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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第一章 七つの物語
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第一章 第十三話 まだ見ぬ世界

季節市の二日目、アレンは昨日より少し早く目を覚ました。窓の外から聞こえる声は前日ほど多くない。夜のうちにラークホロウを発った商人もいるらしく、中央街道を埋めていた幌馬車の数も減っている。それでも市場が終わったわけではなく、遠くから笛の音が聞こえ、店を開くために木箱を動かす音や、荷馬へ声を掛ける旅人の声が朝の空気へ混じっていた。


 寝台から降りたアレンが最初に目を向けたのは、棚に並ぶ七体の木像と、その隣へ置いた小さな茶色い革袋だった。昨日買ったばかりで、中にはまだ何も入っていない。旅で見つけたものを入れると決めたものの、そもそも自分がいつか歩く先には何があるのだろう。海の向こうには何があり、北の山のさらに向こうでは誰が暮らし、自分が名前すら知らない土地にはどんな町や生き物があるのか。昨日の市場は、知らない場所が本当に存在していることを教えてくれた。だから今日は、その場所そのものについてもっと知りたかった。


 革袋を腰へ結び、階段を下りると、台所ではエララが朝食の準備をしていた。


「おはよう」


「おはよう。今日は走らなかったわね」


「昨日言われたから」


「一日で覚えたなら偉いわ」


「今日も市場行く?」


「朝食の前から聞くと思っていたわ」


「今日は遠くから来た人に、住んでるところとか、行ったところの話聞きたい」


 エララは皿へ卵を取り分けながら、少しだけ目を細めた。


「急に旅人らしくなったわね」


「まだ旅してないよ」


「だから『らしく』なの」


 アレンは黒麦パンを取りながら、海の向こうや山の向こうに何があるのか知りたいと続けた。エララは聞くこと自体は構わないが、忙しい相手を捕まえて長々と質問しないこと、そして旅人の話を何でもそのまま事実だと思わないことを教える。


「嘘つくの?」


「わざと嘘をつく人もいるし、見間違いもあるわ。誰かから聞いただけの話を、自分で見たことみたいに話す人もいるでしょうね」


「じゃあ、どうやって本当か分かる?」


「一人の話だけで決めないこと。別の人にも聞く。本を読む。地図を見る。それから、いつか自分で確かめる」


「自分で見たら一番?」


「自分で見ても、見間違えることはあるわよ」


「難しい」


「だから面白いんじゃない?」


 その答えを聞くと、アレンは少し嬉しそうに笑った。


 朝食を終えて市場へ出ると、昨日空いていた場所にも新しい店が並んでいた。夜遅くに到着した旅人がいるらしい。昨日のゴブリンの金属商は相変わらず同じ場所で大声を張り上げ、アレンを見るなり指を差した。


「袋の坊主!」


「その名前やめて」


「今日は俺の店で何か買う気になったか!」


「話なら聞く」


「金にならねえ!」


 そう叫びながらも店主は笑っていた。アレンが「南の鉱山ってどんなところ?」と尋ねると、今度は少し意外そうな顔になる。


「穴と石と汗だ!」


「それだけ?」


「あと飯が不味い」


「行きたくなくなる説明だね」


「じゃあ夕方の谷は綺麗だ。山肌が赤くなって、鉱石が露出してるところじゃ壁の中に星が埋まってるみたいに光る」


 話し始めた商人から、南へ進むほど森が減り、乾いた土地が増えること、古い鉱山町ではゴブリンだけでなく人間やドワーフ系の民も働いていることを聞いた。さらに南について尋ねると、男は首を振った。


「そこから先は俺も行ってねえ」


「じゃあ知らない?」


「知らないって言えるのも大事だぞ、坊主」


 昨日まで大声で商品を売りつけてきた男から急にまともなことを言われ、アレンは少し驚いた。


「何だその顔」


「普通のこと言ったから」


「失礼な!」


 最初の店を離れた頃には、アレンはすでに昨日以上に楽しそうだった。


 中央広場の北側には、煤で黒ずんだ大きな荷車が停まっていた。車輪には赤土がこびりつき、その前では右頬から顎にかけて古い火傷跡を持つ旅人が革外套を繕っている。横には黒く焼けたような石が並んでいた。


「何の石?」


「火山石だ」


「火山?」


「山の中から、赤く溶けた石が出てくる場所だ」


 アレンの目が大きくなる。


 男は遥か南にある赤煙山地の話をしてくれた。山頂から煙が上がり、夜には地面の亀裂が赤く光る場所もある。山羊や大蜥蜴、火に強い虫が暮らし、かつて煙の向こうから巨大な竜が現れたこともあるという。


「ドラゴン?」


「そうだ」


「どれくらい大きい?」


「この広場じゃ翼を開けないだろうな」


「戦った?」


 男は無言でアレンを見る。


「……逃げた?」


「全力でな」


「でも剣持ってる」


「剣を持ってる奴ほど、自分が斬れないものを知っておいた方が長生きする」


 エララが横から何も言わずアレンを見る。


「分かってる。逃げるのも強さ」


「いいこと教わってるな。俺が格好つけて竜へ向かってたら、今ここで話してる奴はいない」


 アレンは火山石を見つめた。


「でも見てみたい」


「遠くからにしとけ」


「うん。遠くから」


 今度は広場の反対側から、ラークホロウでは珍しい潮の匂いが漂ってきた。青く塗られた木箱を並べた店には、貝殻、乾燥海藻、塩、小さな珊瑚細工が並んでいる。店主の日焼けした女性は、波を模した青い刺青を腕へ入れていた。


「海って、本当に向こう側見えないの?」


「岸に立てばね」


「ラークホロウより大きい?」


「この村を何千個並べても足りないんじゃないかね」


 アレンは言葉を失った。


 海には巨大な亀や船より長い魚、光るクラゲや海蛇がいる。さらに深い場所には、まだ名前すら付いていない生き物もいるだろうと女性は話す。


「人魚もいる?」


「いるよ。港へ来る者もいるし、海中の集落から真珠や薬草を持ってきて、地上の鉄器や布と交換する者もいる」


「ずっと水の中?」


「そういう者もいるし、岸と海を行き来する一族もいる。人魚だから全員同じ暮らしじゃないさ」


 昨日から何度も聞いていることと似ている。アレンは素直に頷いた。


「会ってみたい」


「なら尾ばっかりじろじろ見るんじゃないよ」


 女性が笑う。


「昨日教えたばかりね」


 エララが横から言った。


「もう分かってる」


 店主はしばらくアレンを見たあと、端の欠けた青い貝殻を一つ差し出した。


「ほら。売り物にならないやつだ。そんな顔で話を聞いてくれた代金」


「もらっていいの?」


「いいよ」


「ありがとう!」


 アレンは両手で受け取ると、腰の革袋を開いた。昨日から何も入っていなかった小さな袋へ、初めて物が収められる。


 遠い海から来た、青い貝殻だった。


 エララは何も言わず、その様子を見守っていた。


 市場の奥には古書を積んだ露店もあった。白髪を長く伸ばした年配のエルフが店主で、革表紙の本や地図の断片、旅行記、絵入りの冊子が並んでいる。アレンは翼を持つ人物が描かれた本へ興味を示した。


「天使って空に住んでる?」


「高地や浮遊地帯に集落を作る種族もいる。ただ、翼を持つ民すべてが天使というわけではない」


「天使っていい人?」


 老人の眉が僅かに上がった。


「では悪魔は悪いのか?」


「……悪魔だから?」


 老人は楽しそうに笑う。


「昨日、この市場で悪魔族の女が林檎を買っていたぞ」


「悪いこと?」


「林檎を買うことがか?」


「違う」


「なら、種族の名前だけで善悪を決めるのは難しいな」


 怖い天使もいれば、穏やかに暮らす悪魔族もいる。人間にもエルフにも、親切な者と危険な者がいる。老人は、大きな名前の中へ誰かを入れれば分かった気にはなれるが、旅をすればそこから外れる人々ばかりに出会うと話した。


 その横で聞いていた赤い外套の旅人が笑う。


「坊主、遠い話が好きなのか? なら吸血鬼に会った話でも聞くか」


「会ったの?」


「ああ。最初に会った奴は旅人を襲ってた。次の日に会った奴は薬屋だった」


「薬屋?」


「怪我した俺に消毒薬を売ってきた。値段は高かったが、血は吸われなかった」


 アレンは困った顔になる。


「じゃあ吸血鬼も、名前だけじゃ分かんない」


 古書店の老人が頷く。


「さっきの話を覚えていたか」


「今覚えた」


 エララが笑った。


 その後もアレンは、市場の中でいくつもの景色を聞いた。夕方になると青紫色へ輝く砂漠。一年の大半を雪と氷に閉ざされ、家の入口より高く雪が積もる北の国。巨大な樹木の幹や枝へ家を築き、吊り橋で行き来する町。断崖そのものを削って造られた都市。空を飛ぶ船を作ろうと研究を続ける人々。


「落ちたら?」


 巨木の町の話を聞いたときに尋ねると、旅人が笑った。


「お前、そればっかりだな」


「だって高いって言うから」


「落ちないように作ってある」


「壊れたら?」


「次からその答えは自分で考えなさい」


 横からエララに言われ、アレンは少し不満そうに口を閉じた。


 昼頃には、長い蛇の下半身を持つラミアの小さな隊商が村へ入ってきた。アレンは昨日教えられたことを守り、通り過ぎる姿をいつまでも見つめず、休憩へ入った一人の女性へ自分から挨拶した。


「こんにちは」


「こんにちは、小さい人間」


「小さいラミアって何て呼ぶの?」


 女性は一瞬黙ったあと笑う。


「子供よ」


「同じなんだ」


「何だと思っていたの?」


「分かんないから聞いた」


「それなら正しいわね」


 アレンは、彼女たちが乾いた谷から家族単位で隊商を組み、暑すぎる地方では夜に移動することを聞いた。


「ずっと這って来たの?」


 口にした瞬間、女性は怒るのではなく首を傾げた。


「私たちは『歩いてきた』と言うのよ。あなたたちだって『足を交互に動かして来た』とは言わないでしょう?」


「あ……ごめんなさい」


「知らなかったなら、次から気をつければいいわ」


 少し離れたところで会話を聞いていたエララは、何も口を挟まなかった。


 午後になる頃には、アレンの頭の中は無数の景色で埋まっていた。煙を吐く山と巨大な竜。向こう岸の見えない海と水中で暮らす人々。青紫色の砂漠。雪に埋もれる北の国。巨木や断崖へ築かれた町。そして、天使だから善い、悪魔だから悪い、吸血鬼だから危険だと、名前一つだけでは決められない人々。


 そのどれも、今日聞いたものですら世界のほんの一部にすぎない。


 中央広場へ戻ったところで、アレンはエララの袖を引いた。


「お母さん」


「なあに?」


「七聖獣探すだけじゃ足りないかも」


 エララは少し驚いた。


「どういう意味?」


「最初は七聖獣に会いたいから旅したかった。でも、今日聞いたところも全部見たい」


「全部?」


「できるだけ」


「海も?」


「行く」


「砂漠も?」


「行く」


「雪国も?」


「寒そうだけど行く」


「火山の竜は?」


 アレンは少しだけ考えた。


「……遠くから見る」


「そこは学んだのね」


 エララは笑った。


「七聖獣に会えなくても、旅って面白いかな」


「実際に歩いてみないと分からないわね」


「お母さんは面白かった?」


 その問いに、エララはほんの僅かに黙った。


「面白いこともあったわ」


「嫌なことも?」


「もちろん。雨の中を何日も歩くこともある。食べ物が足りなくなることも、道を間違えることも、病気になることもある。危険な動物や、人同士の争いへ巻き込まれることだってあるわ」


「旅って危ないんだ」


「危ないこともある。物語なら次の町までの数日を一行で済ませられるけれど、本当に歩くなら、その一行の中でも雨は降るし、靴は壊れるし、お腹も空くの」


「じゃあ何できたら旅できる?」


「全部できるようになってから、なんて言ったら一生出発できないわね」


「じゃあ今でも?」


「八歳のあなた一人では駄目」


「それは分かってる」


 エララは、剣や魔法だけではなく、文字、数字、地図、料理、傷の手当て、水や天候の見分け方、人へ道を尋ねることも必要だと説明した。


「いっぱいある」


「剣一本で旅ができるなら、世の中の旅人はみんな剣士になっているわ」


 アレンは市場を歩く商人や職人、旅芸人、子供を連れた家族を見る。確かに誰もが剣を持っているわけではない。


「人と話すのも?」


「大事よ。今日だって、聞かなければ分からなかったことがたくさんあったでしょう? 分からないときに、分かったふりをしないこともね」


 朝のゴブリン商人が言った言葉を思い出す。


「知らないって言えるのも大事」


「そうね」


「全部覚えたら世界中行ける?」


 エララは少し考えた。


「全部は難しいかもしれないわ。世界はとても広いから。一人の人が生きている間に、すべての道を歩いて、すべての町を見て、すべての人に会うのは難しい」


「じゃあ、どうするの?」


「自分で選ぶのよ。どの道を歩くか。どこで止まるか。何を諦めて、何を大切にするか」


 八歳のアレンにとって「人生の時間」はまだ遠すぎる言葉だった。それでも、全部を見ることができないかもしれないという部分だけは少し残念だった。


「じゃあ、できるだけいっぱい見る」


「欲張りね」


「駄目?」


「いいえ」


 エララは笑った。


「あなたが自分で歩けるようになったらね」


 広場の端で休憩しながら、アレンは革袋から青い貝殻を取り出した。


「海って、これよりずっと大きいんだよね」


「比べるのが難しいくらいね」


「これ作った貝は海にいた?」


「たぶん」


「じゃあ、これだけ先に僕のところ来たんだ。僕が海へ行くより先に」


 その言葉に、エララは少し微笑んだ。


「そう考えることもできるわね」


 アレンは貝殻を革袋へ戻した。昨日は完全に空だったそこへ、遠い海から来たものが一つ入っている。それだけで、まだ見たことのない場所が昨日よりほんの少し近くなったような気がした。


 夕方、家へ戻る途中でアレンは昨日と同じ西の街道の前へ立ち止まった。荷車が夕日に照らされた道をゆっくり遠ざかっていく。


「お母さん」


「なあに?」


「僕、七聖獣だけじゃなくて、世界を見たい」


 エララは答えを急がず、しばらく息子の横顔を見つめた。


「七聖獣を探すのをやめるってこと?」


「違うよ」


 返事は早かった。


「七聖獣には絶対会いたい。でも、そこへ行くまでの場所も見たい。会ったあとも、まだ知らないところがあったら行きたい」


「どうして?」


 アレンは街道の先を見たまま考えた。


「知らないから」


「それだけ?」


「知らないものがいっぱいあるって分かったから。見たらもっと分かるでしょ? そしたら、また知らないものが出てくるかもしれない」


「終わらなさそうね」


「それでいい」


 七聖獣へ会うという夢が消えたわけではない。むしろ、それは以前より確かなものになっていた。ただ、その目的地へ続く道にも無数の場所と人と物語があることを、二日間の季節市が教えてくれた。


「なら、少しずつ覚えないとね」


「何を?」


「剣、魔法、文字、数字、地図、料理、手当て――」


「そんなに一気に言わないでよ」


「世界を見たい人が弱音を吐いてる」


「世界見るのと料理違うじゃん」


「お腹が空いたら、それどころじゃなくなるわ」


「お母さんが作れば――」


「二十歳になっても?」


 昨日と同じ問いを返され、アレンは黙った。


「……料理も覚える」


「よろしい」


 二人は笑いながら家へ戻った。


 その夜、アレンは棚の七体の木像の前で革袋を開き、青い貝殻を一度、不死鳥とグリフィンの前へ置いた。


「海も行くからね」


 誰に言っているのか、自分でも分からないまま続ける。


「竜も見る。遠くから。雪のところも、青い砂漠も行く。空飛ぶ船も、乗れたら乗る」


 少し考えた。


「落ちないなら」


 アレンは貝殻を革袋へ戻し、七体の木像の隣へ置いた。


 袋の中身はまだ一つしかない。それでも、昨日まで完全に空だったそこへ、初めて自分がまだ見たことのない土地から来たものが収まった。


 七聖獣へ会いたいという夢は変わっていない。


 ただ今のアレンには、その夢へ続く道そのものも見てみたいという、新しい願いが生まれていた。


 どんな人と出会い、どんな町へ入り、何を失敗し、何を覚え、どんな景色を持ち帰るのか。八歳の彼にはまだ、そのどれも想像し切れない。


 それでも、母が語る物語の中にしか存在しなかった遠い土地は、もう手の届かない空想ではなかった。


 今日ラークホロウへ来た旅人たちは、本当にそこから道を歩いてきたのだ。


 ならば、自分にもいつか歩ける。


 そう信じながらアレンは目を閉じた。


 七体の木像の隣には、青い貝殻を一つだけ収めた革袋が静かに置かれていた。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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