第一章 第十四話 森辺の古い祠
季節市が終わって数日が過ぎても、アレンの頭から遠い土地の景色はなかなか消えなかった。剣の稽古中でさえ、赤い煙を吐く山や巨大な竜、断崖へ築かれた町、波に揺れる船の甲板を想像してしまう。その朝も木剣を振り下ろしたものの、剣先は藁を巻いた標的の左側を大きく通り過ぎた。
「アレン」
「うん」
「今、何を斬ったの?」
「え?」
言われて初めて外したことに気づき、足元を見れば右足も必要以上に前へ出ている。
「……竜」
「庭に?」
「違うよ。考えてた」
「でしょうね。季節市が終わってから、あなたの身体だけラークホロウに残っている気がするわ」
「ちゃんといるよ」
「では、今の足は?」
アレンはすぐ原因を見つけた。
「踏み込みすぎた。それと……頭が別のところにいた」
「そちらの方が大きな原因ね」
エララは木剣の先を軽く押し下げた。
「遠い場所へ行きたいと思うのは悪くないわ。でも本当にそこまで歩きたいなら、今いる場所を見ることも覚えないと。道の先ばかり見て足元の穴へ落ちたら意味がないでしょう?」
「分かってる」
「今は?」
「今は剣」
「そう。それが終わったら好きなだけ竜のことを考えなさい」
「遠くから見るだけだよ」
「そこはちゃんと覚えているのね」
構え直したアレンは、足幅、膝、肩、握り、呼吸を自分で確かめた。次の一撃は中央から僅かに右へ外れたものの、今度はすぐに原因を考える。
「最後に手が右へ行った。強く当てようとしたから」
「なら次は?」
「力抜く」
世界を見たいという気持ちは消えていない。それでも、今すぐ一人で旅へ出られるわけではないことも分かり始めていた。剣も、魔法も、文字も、地図も、料理も、まだ知らないことばかりだ。なら今できることを一つずつ覚えるしかない。
午前の稽古を終えると、家の前でトーマ、ミーナ、フィルが待っていた。いつもの遊びへ誘いに来たのかと思ったが、三人とも妙に声を潜めている。
「見つけた」
トーマが言った。
「何を?」
「秘密の道」
「秘密じゃない。古い道」
ミーナがすぐ訂正する。
「どこ?」
「月根の森の北の方。森の端っこ」
フィルの答えに、アレンの表情が変わった。昨日、ミーナの叔父が飼っている山羊を探していた際、草に埋もれた石の道を見つけたらしい。その先には蔓に覆われた石柱と階段まであったという。
「行く?」
トーマが尋ねる。
「今?」
「今」
反射的に頷きかけたアレンは、一度止まった。月根の森へ子供だけで深く入ってはいけないと、エララから何度も言われている。
「森の奥じゃない?」
「端だけ。畑からもそんな遠くない」
ミーナが答える。
「大人に言う?」
「言ったら来るなって言われる」
「それ、危ないからじゃない?」
「道を見るだけだって」
その言葉に、アレンは案山子を燃やした日の自分を思い出した。「少しだけ」と思っていたはずなのに、結果は大きく違っていた。
「森の奥には行かない。暗いところにも入らない。変な動物の跡があったら戻る」
「何でお前がお母さんみたいになってるんだよ」
「……色々あったから」
魔法の事故まで説明する気はなかった。
四人は昼食後に向かうことにした。アレンはエララへ「月根の森の北側でトーマたちと遊ぶ」とだけ伝えた。嘘ではない。しかし古い道のことを言わなかったのも事実だった。
「森の中へは入らないこと」
「うん」
「北側は最近あまり人が通っていないから、倒木や穴にも気をつけて。夕方になる前には戻る」
「分かった」
エララは少しだけ息子の顔を見つめた。
「……何か隠してない?」
「何で?」
「返事が全部早いから」
「いつもじゃん」
「そうだったかしら」
しばらく見られたものの、それ以上は訊かれなかった。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
家を出たあと、アレンは少しだけ後ろめたくなった。それでも森の奥には行かず、危険なら帰れば約束を破ったことにはならないと、自分へ言い聞かせた。
月根の森の北縁までは、村の中心から子供の足でもそれほど遠くない。畑と低い石垣を越え、人の手が入った草地を離れるにつれて低木や古い樹々が増えていく。ミーナが背の高い草を分けた先で、ようやくアレンにもそれが見えた。
「道だ」
苔と土の下に、同じ幅へ切り揃えられた灰色の石が連なっている。ところどころ木の根に押し上げられながら、北東へ向かって続いていた。
「誰が作ったんだろ」
「昔のエルフ」
トーマが即答する。
「何で?」
「森だから」
「森にいるのエルフだけじゃないよ」
ミーナに言われ、トーマは少し考えた。
「じゃあ昔の誰か」
「急に広くなったね」
フィルの言葉にアレンが笑った。
石の道はところどころ土へ沈んでいたが、注意して探せば先を辿れた。やがて低木の向こうに、森の形とは明らかに異なる二本の石柱が姿を現す。片方は途中から折れ、もう一方も頂部が欠け、濃い苔と蔓、太い樹根に覆われていた。
「何か彫ってある」
アレンが蔓の隙間から石肌を覗く。細い曲線が翼の一部のようにも見え、反対側には獣の爪とも葉とも判別できない模様が残っていた。
「七聖獣?」
フィルが小声で尋ねる。
「まだ分かんない」
そう答えながらも、アレンの胸は高鳴っていた。
柱の先には低い石段があり、その上に巨大な岩壁が立っている。中央だけが不自然な直線を描き、近づくにつれて、それが自然の洞窟ではなく人の手で削られた入口だと分かった。左右には太い石柱、上部にはかつて文字か紋様が刻まれていたらしい石板があるが、長い年月に削られてほとんど読み取れない。
「祠?」
ミーナが呟いた。
「お婆ちゃんが、森に古い祠があるって言ってたことある」
「これ?」
「場所までは知らない」
入口から陽光が届くのは数歩だけで、その先は暗闇に沈んでいる。アレンは境目で足を止めた。
「暗いところには入らないって言った」
「でも入口のところだけなら」
トーマが覗き込む。
「中、部屋っぽいぞ」
「火つければ見える」
その言葉にアレンの右手が動きかけたが、すぐ止めた。
「僕の火は使わない。まだ勝手に使うなって言われてる」
ミーナが山羊探しのため持たされていた火打ち石と短い蝋燭を取り出した。古い場所で何へ触れていいのか分からないため、落ちている木片へ火を移すことはせず、蝋燭だけを使う。
「最初の部屋だけ」
アレンは外の明るさを一度振り返ってから言った。
短い通路の先には小さな石室があった。低い天井は黒ずみ、壁の隅には苔が入り込んでいる。中央には祭壇らしい石台が置かれていたが、一部が大きく欠け、上にはかつて何かが置かれていたような窪みだけが残っていた。床には割れた器や朽ちた木片、黒く変色した金属片が散らばっている。
「宝ない?」
トーマが囁く。
「触らない方がいいよ」
「何で?」
「もっと壊れそうだから」
季節市で古い本へ触れる前に許可を取ったことを、アレンは少し思い出していた。
「壁、何かある」
ミーナが蝋燭を高く持ち上げる。
石壁には浅い彫刻が並んでいた。大きな翼、獣の身体、幾つもの尾、水の中を泳ぐ長大な姿、岩山のような巨体、枝分かれした角。そして最後には、翼と大きな枝角を備えたような姿。細部の多くは苔や年月に削られている。それでも、母から創世の物語を何度も聞き、自分の手で七体を彫ったアレンには分かった。
「七つある……」
不死鳥、グリフィン、キツネ、ネラリス、ウルリクムミ、麒麟、エイラヴェル。
名前はどこにも残されていない。それでも七聖獣を表した彫刻であるように思えた。
「何でこんなところに七聖獣がいるの?」
ミーナが尋ねる。
「七聖獣の祠だったとか?」
「じゃあ何で誰も使ってないんだ?」
トーマが祭壇を見る。
誰にも答えは分からない。
そのときフィルが祭壇の右奥を指差した。
「向こうにも道ある」
石柱の影に、人一人が通れるほどの細い通路が口を開けていた。その先は完全な闇で、蝋燭を向けても数歩先までしか照らせない。
もっと見たい。
七聖獣の彫刻が残っているなら、その奥には何があるのか。文字か、像か、母から聞いた物語にもないものかもしれない。
「ちょっとだけ――」
言いかけたところで、アレンは自分の言葉に気づいた。
焦げた案山子が頭をよぎる。
「今日はやめよう」
「え?」
トーマが振り返る。
「暗いし、蝋燭一本しかない。消えたら戻れない」
ミーナも頷いた。
「私も今日は戻った方がいいと思う」
「フィルは?」
「行きたくない」
猫人族の少年は耳を伏せ、暗い通路を見ていた。
「寒い」
言われて初めてアレンも気づいた。石室が涼しいだけではない。通路の奥から、春の森には似つかわしくない細い冷気が足元を這うように流れている。
「風……」
どこか別の場所へ繋がっているのかもしれない。
そう考えた瞬間、闇の奥で硬いものが石へ当たる音がした。
四人が黙る。
小さな何かがゆっくり床を転がり、やがて蝋燭の光へ入った。丸い石だった。子供たちから数歩離れた場所で静かに止まる。
「上から落ちた?」
ミーナが呟いたが、誰も答えられなかった。
アレンは通路の闇を見つめた。何も見えない。それなのに、誰かに見られているような感覚だけが残る。
「帰ろう」
今度は誰も反対しなかった。
入口へ向き直ろうとしたとき、フィルが小さく息を呑む。
「待って」
「何?」
「今、奥に何かいた」
彼の耳は闇へ向いている。
アレンも振り返った。蝋燭の届かないずっと奥で、丸く白い何かが一瞬だけ光を返したように見えた。それが目だったのか、石だったのか判断する前に消える。
冷たい風がもう一度流れてきた。
「行くよ」
トーマも今度は素直に頷いた。
四人は走らないようにしながらも、来たときより明らかに速く石室を出た。陽光の下へ戻ると、外では何事もなかったように鳥が鳴いている。
「絶対いた」
フィルが言う。
「何が?」
「分かんない。目みたいなの」
「石に光が当たっただけかも」
ミーナは慎重だった。
「でも最初の石、誰が転がした?」
その問いで、全員が再び祠の入口を見た。
しばらくしてトーマが言う。
「明日また来よう」
「大人連れて?」
「何で大人?」
「奥を見るなら必要でしょ」
「言ったら止められる」
アレンは黙った。本当なら母へ話すべきだと思う。古い祠、七聖獣の彫刻、冷たい風、転がってきた石、奥で見えた何か。しかし七聖獣という言葉が、好奇心を強く掴んで離さなかった。
「明日、昼にもう一回来る」
アレンが言った。
「でも奥深くは行かない。蝋燭を増やして、縄も持ってくる。何かいたらすぐ帰る」
ミーナが腕を組んだ。
「それ、大人に言わないでやっていいこと?」
アレンは答えられなかった。
それでもフィルが「入口の絵はもう一度見たい」と呟き、結局、翌日も来ることになった。
村へ戻った頃にはまだ日が高く、エララとの約束通り夕方前だった。家へ入ると、彼女は台所で薬草を刻んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「楽しかった?」
「うん」
返事が少し早い。
「今日は何をして遊んだの?」
「歩いた」
「ずいぶん広い答えね」
「森の近く」
「中には入ってない?」
アレンは一瞬迷った。
「……深くは」
エララが顔を上げた。
「アレン」
「森の端だけ。危ない動物もいなかったし、ちゃんと戻った」
「『中へ入らない』と『深く入らない』は違うわよ」
「……ごめんなさい」
今度は素直に謝った。
「明日は森の中へ入らないこと」
「うん」
答えた瞬間、胸が少し重くなる。
明日は祠へ戻るつもりだ。
「何かあった?」
「何も」
今度の返事は明らかに遅かった。
エララの琥珀色の目が息子を見つめる。
「……そう」
それ以上は訊かれなかった。
夜、アレンは棚の七体の木像を順番に見た。不死鳥、グリフィン、キツネ、ネラリス、ウルリクムミ、麒麟、エイラヴェル。昼間の古い彫刻が自然と重なる。
「何であそこにいるんだろ」
答えはない。
革袋の中の青い貝殻へ触れながら、アレンは季節市で聞いた話を思い返した。未知とは西の街道の先や海の向こう、雪山の彼方にあるものだと思っていた。
けれど今日見つけたものは、遥かな土地ではない。
生まれてからずっと暮らしてきたラークホロウのすぐ近くに、誰が造ったのかも、なぜ忘れられたのかも分からない場所が眠っていた。
闇の中から転がってきた石。季節に合わない冷たい風。一瞬だけ光を返した何か。そして何より、壁に刻まれていた七聖獣。
分からないことばかりだった。
しかも今度の謎は、明日歩けばもう一度辿り着けるほど近い。
その事実が、アレンの好奇心を余計に強くしていた。
やがて考え疲れた少年は、答えを一つも得られないまま目を閉じた。
まだ見たことのないものは、遠くにだけあるわけではない。
その夜、七体の木像と青い貝殻を収めた革袋は、いつもと同じ棚の上に並んでいた。
そして月明かりさえ届かない月根の森の古い祠では、誰もいなくなった石室を細い冷気が静かに通り抜けていた。壁の七つの獣は長い年月と同じ沈黙を守り、欠けた祭壇にも何一つ戻らない。
そのさらに奥。
四人が踏み込まなかった細い通路の闇だけが、何も答えないまま深く続いていた。
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