第一章 第十話 燃えた案山子
掌の上へ初めて小さな炎を灯した翌朝、アレンは目を覚ましてから朝食を終えるまで、一度も魔法の練習を急かさなかった――少なくとも本人は、そのつもりだった。黒麦パンを食べながら何度も右の掌を開いては閉じ、昨日まで何の変哲もなかった自分の手が、本当に炎を生み出したことを確かめるように眺めている。
「お母さん。今日は火やる?」
「朝食を食べ終わってからね」
「分かってる。……昨日より大きくしていい?」
「まず昨日と同じものを作れたら考えるわ」
エララが薬草茶を口へ運びながら笑うと、アレンは少しだけ頬を膨らませた。昨夜、一人では魔法を使わないこと、家の中では試さないことを約束している。そのため、どれほど自分の掌が気になっても勝手に火を出そうとはしなかった。その点だけは、木剣を持ち始めた頃より少し成長している。
朝食を終えて裏庭へ出ると、前日と同じように平たい石板と水桶、砂箱が用意されていた。アレンはすぐ次へ進めると思っていたが、エララから最初に命じられたのは、昨日と同程度の炎を生み出し、一定の大きさで保ち、自分の意思で消すことだった。
「もう覚えてるよ」
「なら、説明しなくてもできるわね」
アレンは石板の前へ立ち、右の掌を上へ向ける。昨日は胸の奥にあるエーテルの感覚を探すだけでも時間がかかったが、一度知ったものを見つけるのは少し楽だった。呼吸を整え、胸から肩、腕、掌へと細い流れを導く。何度か途切れたあと、小さな橙色の炎が掌の上へ灯った。
「出た」
「昨日より落ち着いているわね」
「じゃあ大きく――」
「その前に消して」
「ええ?」
不満そうにしながらも、アレンは掌へ送り続けていた流れを内側へ戻すよう意識した。炎は僅かに縮まり、静かに消える。続けて何度か同じ練習を繰り返すと、炎の大きさには多少のばらつきが残ったものの、胸から掌までの流れを見失う回数は昨日より確実に減っていた。
「今度は大きさを変えてみましょう」
待ち望んでいた言葉に、アレンの顔が明るくなる。
「大きく?」
「その前に小さくするの。今の半分くらいまで縮めて、それから元へ戻す。大きくするのは最後」
「大きい方からじゃ駄目?」
「昨日から大きくすることしか考えていないでしょう?」
言い返せず、アレンは再び掌へ意識を戻した。
炎を生み出すことより、狙った大きさへ変える方が難しかった。小さくしようとすればそのまま消え、大きくしようとすると急に膨らむ。エララから、炎そのものを押したり引いたりするのではなく、そこへ渡すエーテルの量と、自分が思い描く火の形を合わせるのだと教えられ、アレンは何度も失敗しながら少しずつ感覚を掴んでいった。
午前の稽古が進む頃には、蝋燭ほどの炎を僅かに縮め、再び元の大きさへ戻せるようになった。
そこでエララは、平たい石板を少し離れた場所へ置き直した。
「今度は、掌ではなくあの石の上へ火を作ってみましょう」
「飛ばすの?」
「まだ飛ばさない。火を作る場所を変えるだけ」
胸から掌までなら、自分の身体の内側を通る感覚を追うことができる。しかし、その先には腕も血もない。最初の試みでは何も起こらず、次はいつものように掌へ炎が出た。その次には石板より手前へ小さな光が生まれたものの、すぐに消える。
「石の上に最初から火があるところを思い描いて。遠くへ投げようとしなくていいの」
アレンは右腕を前へ向けたまま、肩の力を抜いた。石板の中央へ小さな炎が灯っている姿を思い描き、掌まで運んだエーテルの先に、もう一本だけ短い道が続いていると考える。
やがて石板の中央で、小さな橙色が揺れた。
「出た!」
「そのまま」
アレンは喜びで集中を失わないよう慌てて口を閉じた。掌の上より不安定だったが、炎は数秒間そこへ留まり、最後には自分の意思で消すことができた。
「じゃあ次は飛ばす?」
「どうしてそんなに飛ばしたいの?」
「格好いいから」
「とても正直ね」
その日は石板へ火を灯すところまでで終わった。
翌日も、その次の日も、魔法の稽古は少しずつ続いた。アレンは炎を作るまでの時間を縮め、掌だけでなく離れた石板へ灯すことにも慣れていく。同じ大きさを毎回作れるほどではなかったが、成功するたびに喜んで集中を失っていた最初の日と比べれば、火を生み出したあとにも落ち着いていられる時間は確実に長くなっていた。
そして数日後、裏庭には新しい標的が立てられた。木の杭を十字に組み、古い布と乾いた藁を巻いた簡素な案山子である。剣術用の標的より奥へ置かれ、周囲の草は短く刈られている。水桶も二つに増え、砂箱まで手の届きやすい場所へ移されていた。
アレンは案山子を見るなり目を輝かせる。
「燃やすの?」
「燃やすことが目的じゃないわ。今日は火を少し離れたところまで動かして、狙った場所へ届ける練習」
「やっと飛ばす!」
「強くする練習ではないからね」
「分かってる。真ん中に当てる」
剣術で標的を使った日のことを思い出したのだろう。エララは頷き、もう一つ条件を加えた。
「狙った大きさを最後まで保つこと。届く途中で膨らんだら失敗よ」
案山子までの距離は大人なら数歩程度だったが、八歳のアレンには十分遠い。胸から掌へエーテルを通し、その先へ小さな火を作る。今度はその火を、形を崩さず標的まで送り届けなければならない。
最初の炎は途中で消えた。次は案山子の手前まで届き、その次は大きく右へ逸れた。アレンはすぐに直前の動きを思い返し、最後に右手を動かしたことへ気づく。
「剣と同じじゃん。狙ってるのに違うところ行く」
「なら、同じように何が違ったのか考えればいいでしょう?」
次は腕を余計に振らず、火の向かう場所だけを意識する。小さな炎は案山子の腹へ届き、古布の表面へ焦げ跡を一つ残して消えた。
「当たった!」
「今のは良かったわね」
「でも燃えてない」
「燃え広がらせないから成功なのよ」
少し物足りなさそうではあったが、アレンは指定された大きさを守って練習を続けた。やがて腹や胸へ小さな炎を届けられる回数が増え、案山子にはいくつもの黒い跡が残った。
しばらくして、エララが標的を確認してから言う。
「最後に一つだけ、少し大きくしてみましょう」
アレンの背筋が伸びた。
「どれくらい?」
「拳より小さいくらい。作った瞬間に大きすぎると思ったら、飛ばさずに消すこと。遠くへ送ろうとして余計なエーテルを押し込まない。強く当てる必要もないわ」
「押さない。強くしない」
アレンは案山子へ向き直った。
胸の奥から肩、腕、掌へ。数日かけて覚えてきた流れを丁寧に作り、これまでより僅かに大きく、それでも自分の拳より小さい炎を思い描く。狙うのは案山子の胸。
掌の前へ、橙色の炎が静かに灯った。
「そのくらいでいいわ」
あとは送り届けるだけだった。
その瞬間、胸の奥で何かが強く脈打った。
「……っ」
心臓ではない。昨日から触れてきたエーテルそのものが、内側から突然押し広げられたような感覚だった。
拳より小さかった炎が、一瞬で膨れ上がる。
橙色だった火の中心が黄色を越えて白く輝き、周囲の空気が熱で歪んだ。吹き出した熱気に前髪を煽られ、アレンは何が起きたのか分からないまま目を見開く。
「アレン、止めて!」
エララの鋭い声で我に返った。
流れを戻さなければならない。分かっているのに、驚きで呼吸が乱れ、焦るほど身体へ余計な力が入る。剣の稽古で何度も注意されたように右肩が固まり、炎はさらに不安定に揺れた。
「消えろ……!」
無意識に右腕を前へ押し出した。
膨れ上がった火は、その動きに引かれるように放たれた。
白橙色の塊が庭を横切り、案山子の胸へ直撃する。
鈍い破裂音が響いた。
一瞬後、乾いた藁と古布が激しい炎に包まれる。衝突した火の一部は地面へ弾け、短く刈られた範囲を越えて草の間へ飛び散った。赤い筋が地面を走り、別の場所でも小さな火が立ち上がる。
「お母さん!」
「動かないで!」
水桶へ向かおうとしたアレンの足が止まった。
「僕、消す――」
「今は触らない!」
エララは息子と炎の間へ入った。
詠唱はなかった。腕を大きく動かすことさえない。ただ炎へ視線を向け、一歩だけ前へ出る。
次の瞬間、庭を包んでいた空気が不自然なほど静まった。
案山子を激しく舐めていた火も、草を這っていた炎も、まるで同時に何かへ押さえ込まれたように勢いを失った。揺れていた火先が一斉に縮み、そのまま音もなく消えていく。
あとに残ったのは、半ば炭になった案山子と黒く焼けた地面、そこから細く立ち上る煙だけだった。
エララはすぐにはアレンへ戻らなかった。案山子の内側や草の根元に火種が残っていないか一つずつ確認し、二つの水桶を使って焦げた場所を十分に濡らす。そのすべてを終えてから、ようやく動けずにいた息子の前へ戻った。
「手を見せて」
アレンは黙って右手を差し出した。
エララは掌から指先、手首、腕まで確かめる。
「痛いところは?」
アレンは首を横に振った。
「胸は?」
「……ちょっと変だった」
「どんなふうに?」
「どくってした。心臓じゃない方。一回だけ」
エララの視線が僅かに鋭くなった。しかし、さらに尋ねる前に、黒く焦げた案山子を見つめるアレンの表情に気づく。つい先ほどまであった魔法への高揚は完全に消えていた。
「お母さん」
「なあに?」
「僕、約束破った?」
「わざと大きくしたの?」
「してない」
「なら、約束を破ったわけではないわ」
「でも、燃えた。草も。僕がやった」
「そうね」
エララはそこだけは誤魔化さなかった。
「だから練習しているのよ。自分の魔法がどう動くのか知らないまま一人で使えば、もっと危ないことになるでしょう?」
アレンは右の掌を見下ろした。もし母がいなかったら。家まで火が届いていたら。誰かが庭にいたら。昨日までの自分なら、友達へ見せたいと思って一人で火を出していたかもしれない。
「……もう火、やらない方がいい?」
「危ないからこそ、扱い方を覚えるのよ」
「また大きくなったら?」
「そのとき、自分で止められるようになるために練習する。ただし、次からはもっと慎重に進めるわ」
「怒ってない?」
「驚いたし、怖かったわ。あなたが火傷するかもしれなかったもの。でも、怒鳴ったからといって炎を止められるようにはならないでしょう?」
アレンはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「僕、最後に腕出した。止めようとしたのに」
「焦って普段の癖が出たのね。剣でも同じでしょう。次は大きすぎると感じた時点で、飛ばす前に流れを戻す。それを一番に考えるの」
「うん」
「それと、一人では絶対に試さないこと。友達へ見せるためにも、家の中でも」
「しない」
今度の返事には、昨日までの浮ついた調子はなかった。
しばらくして、焼けた案山子を片づけるためにボルドが呼ばれた。木工職人は胸から上がほとんど炭になった標的を眺め、アレンへ視線を向ける。
「……随分派手にやったな」
「わざとじゃない」
「そうか。次はもっと丈夫なのを作るか?」
「丈夫なら燃えない?」
「木だから燃える」
「じゃあ意味ないじゃん」
「確かにな」
「二人とも、燃やさない方向で考えてくれる?」
横から入ったエララの言葉に、ボルドが笑う。アレンもようやく僅かに口元を緩めた。
午後になっても裏庭には焦げた匂いが残っていた。魔法の稽古は新しい標的が用意されるまで休みとなり、アレンは木剣で軽く足運びを確認したものの、普段ほど集中できなかった。右の掌を見るたび、白く膨らんだ炎と案山子へ衝突した音が蘇る。
夕食後、アレンは寝室の棚から丸い不死鳥の木像を手に取った。
「火って、怖いんだね」
当然、木像から返事はない。
「お母さんが最初に言ってたこと、ちょっと分かった」
七歳の頃に聞いた創世の物語では、不死鳥の火は人々を温め、食べ物を焼き、暗闇を照らした。そして同じ火が、扱い方を誤れば森も家も命さえ奪うと教えられた。
あの頃は物語の中の言葉だった。
今は違う。
焦げた匂いも、地面を走った赤い炎も、自分の掌から始まった。
「次はちゃんと止める」
アレンは不死鳥を棚へ戻した。
その夜、息子が眠ったあと、エララは一人で裏庭へ出た。水を十分に掛けた地面はまだ湿っていたが、案山子の立っていた場所を中心に黒い跡が残っている。
彼女はしゃがみ込み、焼けた範囲を静かに確かめた。
今日の炎は、ただ制御を失って大きくなったわけではない。
最初に形成した火は、指定した通り拳より小さく収まっていた。異変が起きたのは、アレンが胸の奥――心臓ではない場所が強く脈打ったと感じた直後だった。
その瞬間、炎へ流れ込むエーテルの量が跳ね上がった。
本来なら、あれほど急激に供給が増えれば術の形そのものが崩れてもおかしくない。術者へ反動が返る可能性さえある。それなのに、アレンの炎は異常な量のエーテルを受けながら一つの火としてまとまり、その形を保ったまま案山子まで到達した。
昨日、小さな炎を掌へ灯したときにも違和感はあった。
見た目に対して、使われているエーテルが多すぎた。
今日は、それが偶然ではないことを焦げた地面が証明している。
「強すぎる……」
誰もいない庭へ、エララの小さな声が落ちた。
そしてもう一つ、アレンがまだ気づいていないことがある。
離れた場所で燃えていた案山子と草の炎を、エララがほとんど同時に、詠唱すらせず消したことだ。
昼間のアレンには、自分が起こした火への恐怖以外を考える余裕がなかった。
今は、それでいい。
エララは二階にある息子の部屋へ視線を向けた。
七聖獣すべてに会いたいと夢見た少年は八歳になり、木を削ることを覚え、木剣を握り、ついには自分の中を流れるエーテルへ触れ始めた。その成長を嬉しく思う気持ちに嘘はない。
だからこそ、胸の奥にある不安も無視できなかった。
恐れているのは、アレンが力を持っていることではない。
その力が、彼女の想定していたよりも遥かに早く、本人が何も知らないまま表へ現れ始めていることだった。
エララは黒く焼けた地面を見つめたあと、静かに立ち上がった。
「まだ……目覚めるには早いわ」
声はラークホロウの夜へ溶けていく。
二階では、アレンが何も知らず眠っている。
そしてエララもまた、今日見たものが本当は何を意味しているのかを息子へ話すつもりはなかった。
少なくとも、まだその時ではなかった。
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