅の荷物へ入れて持っていくこともできない。それでも、いつかラークホロウを離れ、知らない道を歩き、知らない町で眠り、自分がどれほど遠くへ来たのか分からなくなった夜にも、空を見上げれば同じ光を探せるかもしれない。アレンは七聖獣の名を心の中で繰り返しながら、そのことをまだ見ぬ旅の約束のように感じていた。
その夜、七歳のアレンにとって、創造主の冠は初めて単なる昔話の一部ではなくなった。まだ歩いたことのない遠い世界と、自分が今暮らしている小さな故郷を繋ぐ目印として、七つの星は少年の記憶へ静かに、そして深く刻まれていった。
ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!




