第一章 第三話 怒ったグリフィン
七つの木片を七聖獣の姿へ変えると決めてから、アレンは毎日のように食卓の端へ小刀と木片を並べるようになった。最初に選んだのは、赤みを帯びた木だった。古い本の挿絵に描かれていた炎の鳥――不死鳥に一番似合うと思ったからだ。ところが、頭の中にある姿と、自分の手で削り出せる形はまるで違った。翼を大きくしようとすれば左右の厚みが揃わず、胸元を整えれば今度は首が短く見える。尾羽は一本ずつ細く作ろうとして削りすぎ、最後には本に描かれた優美な姿とはほど遠い、丸みを帯びた鳥が食卓の上に残った。
完成した木像を正面から眺め、横へ向け、もう一度正面へ戻したアレンは、しばらく何も言わなかった。朝食の片づけをしていたエララがその様子に気づいて近づいてくると、少年はようやく不満そうに眉を寄せた。
「……なんか太い」
「何が?」
「不死鳥。本に描いてあるのはもっと格好いい。翼も大きいし、首も長いし、尾っぽだってこんなんじゃない」
アレンが古い本を開き、そこに描かれた炎をまとった聖獣と、自分の木像を交互に指さす。確かに似ているとは言い難かったが、エララは笑わなかった。木像を手に取り、まだ粗い削り跡の残る翼や、不揃いになった尾羽を静かに眺めてから、息子へ返した。
「でも、最初に木を持ってきた日よりずっと鳥らしくなったでしょう?」
「鳥には見えるけど、不死鳥には見えない」
「火をつけたら、それらしくなるかもしれないわね」
「燃やさないよ!」
慌てて木像を胸元へ抱き寄せるアレンを見て、エララは小さく笑った。出来栄えには納得していない。それでも、燃やされると思えば反射的に守ろうとする程度には、すでにその木像へ愛着が生まれているらしい。アレン自身もそれに気づいたのか、腕の中の不死鳥を見下ろすと、翼の削り跡を親指でそっと撫でた。
「……これはこれで置いとく。次はもっと上手くできるから」
「もう一羽、不死鳥を作るの?」
「違う。次はグリフィン。今度は失敗しない」
そう言い切ったときの顔には妙な自信があった。一体作っただけで、木彫りというものをほとんど理解したつもりになっているらしい。その日のうちにアレンは次の木片を選び、今度こそ本に描かれた姿へ近づけようと、不死鳥のときより慎重に刃を入れ始めた。
グリフィンは鷲の頭と翼、獅子の胴体を持つ聖獣として描かれている。最初から細かな羽毛を刻もうとはせず、まず胴体を大きく残し、その両側に翼となる厚みを確保する。不死鳥を作ったときに削りすぎた場所を思い出しながら少しずつ形を整えていくと、木の塊だったものから頭と背中と四本の脚が見え始めた。嘴も思ったより上手く作れた。翼の左右には多少の違いがあるものの、不死鳥ほどではない。アレンは何度も手を止めて木像を眺め、そのたびに満足そうな顔をした。
「お母さん、見て。今度はちゃんとしてる」
向かいで衣服の繕い物をしていたエララが顔を上げる。アレンの手にあるものが確かにグリフィンらしくなっているのを確認したあと、その視線はまだ太さの残る四本の脚へ向かった。
「前よりずっと上手ね。ただ、その脚はあまり細くしない方がいいかもしれないわ」
「大丈夫。もう分かったから」
アレンは自信満々に答え、小刀を持ち直した。前脚の輪郭をもっと本物らしくしたかった。獅子の太い後脚に対して、鷲の前脚は少し細く、鋭く見える。その違いを出そうと、刃先を木目へ沿わせる。一度削り、角度を変えてもう一度。まだ太い。ほんの少しだけ削ればちょうどいい。そう思って刃へ力を込めた瞬間、手の中から小さな音がした。
ぱき、と。
何かが食卓へ落ちた。最初、アレンは何が起きたのか分からなかった。小刀を握ったまま手元を見下ろし、そこにあるはずの右前脚が途中から消えていることに気づいてから、ゆっくりと食卓へ視線を落とす。削っていたグリフィンの脚が、小さな木片となって転がっていた。
「……折れた」
声から先ほどまでの自信がきれいに消えていた。
エララは繕い物を置いて隣へ座り、折れた部分を確かめた。アレンはまだ小刀を握ったまま動かない。慎重にやったつもりだった。不死鳥のときの失敗も覚えていたし、母に言われたことも聞いていた。それなのに、前より上手く作れていると思ったグリフィンは、完成する前に壊れてしまった。
「ゆっくりやったのに……」
「そうね。でも、ゆっくりなら絶対に折れないわけじゃないの。ここを見て」
エララは折れた脚と胴体側の断面を並べ、木目の向きを指先で示した。細くした場所へ力が集まったうえ、木目の流れも脚の形には向いていなかったらしい。七歳のアレンにすべてを理解できたわけではない。それでも、単に自分が下手だったから壊れたのではなく、木そのものにも性質があることだけは分かった。
「……直せる?」
「私は木工職人じゃないもの。ボルドさんに聞いてみましょうか」
その日の午後、二人は作りかけのグリフィンと折れた脚を持って木工房を訪れた。事情を聞いたボルドは笑うことも叱ることもなく、大きな手のひらへ小さな木像を載せ、しばらく断面を眺めた。やがて「付けるだけなら直せる」と答えたものの、折れた跡そのものは完全には消えないという。
「それでも直す」
アレンの返事に迷いはなかった。別の木片から作り直すという考えも浮かんだが、それではこのグリフィンではなくなる気がした。
ボルドは断面を少し整え、濃い樹脂を薄く塗ってから脚を元の位置へ合わせ、細い布紐で固定した。作業そのものは驚くほど短かったが、最後にアレンへ木像を返すことはせず、そのまま工房の棚へ置く。
「今日は触るなよ」
「でも、まだ途中だよ」
「だからだ。乾く前に気になって動かしたら、また取れる。作るってのは、ずっと手を動かすことじゃねえ。待たなきゃならんときに待つのも仕事だ」
今すぐ続きを削りたいアレンには、その言葉の方が難しかった。それでも翌日まで我慢し、再び工房へ向かって布紐を外してもらうと、折れた脚は元の位置にしっかりと戻っていた。ただし、接合した場所には細い線が残っている。アレンはそれを消そうと指先で撫で、小刀へ手を伸ばしかけた。
「削ったら消える?」
「消えるかもしれん」
ボルドが答えた。
「その代わり、また細くなるな」
そこでアレンの手が止まった。しばらく跡を見つめたあと、小刀を戻す。
「……じゃあ、残す」
完成したグリフィンは、最初に思い描いていた姿とは少し違った。もう折らないよう脚を太く残したせいで全体がずんぐりし、嘴も削りすぎるのが怖くなって大きめになった。翼も力強いというより重たそうに見える。それでも四本の脚で自分の力だけで立ち、折れた右前脚もきちんと身体を支えていた。
家へ戻ったアレンが誇らしげに完成品を差し出すと、エララは正面から眺め、横へ向け、さらに反対側からも確かめた。しばらく真剣な顔をしていたため、アレンは褒められるものと思って待っていた。
「立派になったわね」
「でしょ?」
「ええ。とても……怒っているわ」
「怒ってる?」
「ほんの少し、機嫌の悪い鶏にも見えるけれど」
「鶏じゃない! グリフィン!」
抗議しながら木像を取り返したアレンに、エララは堪えきれず笑い出した。勢いよく振り回しかけた少年も「また脚が折れるわよ」と言われた瞬間に動きを止め、大事そうに両手で持ち直す。
「……怒った鶏じゃないから」
「分かったわ。怒ったグリフィンね」
「そう」
不満そうではあったものの、今度は作り直すとは言わなかった。
不死鳥とグリフィンを完成させる頃には、アレンも最初の日とは少しだけ木の扱い方を覚えていた。残る五つの木片では、失敗そのものがなくなったわけではない。ただ、失敗したときに何も考えず最初からやり直すことが減った。
何本もの尾を持つ姿を表したかったキツネでは、一本ずつ細く削れば折れると考え、尾の大部分を一つの大きな形として残して、その表面へ筋を刻んだ。ところが今度は後ろ側が重くなり、完成間近になって何度立たせても後方へ倒れたため、足元の木を少し残して台座にすることでようやく安定した。巨大な水蛇ネラリスでは、本に描かれた無数の鱗を一枚ずつ彫ろうとしたものの、途中でこのままではいつまで経っても終わらないと気づき、大きな流れとして模様を刻むことを覚えた。岩の巨人ウルリクムミは逆に削ることを怖がりすぎ、しばらくは手足の付いた木の塊にしか見えなかったが、太い腕と背中の裂け目を強調すると、その不格好さがかえって巨体の力強さに変わった。
一番悩んだのは麒麟だった。一頭の聖獣でありながら、物語の中では二人の人間の姿を持つ。その「二つ」を一つの木像でどう表せばよいのか、アレンには思いつかなかった。最後には左右の角の形を変えることで違いを出そうとしたが、出来上がったものを眺めても、自分で考えた意味を知らなければ誰にも伝わらない気がした。
「全然分かんない」
アレンが肩を落とすと、そばで見ていたエララは完成した麒麟を受け取った。
「あなたには分かるんでしょう?」
「分かるけど、僕以外にも分かるようにしたい」
「だったら、それは次に作るときの課題ね」
以前なら、そこで失敗だと言って新しい木を探したかもしれない。しかしアレンはしばらく考えたあと、麒麟を他の木像の隣へ置いた。今は上手くできない。それなら、いつか上手くできるようになったとき、もう一度作ればいい。それだけのことだと思えるようになっていた。
最後に残ったのは、淡い色の木片だった。上部には最初から小さな枝跡が二本あり、アレンはそれを削り落とさず、そのままエイラヴェルの角として使うことにした。細長い顔と首を作り、背には翼を残す。グリフィンの脚を折ったことも、不死鳥の翼を削りすぎたことも覚えていたため、それまでの六体より手を止めて考える時間が長かった。
その作業をしているあいだ、エララがいつもより長くこちらを見ていることにアレンは途中で気づいた。
「お母さん、エイラヴェル好きなの?」
不意に問われたエララは、一瞬だけ答えるのが遅れた。
「どうしてそう思うの?」
「ずっと見てるから」
アレンの手の中には、まだ完成していない小さな聖獣がある。エララの視線はそこへ落ち、それから息子の顔へ戻った。
「あなたが今までで一番慎重に作っているからかもしれないわね」
どこか曖昧な答えだったが、アレンは深く考えなかった。再び木片へ向き直り、少しずつ形を整えていく。やがて完成したエイラヴェルは、七体の中では最もまとまりのある姿になった。最初からそこにあった枝跡を角として残し、翼にも十分な厚みがあり、四本の脚も細すぎない。それは偶然上手くできたのではなく、前の六体で何度も間違えたからこそ作れた姿だった。
七体すべてが完成した夕方、アレンは食卓の上へ聖獣たちを一列に並べた。左右の翼が揃わない丸い不死鳥。折れた脚に細い跡を残し、大きな嘴で不機嫌そうに見えるグリフィン。台座がなければ後ろへ倒れてしまうキツネ。細かな鱗を諦め、大きな模様を刻んだネラリス。木の厚みを残したことで頑丈そうになったウルリクムミ。左右で角の違う麒麟。そして、最初からあった枝跡を角に変えたエイラヴェル。どれ一つとして古い本の挿絵そのままではなく、木彫りとして上手だとも言えない。それでも、ただの端材だった七つの木には、それぞれ違う姿が生まれていた。
「……やっぱり全部作り直したい」
長いあいだ眺めた末にアレンが呟くと、エララは少し驚いた顔をした。
「全部?」
「うん。今ならもっと上手く作れると思う」
「作り直すのはいいと思うわ。でも、この七体は捨てないでね」
「なんで? いっぱい失敗してるよ」
エララは答える代わりに、怒った顔をしたグリフィンを手に取った。右前脚には、ボルドが樹脂で繋いだ細い線が今も残っている。
「失敗したことと、失敗したものに意味がないことは、同じじゃないわ。この脚が折れたから、あなたは細くしすぎないことを覚えたでしょう。キツネが倒れたから重さを考えた。ネラリスでは全部を細かく作る必要はないと知った。最後のエイラヴェルが一番上手くできたと思うなら、それは、その前に六体を作ったからじゃない?」
アレンは並んだ木像を順番に見た。確かに、最初からエイラヴェルを作っていたなら同じ姿にはならなかったはずだ。グリフィンの脚を折らなければ、細くすることを怖がらなかった。不死鳥の翼を削りすぎなければ、最初にどれだけ木を残すか考えもしなかった。
「でも、失敗は失敗でしょ?」
「ええ。失敗したことまで、成功だったことにしなくていいのよ。ただ、失敗したから全部なくしてしまおうとすると、自分が何を覚えたのかまで見えなくなることがあるの」
少し難しい話だった。それでもアレンは、エララの手の中にあるグリフィンを見つめながら考えた。折れた線は消えていない。出来上がった姿も、本の中の聖獣ほど格好よくはない。それでも、あの脚が一度折れたことを自分はきっと忘れない。
「お母さんも失敗したことある?」
「山ほどあるわよ」
「何したの?」
「それは秘密」
「また秘密?」
「母親には、いくつか秘密が必要なの」
何でもないように笑うエララに、アレンは疑わしそうな目を向けた。
「絶対、変な失敗してる」
「どうかしらね」
その夜、七体の聖獣はアレンの寝室にある棚へ並べられた。不死鳥から順番に置いていき、グリフィンを置いたところで、アレンは一度だけ折れた脚の跡が壁側へ向くよう木像を回した。しかし、そのまま手を離すことはせず、少し考えたあと、もう一度正面へ戻した。
「隠さないの?」
入口から見ていたエララに問われ、アレンはグリフィンの位置を整えながら首を振った。
「いい。次に作ったら、こっちより上手くするから」
「本物に会ったらどうする?」
その言葉だけで、アレンの表情が変わった。古い本の中でしか知らない七聖獣が、この世界のどこかに本当に存在している。その姿を自分の目で見られる日が来るかもしれないという想像は、何度聞いても胸を高鳴らせた。
「全部見せる」
「怒ったグリフィン本人にも?」
「怒ってない!」
すぐに振り返ったアレンを見て、エララは楽しそうに笑う。
「本人が見たら、『俺はこんなに怒った顔じゃない』って言うかもしれないわよ」
「だったら謝る。最初だったから上手く作れなかったって。でも本物をちゃんと見たら、次は絶対もっと格好よく作る」
アレンはそう言って、七体をもう一度眺めた。削りすぎた場所もあれば、怖くなって削れなかった場所もある。折れた跡も、倒れないために残した台座も、意味の伝わらない左右の角も、そのまま残っている。
それでも、それでよかった。
いつか本物の七聖獣に会えたなら、その姿を自分の目で見て、もう一度木を削ればいい。そのとき新しく作った七体をこの棚へ並べれば、今日の自分からどれだけ上手くなったのかも分かるだろう。
眠る前、アレンは布団へ入る直前にもう一度棚へ近づき、太い脚でしっかり立っているグリフィンを見た。樹脂の細い線は、暗くなり始めた部屋の中でもまだ分かる。
「次はもっと格好よく作るから」
当然、木像から返事はなかった。
けれど、大きな嘴のせいで少し怒って見えるその顔は、昼間よりほんの少しだけ誇らしげに見えた。
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