第一章 第十五話 消された獣
翌朝、アレンは目を覚ました瞬間から、昨日エララと交わした約束を覚えていた。森の中へ入らないこと。聞き間違えたわけでも、意味を取り違えたわけでもない。月根の森の端にある古い祠へ戻れば、それは明確に約束を破ることになる。それなのに寝台から起き上がった彼が最初に考えたのは、約束を守る方法ではなく、あの石室の奥に何があるのかということだった。
棚には七体の木像と、青い貝殻を収めた革袋がいつもと同じように並んでいる。ほんの数日前まで、未知とは遠い土地にあるものだと思っていた。けれど今は、家から歩いて行ける距離に、七聖獣らしき彫刻を残した古い場所が眠っている。行かない方がいいことは分かっていた。それでも好奇心は消えてくれず、朝食の席でエララから「今日は何して遊ぶの?」と尋ねられたとき、アレンはすぐに答えられなかった。
「トーマたちと遊ぶ」
「どこで?」
「村の……近く」
エララがパンを切る手を止めた。
「ずいぶん曖昧ね。月根の森には行かないのよね?」
ここで「行かない」と言えば、昨日よりもはっきりした嘘になる。アレンは母の琥珀色の目を見ながら、わずかに言葉を選んだ。
「……森の中には、入らないようにする」
「『入らないようにする』ではなく、入らないの」
「うん」
返事を聞いても、エララの表情は緩まなかった。
「昨日、何か見つけたの?」
胸の奥が跳ねる。
「何で?」
「今まで、あなたがこんなに森の話を避けたことはなかったでしょう?」
アレンは皿の上へ視線を落とした。
「……何も危ないものはなかったよ」
「怪我をしなかったことと、安全だったことは同じじゃないわ」
言い返せなかった。エララも無理に聞き出そうとはせず、少し間を置いてから、もう一度だけ念を押した。
「今日は森へ行かないこと。それだけは約束して」
今度は返事までに時間がかかった。
「……うん」
答えた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
午前中、アレンは本当に村の中で過ごした。トーマたちと広場で遊び、小石を投げ、フィルが持ってきた木の輪を転がし、ミーナと片足でどちらが長く立っていられるか競った。最初から母を騙し、森へ向かうためだけに約束したわけではない。
だが昼を過ぎた頃、トーマが「行こう」と言った瞬間、誰も何のことか聞き返さなかった。
「アレン、お母さんに行くなって言われたんでしょ?」
ミーナが眉を寄せる。
「……うん」
「じゃあ駄目じゃん」
「でも昨日より準備してるぞ」
トーマの肩には短い縄が掛かり、腰には水や道具を入れた小さな袋が下がっていた。
「準備したら約束破っていいの?」
「危なくないようにするためだって」
「そういう話じゃない」
珍しく、ミーナとトーマの意見が完全に分かれていた。フィルは二人を見比べてから、アレンへ尋ねる。
「行きたい?」
「……行きたい」
「怖くない?」
「ちょっと怖い」
「僕も」
アレンは朝の約束を思い返した。今から祠へ向かえば、もう「森の端だから」「入口までだから」と言葉を変えて誤魔化すことはできない。
「入口だけなら……」
口にした瞬間、自分で首を振った。
「違う。行ったら約束破る」
「じゃあ行かない?」
ミーナに尋ねられ、アレンはしばらく黙り込んだ。
「……でも、行きたい」
それが一番正直な答えだった。
ミーナは深く溜息をついた。
「絶対あとで怒られるよ」
「うん」
それでも、四人は再び月根の森へ向かった。
昨日と同じ道を歩いているはずなのに、畑を離れ、低い石垣を越え、雑草の背が高くなるほど、アレンには自分が母との約束から一歩ずつ離れていくように感じられた。それでも足は止まらず、やがて苔に埋もれた石道、折れた柱、斜面の石段、その先で黒い口を開ける祠へ辿り着く。
今日は蝋燭を三本、火打ち石、短い縄、水も用意していた。ただし、アレンは自分の魔法だけは使わないと決めている。
「まず昨日の部屋まで」
「昨日と同じじゃん」
「石とか、目みたいなのとか確認する」
火を灯し、四人は再び石室へ入った。欠けた祭壇も、割れた器も、壁に刻まれた七聖獣らしき姿も変わっていない。昨日、奥の通路から転がってきた小石も同じ場所へ残されていた。
「ある」
フィルが指差す。
近づこうとしたトーマを、アレンが腕で止めた。
「触らない」
「石だぞ」
「何か分かんないから」
「石だって」
「じゃあ触らなくていいじゃん」
トーマは一瞬黙り、やがて肩を竦めた。
「……確かに」
アレンは壁へ近づき、今度こそ七つの彫刻をゆっくり確かめた。昨日は初めて見た驚きの方が強く、全体を見る余裕がなかった。蝋燭を近づけていくと、七つの獣は単純に横一列へ並んでいるのではなく、中央の祭壇を囲むように配置され、どれもその方向を向いているように見える。
「これ、全部こっち見てない?」
ミーナが祭壇を指した。
「何か置いてあったんじゃない?」
フィルが言う。
「七聖獣が見てたもの?」
トーマが石台の窪みを覗き込むが、そこに何が置かれていたのかまでは分からない。
そして祭壇の右奥には、昨日引き返した細い通路があった。
冷気は今日もそこから流れている。
「本当に入るの?」
ミーナが尋ねる。
「何かいたら戻る。道が危なかったら戻る。蝋燭が消えても戻る」
「絶対?」
「絶対」
完全に納得したわけではないようだったが、ミーナも頷いた。
四人は細い通路へ足を踏み入れた。左右の壁には人の手で削った痕跡が残っているが、最初の石室ほど丁寧には整えられていない。床には小さな段差や亀裂が続き、奥へ進むほど冷気が肌へまとわりつくように強くなっていった。それでも昨日感じたような得体の知れない物音はなく、二十歩ほど進んだところで通路が右へ曲がる。
曲がり角を越えた瞬間、蝋燭の光が急に広がった。
「部屋……」
現れたのは、最初の石室より遥かに大きな円形の空間だった。天井も高く、床の中央には幾重もの円と、そこから壁へ伸びる細い線が刻まれている。壁に沿って、人一人が立てるほどの大きな窪みが等間隔に並び、それぞれの奥には何かを置いていたらしい台座が残されていた。
「像置くところ?」
「たぶん」
四人は壁沿いに歩きながら数える。
「一、二……」
「三、四」
「五」
「六」
「七」
七つ。
最初の石室にあった彫刻を思えば、七聖獣のために作られた場所なのかもしれない。
そのとき、フィルが円形室の奥を指差した。
「……もう一個ある」
最初は傷ついた石壁にしか見えなかった。しかし近づき、蝋燭を掲げると、その部分にも他の七つとほぼ同じ高さと幅を持つ窪みの輪郭が残っている。
八つ目。
ただし、それだけは風化という言葉では説明できない壊れ方をしていた。
縁も、奥の台座も、周囲にあったらしい模様も、硬い道具で何度も叩き、削り、抉られている。他の七つにも亀裂や欠けはあるが、長い年月に削られた石はどれも角が丸くなっていた。八つ目に残る傷だけは深く、方向もばらばらで、同じ場所へ執拗に刃を打ち込んだような跡さえ残っている。
「何これ」
ミーナの声が自然と小さくなった。
「壊れた?」
「違うと思う」
アレンは隣の窪みと見比べる。
「誰かが壊したんだと思う」
「何で?」
フィルが尋ねる。
「分かんない」
蝋燭をさらに近づけると、削り切れなかった石面の端に、小さな曲線と何本もの細い線が残っていた。
「ここ」
三人が集まる。
「尻尾?」
ミーナが首を傾げた。
大きく広がった何かの縁へ、毛並みにも見える細線が刻まれている。ただ、残っているのは掌より小さな断片だけで、本当に尾なのかどうかさえ分からない。
「狐?」
フィルが尋ねる。
「でも狐はもうある」
七つのうちの一つには、複数の尾を思わせる意匠が残されている。
「じゃあ別の狐?」
「分かんない」
アレンがもう少し顔を近づけようとした瞬間、冷たい風が円形室を横切った。
三本の蝋燭が一斉に大きく揺れる。
その一瞬、傷だらけの八つ目の奥へ、長い耳のような影が重なったように見えた。その後ろにも何かが広がっていた気がしたが、一つなのか複数なのかさえ分からない。炎が落ち着いたときには、そこにあるのは削られた石だけだった。
「今……」
「見た?」
フィルもすぐ反応する。
「誰かいる?」
トーマが声を張った。
「やめてよ。いたらどうするの」
ミーナが小声で叱る。
返事はなかった。
アレンは八つ目から目を離せなかった。昨日、暗闇の中で見た丸い光。今日、一瞬だけ見えた長い耳のような影。そして尾にも見える彫刻の断片。どれも正体を決められるほど確かなものではない。
それでも、七つの隣に「何かを置くために作られ、あとから壊されたように見える場所」があることだけは、見間違いではなかった。
「七聖獣って七頭だよね」
フィルが言う。
「うん。お母さんもずっとそう言ってる」
「じゃあ、これは?」
誰にも答えられない。
「そもそも七聖獣の場所じゃないんじゃない?」
トーマが言った。
「でも最初の部屋に七聖獣みたいなのがあったし、ここも七つは普通に残ってる」
ミーナが返す。
「じゃあ八頭いた?」
フィルの問いに、アレンの胸が妙にざわついた。
星を見た夜を思い出す。
七つの星の間に一瞬だけ感じた、不自然に深い闇。そして「八つ目はあるのか」と尋ねたとき、わずかに様子を変えた母の顔。
七つの星。
七聖獣。
そして目の前にある、削られた八つ目。
同じものなのかは分からない。
けれど、完全に無関係だとも思えなかった。
「持って帰れるものないかな」
トーマが足元を見る。
「駄目」
アレンはすぐ答えた。
「誰も使ってないぞ」
「だからって僕らのじゃない」
そう言いながら足元へ視線を落としたとき、八つ目のすぐ下に白っぽい石片が一つ転がっていることへ気づいた。片面には、壁に残っているものと似た細かな線が刻まれている。
「さっきのと同じ?」
ミーナがしゃがみ込む。
アレンも手を伸ばしかけたが、フィルに言われて止めた。
「取らないんでしょ?」
「……うん」
触れずに見ていると、再び冷気が部屋を抜け、三本の蝋燭のうち一本が消えた。
「帰ろう」
ミーナが即座に立ち上がる。
「うん」
今度はアレンも迷わなかった。
円形室を出る直前、彼だけが一度振り返った。
七つの窪みの隣で、八つ目だけが深い傷に覆われている。
何が置かれていたのかは分からない。
ただ、自然に失われたというより、かつてあった形を分からなくするために誰かが削ったように見えた。
祠の外へ戻ると、春の風は暖かく、森では鳥が昨日と変わらず鳴いていた。つい先ほどまでいた円形室だけが、別の季節へ取り残されていたように思える。
「八つあったよな」
トーマが言う。
「うん」
「誰が壊したんだろ」
ミーナは祠の入口を振り返った。
「それより、何で壊したのかじゃない?」
行く前より分かったことは増えた。それなのに答えは一つも得られず、疑問ばかりが増えている。
「大人に言った方がいい」
ミーナの言葉に、今度はトーマも反対しなかった。
「……七聖獣のやつかもしれないしな」
「お母さんに言う」
アレンが答える。
「森行ったことも?」
「言う。もう隠せない」
それに、八つ目についてならエララが何か知っているかもしれない。そう期待している自分がいることも、アレンには分かっていた。
村へ戻る足取りは重かった。祠で見たものが怖かっただけではない。二度も約束を破ったことを、自分の口で母へ話さなければならなかった。
夕食が始まってもしばらく、アレンは切り出せなかった。いつもなら昼間の出来事を自分から話すのに、今日は不自然なほど静かだった。
「アレン」
「うん」
「話があるんでしょう?」
手が止まる。
「何で分かるの?」
「朝からずっと顔に書いてあるから」
アレンは少し俯いた。
「……ごめんなさい」
エララの表情が変わる。
「何をしたの?」
「森、行った」
短い沈黙が落ちた。
「昨日も今朝も、約束したわよね」
「うん」
「それでも行ったの?」
「うん」
怒鳴られることはなかった。
「どうして?」
「昨日見つけたもの、もう一回見たかったから」
「昨日見つけたもの?」
そこでアレンは、今度こそ最初からすべて話した。苔に埋もれた石道、折れた柱、古い祠、七聖獣らしき彫刻、冷たい風、転がってきた石、奥で見えたかもしれない光。そして今日、その先へ入ったこと。
話が進むほど、エララの顔から普段の柔らかさが消えていった。
「その奥へ、子供四人で入ったの?」
「蝋燭三本と縄も――」
「そういう問題ではないわ」
「……ごめんなさい」
「続けて」
アレンは円形室のことを話した。
「壁に、像とか置く穴みたいなのが七つあった」
「壁龕のようなもの?」
「へき……?」
「壁の中へ作った、像や物を置くための窪みよ」
「たぶん、それ。それで……もう一個あった」
エララの手が止まった。
「八つ目?」
母の方から、その言葉が出た。
「うん。でもそこだけ、誰かがいっぱい削ったみたいに壊れてた」
「何か残っていた?」
「少しだけ。尻尾みたいなの。毛があるみたいな線があって、大きく広がってる感じ。でも本当に尻尾か分かんない」
エララの右手が食卓の縁を握った。
「他には?」
「冷たい風。それと……長い耳みたいなのを見たかも。蝋燭が揺れたから、影かもしれないけど」
「何か持って帰った?」
「持ってない。欠片も触ってない」
「誰か怪我した?」
「してない」
「体調は?」
「普通」
エララはすぐに椅子から立ち上がり、アレンの額、首筋、掌、指先を順番に確かめた。さらに瞳を覗き込み、呼吸まで見る。その慎重さは、稽古で転んだときや擦り傷を作ったときとは明らかに違っていた。
「もう二度と、あそこへ子供だけで行っては駄目」
「でも――」
「駄目」
強い声に、アレンは反射的に口を閉じた。
「お母さん、一緒に来る?」
エララはすぐには答えなかった。
「場所を確認する必要はあるわ」
「じゃあ知ってるの?」
「あなたが話した場所を、私は見たことがない」
「八つ目は?」
エララの表情が固くなる。
「七聖獣は、七頭よ」
「でも八つ場所あった」
「あなたが見たものすべてが、七聖獣を祀るために作られたとは限らないでしょう?」
「最初の部屋に七聖獣いたよ」
「似た姿だった可能性もあるわ」
「お母さん、何か知ってる?」
エララは答えなかった。
「星のときも、八つ目あるって聞いたら変だった」
「……アレン」
「祠も八つだった。七聖獣は七つなのに」
「同じものだと決めつけてはいけないと言っているの」
叱っているわけではない。それでも、声には僅かな硬さがあった。
「じゃあ、本当に八つ目はいない?」
エララはしばらく息子の目を見つめた。
「七聖獣は、七頭よ」
同じ答えだった。
けれどアレンには、それが自分の知りたいことすべてへ答えているようには聞こえなかった。
「今日はもう、その話は終わり。約束を破ったことについては明日きちんと話すわ。今はまず、あなたに何も起きていないことを確認したいの」
「怒ってる?」
「怒ってるわ。でも、それ以上に心配した」
エララは椅子へ座り直した。
「知らないものへ興味を持つことは悪くない。でも、知らないということは、何が危険なのかさえ分からないということなの。蝋燭や縄を用意したから安全になるわけではない。それから、私に黙って行ったことも」
「……ごめんなさい」
「明日、トーマたちの家にも話すわ」
アレンの顔が引きつった。
「みんな怒られる?」
「それぞれの家で決めることよ」
夕食はその後、いつもより静かに終わった。
寝室へ戻ったアレンは、棚に並ぶ七体の木像を見つめた。
不死鳥、グリフィン、キツネ、ネラリス、ウルリクムミ、麒麟、エイラヴェル。
七体。
これまで、その数に疑問を抱いたことは一度もなかった。
けれど今夜は、列の端に残っている何も置かれていない空間が妙に気になった。ただの余白でしかないはずなのに、円形室で見た傷だらけの八つ目を思い出すと、「何もない場所」そのものへ意味があるように感じられる。
祠に残っていたのは、尾とも別の何かとも判別できない、ごく僅かな彫刻だけだった。
エララは「七聖獣は七頭だ」と何度も言った。
それは本当なのだろう。
けれどアレンが知りたいのは、七聖獣が何頭なのかだけではない。
八つ目には、何があったのか。
なぜそこだけが、形すら残らないほど誰かの手で傷つけられていたのか。
もし最初から何もなかったのなら、消そうとする必要もない。
そう考えると、好奇心とは別の冷たさが胸の奥へ残った。
同じ頃、階下ではエララが一人、食卓の前から動けずにいた。
円形室に残る七つの壁龕。
その隣にある、意図的に削られたような八つ目。
毛並みのような線。
長い耳にも見えたという影。
そして祠の奥だけを流れる、不自然な冷気。
どれも子供たちの見間違いで説明できるかもしれない。
それでも話を思い返すほど、エララの指には力が入っていった。
「……そんなはずは」
誰にも聞かれないほど小さな声が落ちる。
長い沈黙のあと、彼女は自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
「七聖獣は、七頭よ」
その言葉が何を否定しようとしているのかを知る者は、そこにはいなかった。
夜の月根の森では、古い祠が木々の影へ沈んでいた。
円形室には七つの壁龕が残り、その隣の一つだけが深い傷に覆われている。
誰が削ったのか。
何がそこにあったのか。
なぜ、その形を残してはいけなかったのか。
答えのない八つ目は、冷たい空気の流れる闇の中で、再び静かに沈黙していた。
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