第一章 第十二話 世界が通る村
春の終わりが近づく頃、ラークホロウには一年の中でも特に賑やかな朝が訪れる。近隣の村や遠方を巡る商人たちが集う季節市の日である。まだ太陽が東の丘から昇り切らないうちから中央街道には荷車の軋む音が響き、普段なら閉じている店先にも灯りが点いていた。野菜や果物、毛織物、陶器といった近隣の品に混じり、遠方から来た旅商人の幌馬車が村の入口へ並び、街道沿いには色も形も異なる露店が続いている。
アレンが目を覚ましたときには、閉めた窓越しにも外のざわめきが届いていた。いつもなら何度かエララに呼ばれてから寝台を出ることもあるのに、今日は自分から飛び起き、着替えを済ませるなり階段を駆け下りる。
「走らない」
食卓へ朝食を運んでいたエララが、姿を見る前から言った。
アレンは最後の二段だけ速度を落とした。
「走ってない」
「途中までは?」
「急いで歩いた」
「両足が床から離れていた音がしたけれど」
「ちょっとだけ」
「それを走ると言うのよ」
呆れたように笑われながら席へ着いたものの、アレンの視線は何度も窓の外へ向かう。季節市そのものは初めてではない。それでも今年は、以前とは少し違って見えていた。七聖獣すべてに会いたいと決め、木を削り、剣を習い、魔法へ触れるようになってから、「村の外」は物語の中だけにある場所ではなくなっている。道を行く旅人たちがどこから来て、どこへ向かうのか。それを以前より知りたいと思うようになっていた。
朝食を終えて中央街道へ出ると、いつものラークホロウは別の町のようだった。白髪を編み込んだエルフが乾燥薬草を並べ、その向かいでは犬人族の夫婦が厚い毛皮を広げている。ゴブリンの職人は色鮮やかな金属細工を吊るし、通りかかったアレンへすぐ声を掛けた。
「坊主、見てけ! 南の鉱山から来た銅の留め具だ。頑丈、安い、しかも俺が作った!」
最後だけ妙に声が大きい。
「見ただけ」
「見るのが買い物の始まりだ!」
「買わないよ」
「買わないと決めるには触らねえとな!」
困ったアレンが母を見ると、エララは笑いを堪えていた。
「助けてよ」
「自分で断れるでしょう?」
仕方なく商人へ向き直る。
「お金ない」
「それはどうしようもねえな! また持ってる日に来い!」
あまりにあっさり諦められ、アレンは店を離れてから笑った。
さらに先では、栗色の馬体を持つケンタウロスの一家が人波の中を歩いていた。母親の周囲を元気に行き来していた幼い子供と目が合い、向こうから手を振られる。アレンもすぐ振り返した。
「知り合い?」
「知らない」
「ずいぶん楽しそうに挨拶したわね」
「向こうが振ったから」
「そういうのも悪くないわね」
ところが、その後に銀白色の髪を持つエルフの女性と、黒い犬耳の若者が一緒に荷物を運んでいるのを見つけたとき、アレンは興味のまま少し長く目で追ってしまった。
「アレン」
呼ばれて母を見る。
「珍しい人を見ても、ずっと見続けないこと」
「変だから見たんじゃないよ」
「分かってる。でも、あなたがどういうつもりで見ているかは相手には分からないこともあるでしょう?」
エララは、知らない服や種族に興味を持つこと自体は悪くないと続けた。ただし、人は見世物ではない。知りたいなら話せる状況で挨拶し、相手が嫌がればやめる。それだけ覚えておけばいい。
「分かった」
アレンが頷くと、エララもそれ以上は言わなかった。
市場には、見たことのない土地を想像させる品がいくつも並んでいた。青い砂を詰めた小瓶、遠い海で採れた淡緑色の貝殻、甘い香りを持つ紫色の木片、巨大な茸の乾物、細かな模様を刻んだ南方の陶器。香木を扱う犬人族の店主へ「僕、火出せるよ」と口にしてしまい、すぐ隣からエララに「練習中です。まだ人前では使わせません」と訂正される場面もあった。店主が、自分の息子も魔法を覚えたばかりの頃に格好をつけて尻尾を焦がしたと笑うと、アレンは腹を抱えた。
「八歳くらいの男の子が考えそうね」
「僕はやらないよ」
「そう願うわ」
そんなやり取りをしながら市場の中央近くまで進むと、薬草や香辛料の店が集まる一角へ出た。エララはそこで、年配のエルフの女性が営む露店の前へ足を止める。金灰色の髪を束ねた店主は、エララを見た途端、驚いたように目を細めた。
「……まあ。やっぱりエララじゃないか」
「お久しぶりです」
アレンが二人を見比べる。
「知ってる人?」
「昔、何度か薬草を買ったことがあるの」
「何度かどころじゃないでしょう」
店主は笑い、続いてアレンへ視線を向けた。
「この子、あんたの?」
「ええ。息子のアレンです」
「こんにちは」
「礼儀がいいね」
「さっき教わった」
「正直でもある」
楽しそうに笑った店主へ、アレンはすぐ尋ねた。
「お母さんとはどこで会ったの?」
「ずっと前さ。まだ私が――」
「必要な薬草を見てもいいですか?」
エララがあまりに自然な調子で割って入ったため、アレンは最初、その意味に気づかなかった。
「相変わらずだねえ」
店主は肩を竦め、白根葉や霧苔、赤月草を取り出した。エララが薬草を確かめていると、女性は「昔から薬草だけは怖いくらい詳しかった」と懐かしそうに話す。
「旅先で教わっただけです」
「そういうことにしておくよ」
今度こそアレンも母の横顔を見た。
「どれくらい昔?」
「アレン。向こうの棚に青い実があるでしょう? いくつあるか数えてくれる?」
「何で?」
「買うかもしれないから」
頼まれたまま数え始め、十四個あると報告して戻った頃には、二人の話は終わっていた。
「買う?」
「今日は買わない」
「じゃあ何で数えたの?」
「数の練習になったでしょう?」
「ずるい」
店主が声を上げて笑った。
店を離れてからも、アレンは母を見上げた。
「どこで知り合ったの?」
「旅をしていた頃よ」
「いつ?」
「ずっと前」
「どれくらい?」
「あなたがもう少し大きくなれば、話せることも増えるわ」
「またそれ」
「またそれよ」
答えは得られなかった。そのことは気になったが、市場には気を引くものが多すぎて、八歳のアレンがいつまでも同じ疑問だけを追い続けることはできなかった。
ほどなく、木工品を並べた店の前で足が止まった。匙や皿、小箱の間には鳥や狐、馬を象った小さな木像があり、どれも自分の七聖獣より遥かに滑らかだった。灰色の毛並みを持つ犬人族の職人へ、自分も七体彫ったこと、グリフィンの脚を折ったことを話すと、男は何でもないことのように頷いた。
「細くしすぎたか?」
「うん」
「あるある。何年やってても折るときは折るぞ」
「でも、この鹿の脚は細いよ」
「木目と木の種類を見て、折れにくい向きを選ぶんだ。あとは何度も失敗したからな」
「何回?」
「数えてねえ」
アレンは少し嫌そうな顔をした。
「お母さんと同じこと言う」
「母ちゃん、木彫り職人か?」
「違う」
「なら賢い母ちゃんなんだろ」
「それは本人へ何度言っても構いませんよ」
後ろからエララが答え、アレンと職人が同時に彼女を見る。
店には立派なグリフィンの木像もあった。翼は大きく、細い脚でしっかり立っている。
「欲しい?」
エララに聞かれ、アレンはしばらく眺めてから首を振った。
「僕のあるから」
「怒ったやつ?」
「怒ってない」
「そうだったわね」
「本物を見たら、自分でもう一回作る」
その答えを聞いたエララは、静かに微笑んだ。
しばらくして、彼女は小さな銀貨を一枚アレンの掌へ載せた。
「好きなものを一つ買っていいわよ。そのお金で買えて、危なくないものなら」
アレンは菓子や玩具を何度も見て回った。蜜を塗った木の実にも、翼の動く木製の鳥にも惹かれたが、なかなか銀貨を使わなかった。やがて市場の端にある革細工の店で、何の飾りもない小さな茶色い革袋を見つける。柔らかな革を折り、紐で口を締めるだけの簡素な袋だった。
「これいくら?」
「銅貨十二枚だよ」
「銀貨で買える?」
「もちろん。お釣りも出るよ」
エララが袋を手に取る。
「何に使うの?」
「旅」
「旅?」
「いつか七聖獣を探しに行くとき、小さいもの入れる」
「何を?」
アレンは少し考えた。
「……まだ分かんない」
「空のままかもしれないわよ」
「今はね」
その答えに、エララは何も言わなかった。
革袋を買うと、釣りとして返された銅貨を一度中へ入れかけたアレンは、途中で思い直して取り出した。
「これはお金だから別。袋には旅で見つけたもの入れる」
「今日はまだ旅をしていないから?」
「うん」
こうして最初の旅道具は、何も入っていないまま腰へ結ばれた。
中央広場では旅芸人が笛と太鼓を鳴らし、人間も獣人もエルフもゴブリンも、旅のケンタウロスさえ同じ輪の周囲へ集まっていた。そこでトーマ、ミーナ、フィルと合流すると、真っ先に空の袋を不思議がられる。
「中、何?」
「何もない」
「何で空の袋買ったの?」
「旅で使うから」
「旅いつ行くの?」
「大きくなったら」
「じゃあ今いらないじゃん」
アレンが考え込む横で、ミーナが「私なら食べ物入れる」と言う。
「それいい」
「旅で見つけたもの入れるんじゃなかったの?」
フィルに指摘される。
「食べ物も旅のもの」
「今決めたでしょ」
四人は笑った。
午後になると、アレンは午前中に母から教わったことを意識しながら、気になる商人には自分から挨拶して話を聞いた。香辛料は海を越えた南の港から、青い織物は雨の少ない平原の町から来たという。朝のゴブリン商人にも再び捕まり、「結局金持ってたじゃねえか!」と責められた。
「袋買ったからもう少ない」
「俺より袋を選んだのか!」
「うん」
「正直すぎる!」
笑いながら店を離れたあとも、アレンの中には商人たちから聞いた土地の名前が残った。
目の前に並ぶ品物は、最初からラークホロウにあったものではない。誰かが遠い土地で作り、荷物へ積み、いくつもの道を通ってここまで運んできた。薬草も布も貝殻も金属細工も、その向こうには自分の知らない土地と、そこで暮らす人々がいる。
なら、その道を逆に辿っていけば、自分もいつかそこへ行けるのかもしれない。
夕方、店じまいを始めた商人たちの荷車が村の西側から次々と街道へ出ていった。アレンとエララは道端に立ち、一台の幌馬車が遠ざかっていくのを眺める。
「みんなどこ行くの?」
「次の村へ行く人もいれば、もっと大きな町まで進む人もいるでしょうね」
「この道、ずっと行ったら?」
「途中でいくつも分かれるから、『ずっと』では答えにくいわ」
「でも村の外には行く」
「それは間違いないわ」
アレンは腰の革袋へ触れた。
「今日、世界が村に来たみたいだった」
「世界が?」
「だって、いっぱい違うところから人が来たでしょ。海のものも、遠い薬草も、青い砂もあった。ラークホロウから出てないのに、外のものいっぱい見た」
「そうね。誰かが歩いて、物を運んで、話を持ってくる。だから小さな村でも、世界から完全に切り離されているわけじゃないの」
アレンは西へ伸びる街道を見つめた。朝まで、それは森や畑へ向かういつもの道だった。しかし今日、遠い土地から来た人や物へ触れたことで、その先にある景色まで僅かに近づいた気がする。知らない町があり、見たことのない海があり、ラークホロウでは出会えない人々が暮らしている。そして、同じ空の下のどこかには、七聖獣の足跡が残る土地さえあるかもしれない。
「僕もいつか、この道から行く?」
「旅に出るなら、たぶんね」
「お母さんも?」
エララは少し微笑んだ。
「最初のうちは、一緒に行けるかもしれないわね」
「最初だけ?」
「いつまでも母親と一緒に歩くつもり?」
「別にいいじゃん」
「二十歳になっても?」
「……そのとき考える」
「賢い答えね」
アレンは空の革袋を持ち上げた。
「これ、いっぱいになるかな」
「何を入れるかによるでしょう?」
「旅で見つけたもの。一番大事なやつだけ」
「それなら入るかもしれないわね」
その夜、寝室へ戻ったアレンは、棚に並ぶ七聖獣を一体ずつ眺めたあと、腰から革袋を外した。口を開いて中へ指を入れても、当然何もない。それでも、その空っぽの状態を寂しいとは思わなかった。
何も入っていないからこそ、これから何を入れるのかを自分で決められる。
遠い土地で拾った小石でも、知らない町で受け取ったものでも、いつの日か七聖獣へ会えた証でもいい。今はまだ、そのどれ一つとして持っていない。
七歳の頃、遠い土地とは母が語る物語の向こう側にあるものだった。けれど八歳になった今、それは自分の足で道を歩けば、いつか辿り着ける場所へ変わり始めている。
アレンは空の革袋を、七体の木像の隣へそっと置いた。
まだ何一つ旅の記憶を収めていない小さな袋。
それでも彼にとっては、いつか本当にラークホロウを出る日へ向けて初めて自分で選んだ、最初の旅道具だった。
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