第一章 第十一話 二つの風
案山子を焼いた翌日から二日間、エララはアレンに火の魔法を使わせなかった。ただし、それは罰ではない。最初にはっきりそう説明したうえで、炎を作らず、エーテルだけを身体の中で動かす基礎へ戻したのである。裏庭には新しい標的もなく、石板の前へ立つ必要さえない。アレンは両手を空のまま下ろし、胸の奥にある微かな感覚を探してから、肩、腕、掌へ少量のエーテルを流し、何の属性にも変えずに再び自分の内側へ戻す。その単純な動きを何度も繰り返した。
「火、出した方が分かりやすい」
一日目の朝、右の掌を眺めながらアレンが不満そうに言う。
「見えるから?」
「うん。出てたら成功したって分かる」
「だから今は、見えなくても分かるようにするの。この前みたいに大きくなりすぎたとき、火を見てから慌てるより、流れているエーテルの方で先に気づけた方がいいでしょう?」
庭の一角には、水で洗ったあとにも薄い焼け跡が残っている。アレンはそこへ一度だけ視線を向けると、それ以上文句を言わず目を閉じた。前回の失敗を思い返せば、胸の奥で突然起きた奇妙な脈動まで蘇るような気がする。普段は細く感じていた流れが一瞬だけ膨らみ、自分の意思では止められないほどの勢いで掌へ押し寄せた。今は同じ異変はない。呼吸を整え、少量だけを腕へ送り、掌へ届いたところで止め、それから来た道を辿るようにゆっくり胸へ戻す。
「今のは?」
「最初は少し速かったけれど、戻すときは良かったわ」
「見えるの?」
「多少はね」
「どうやって?」
「そこは今のあなたには必要ないこと」
「また秘密」
「何でも秘密にしているわけじゃないでしょう?」
「秘密多いよ」
「八歳の息子には、まだ話さなくても困らないことが多いの」
納得していない顔をしながらも、アレンは次に左腕へエーテルを流した。
二日間の基礎練習は地味だったが、案山子の事故以来、アレン自身も以前より真剣だった。炎という結果を急がなければ、胸から掌へ向かう途中でどこが速くなり、どこで感覚を見失いそうになるのかに注意を向けられる。特に戻す動きは慎重になり、途中で一度流れを弱め、急に勢いが増していないか自分から確かめるようになった。
二日目の午後、掌まで運んだエーテルを静かに胸へ戻し終えると、アレンは目を開けた。
「今、大きくなってなかった?」
「なっていなかったわ」
「じゃあ明日は火できる?」
「その質問が出るくらいには元気そうね」
「できる?」
エララは少し考えてから頷いた。
「最初は小さい火だけ。大きくしない。飛ばさない。それから『ちょっとだけ』も無し」
「分かってるって」
以前なら最後の条件で口を尖らせていただろう。しかし今回は素直に頷いた。その変化を、エララも黙って見ていた。
翌朝、裏庭には新しい標的が立っていた。前より太い木杭を使い、藁を減らし、その上から厚手の古布を何重にも巻いてある。周囲の草も広く刈られ、水桶は三つ、砂箱は二つに増えていた。
「これ、ボルドさん?」
「ええ」
「前より強そう」
「燃えないとは言っていないわよ」
「それは聞いた」
布を指で押して確かめたアレンが振り返る。
「今日はこれ燃やす?」
「燃やさない。まず掌の上で火を作るところから」
事故以前と同じ手順で、小さな炎を作り、保ち、自分の意思で消す。最初の一度だけ狙ったより大きくなったが、アレンは驚かずにエーテルの供給を弱め、蝋燭ほどの大きさまで自分で戻した。
「今の見た?」
「見ていたわ」
「大きくなったけど戻した」
「ええ。前なら、大きくなったこと自体に気を取られていたかもしれないわね」
「じゃあ上手くなった?」
「少なくとも一つは」
「一つだけ?」
「一つずつ増やしていけばいいでしょう?」
続けて炎を小さくし、元へ戻し、僅かに膨らませて再び縮める。以前のように大きくすることだけを面白がらず、自分から限界を決めて止められるようになったところで、ようやく標的を使った練習へ移った。
ただし、火を飛ばすことはしない。標的の手前に置いた石板へ小さな炎を灯し、位置を僅かに動かすだけだった。距離も短く、炎の大きさも掌で作るものとほとんど変わらない。物足りなさそうではあったが、アレンは何も言わず集中を続けた。
午前の春風がラークホロウの家々の間を抜け、庭木の葉とアレンの黒髪を揺らす。石板の炎もそのたび傾いたが、アレンは無理に大きくせず、流すエーテルの量を保った。
昼近く、風が少し強くなった。
橙色の炎が横へ大きく傾き、細く伸びる。
「消えそう」
「無理に大きくしないでね」
「分かってる」
さらに一度、強い風が吹いた。今にも消えそうになった火を見つめ、アレンは眉を寄せる。
「消えるな……」
その言葉とほとんど同時に、石板の周囲を吹き抜けていた空気の流れが変わった。
アレンは気づいていない。庭全体では木の葉も、干してある布も、エララの髪も同じ方向へ流れている。それなのに炎だけが、不自然なほど真っ直ぐに戻っていた。火へ触れる直前で風が左右へ分かれ、そこだけを避けて通り過ぎている。
エララの表情が変わった。
「アレン。そのまま」
「何?」
「何も変えないで。火だけを保って」
言われた通り、アレンは炎へ集中する。風はまだ吹いている。それでも火はほとんど揺れない。
「今日、火強くなってる?」
「エーテルの量は増えていないわ」
「じゃあ何で消えないの?」
「それを確かめる」
エララは物干しから細い布切れを外し、棒の先へ結びつけた。庭の端では布が風を受けて右へ流れる。石板へ近づけても向きは変わらない。しかし炎のすぐそばまで運ぶと、布だけが外側へ押し出され、火を避けるように向きを変えた。
「……何それ」
「私も動かしていないわ」
「じゃあ風?」
「そうね」
「変じゃない?」
「変ね」
エララは布と息子を交互に見る。
「火以外に何かしようとしてる?」
「してない。消えないようにしてるだけ」
「風を動かそうとは?」
「してないよ」
アレンは自分の掌へ視線を落とした。
「風の魔法になってるの?」
「まだ決めつけないで」
エララは一度、火を消すよう指示した。アレンがエーテルを戻すと炎は静かに消え、その瞬間、周囲の空気も元の流れへ戻った。棒の先の布が、庭のほかの布と同じ方向へ揺れる。
「戻った」
「ええ」
「もう一回やる?」
「その前に休む」
「まだできるよ」
「今までと違うことが起きたから、一度整理するの」
「僕、何もしてない」
「だからよ」
短い休憩のあと、今度は三本の布を使って確かめた。一つは庭の端、一つは石板の近く、もう一つはアレンのそば。すべて同じ方向へ流れている状態で、アレンは再び石板へ小さな炎を灯す。
最初の風では何も起こらず、炎は普通に傾いた。
「今回は普通」
「そうみたいね」
もう一度風が吹き、火が細くなる。
「また消れそう」
アレンがそう思った瞬間、石板近くの布だけが外側へ流れ、炎が真っ直ぐに戻った。
「今」
「出た?」
「ええ」
「僕、何した?」
「自分では何を考えた?」
「火が消れそうって。それだけ」
さらに数度確認したが、毎回同じ現象が起きたわけではなかった。一度は何も起こらず、そのまま炎が消えた。それでも、アレンが火を保ちたいと強く意識した瞬間だけ空気が流れを変える現象は繰り返された。偶然だけで片づけるには十分だった。
そこでエララは、その日の魔法訓練を終わらせた。
「風やらないの?」
「今日はしない」
「でも僕、風できるかもしれないんでしょ?」
「だからしないの」
「何で?」
「火だって、まだ安全に扱うことを覚えている途中でしょう? 新しいものを一気に増やせば、どちらも中途半端になるかもしれないから」
「でも風なら燃えないよ」
「強い風で物が飛べば、人は怪我をするわ」
「……そっか」
「属性が違えば安全というわけではないの」
焦げた案山子のことを思い出したのか、アレンはそれ以上食い下がらなかった。
昼食後、エララはアレンへ家の中にいるよう言い、一人で裏庭へ戻った。掌へ指先ほどの炎を灯し、足元の枯れ葉へ視線を向ける。葉は風もないのに浮かび上がり、炎へ近づく途中で向きを変えると、見えない流れへ乗ったように火の周囲をゆっくり回り始めた。
詠唱はない。
炎と風は互いを乱さず、二つの現象として同時に存在していた。
しばらく確かめたあと、エララは両方を消す。
「偶然じゃない……」
火を扱える子供も、風を扱える者もいる。それ自体は異常ではない。しかし魔法を学び始めたばかりの八歳の子供が、一つの属性を維持しようとしただけで、教えられてもいない別の属性へ無意識に触れることは、少なくとも普通とは呼べなかった。
しかもアレンは風を使おうとすらしていない。
ただ、炎を消したくないと思っただけだ。
それなのに空気の方が、その意思へ応えるように流れを変えた。
「早すぎるわ……」
エララは二階の窓を見上げた。
午後、アレンはトーマ、ミーナ、フィルと広場で小石投げをして遊んだ。魔法は禁止されているため、当然ただ腕で投げるだけである。
「俺が一番!」
「トーマ、線踏んでたよ」
「踏んでない」
「踏んでた」
「少しくらいいいだろ」
「だったら私も前から投げる」
「それは駄目」
「何で?」
三人の言い合いを聞きながら笑ったアレンは、自分の番になると線の手前へ立った。剣の稽古の癖で無意識に足の位置を整え、小石を投げる。
「トーマよりちょっと短い」
フィルの言葉に、アレンはすぐ次の石を拾う。
「もう一回」
「一人三回って決めたじゃん」
「これ二回目」
「さっきも投げたよ」
「あれ練習」
「ずるい!」
笑いながら腕を引いたアレンの足元で、乾いた砂埃がごく僅かに舞った。
誰も気づかなかった。
アレンが腕を振ろうとした方向へ、砂だけがほんの少し先に流れた。そのとき村を抜けていた春風は、反対側から吹いていた。
夕食の途中、とうとう我慢できなくなったアレンが尋ねる。
「お母さん。今日のあれ、風だった?」
「風は動いていたわね」
「僕がやった?」
「その可能性はあると思う」
「じゃあ僕、火と風使える?」
「まだ『使える』とは言わない方がいいわ。一度や二度動いたことと、自由に扱えることは違うでしょう?」
「またそれ」
「でも覚えているでしょう?」
「覚えてる」
アレンは少し考えたあと、目を輝かせた。
「火は不死鳥だよね」
「創世の物語ではね」
「風はグリフィン。じゃあ僕、不死鳥とグリフィンの魔法使った?」
「七聖獣の力と、人間が使う魔法を同じものだと思わない方がいいわ」
「違うの?」
「まったく同じものだと証明した人はいないでしょう?」
「じゃあグリフィンの風じゃない?」
「普通の風魔法かもしれないわね」
「でも僕、風使おうとしてない」
「そこが少し不思議なの」
「お母さんも分かんない?」
「何でも知っているわけじゃないもの」
「お母さん、分かんないこといっぱいあるね」
エララの目が細くなる。
「あなた、最近遠慮がなくなってない?」
「本当のことでしょ?」
「明日の野菜を増やそうかしら」
「何で!?」
いつものやり取りに戻り、アレンも笑った。
眠る前、アレンは棚の不死鳥とグリフィンを眺めた。
「今日、風出たかもしれない」
太い脚と大きな嘴を持つグリフィンへ話しかける。
「でも、お母さんはまだ使えるって言っちゃ駄目だって」
隣の不死鳥へ視線を移す。
「火はちょっとできる。風は……分かんない。でも、本物に会ったら教えてもらえるかな」
毛布を整えに来たエララへも、アレンは同じことを尋ねた。
「明日、風の練習する?」
「まだよ」
「いつ?」
「まず火を安全に扱えるようになってから」
「じゃあ火早く上手くなる」
「急ぐとまた遠回りするわよ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは正直なのね」
アレンは笑いながら目を閉じた。
その夜、息子が眠ったあと、エララは自室の小さな机の前へ座っていた。窓を閉め、掌へ小さな炎を灯す。その周囲へごく細い空気の流れを作ると、炎は揺れないまま、机の端の紙片だけが見えない輪郭をなぞるように動いた。
エララにとって、二つの現象を同時に扱うこと自体は難しくない。
だからこそ、昼間アレンの周囲で何が起きていたのかも理解できる。
あの子はただ、火を消したくないと思っただけだった。
風を操る方法も知らない。風を求めてもいない。それへ働きかけるための言葉も形も教わっていない。
それなのに、空気の方がアレンの意思へ応えるように動いた。
意識して使った術なら、まだ才能という言葉だけで受け止めることもできる。しかし本人が別の属性へ触れたことすら知らないまま現象が起きたという事実を、エララは見過ごせなかった。
彼女は炎と風を同時に消した。
息子が新しいことをできたという母親としての喜びはある。それでも、そのすぐ隣には素直に祝うことを許してくれない不安があった。
「まだ八歳なのよ……」
小さな声だけが静かな部屋へ落ちた。
その頃、アレンは夢を見ていた。
青い空の下で、巨大な不死鳥が炎の翼を広げ、その隣を黄金の翼を持つグリフィンが風を裂いて飛んでいる。二頭は争うことも、互いを追い越すこともなく、最初から同じ空を進むことを知っていたかのように並んでいた。
地上からそれを見上げるアレンは、いつか自分もあの場所まで行けるだろうかと考えている。
八歳の少年はまだ知らない。
掌の火を守ろうとした自分の周囲で流れを変えた風が、偶然そこを通り過ぎただけではなかったことも。
その小さな変化を見た母が、なぜ夜になってまで一人で確かめずにはいられなかったのかも。
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