第一章 第十六話 治りすぎた傷
月根の森で古い祠を見つけた日から、季節はいくつも巡った。
アレンは九歳になっていた。
祠については、あれ以来エララから厳しく近づくことを禁じられている。トーマたちの家にも事情は伝わり、四人そろってそれぞれの親から叱られた。それでも、奥で見つけた傷だらけの八つ目の壁龕について答えを持つ者はいなかった。エララも「大人が確認するまでは絶対に近づかないこと」と繰り返すだけで、あの日見たものが何だったのかを詳しく説明しようとはしない。
結局、アレンは今も八つ目の意味を知らなかった。
けれど、答えが分からないからといって日々がそこで止まるわけではない。季節市で聞いた遠い土地も、古い祠も、ときおり思い出す。それでも朝になれば水を汲み、文字と数字を学び、エララと剣を振り、許された範囲で魔法を練習した。九歳になったからといって急に大人になったわけではないが、一年前より身体は少し大きくなり、木剣の重さも以前ほど気にならなくなっている。
「肩」
庭でエララの声が飛んだ。
アレンは振り下ろしかけた木剣を止める。
「上がってる?」
「少しだけ。足は?」
「大丈夫」
「本当に?」
足元を見ると、右の爪先が僅かに外を向いていた。
「……大丈夫じゃなかった」
「自分で気づけたなら半分は正解ね」
「半分?」
「最初から崩さなければ全部正解」
「厳しい」
「剣を持った相手が、あなたが九歳だからと待ってくれるとは限らないでしょう?」
「まだ誰とも戦わないよ」
「だから今のうちに直すの」
一年前なら、木剣を振る前から足幅、握り、肩、腰、視線を何度も直されていた。今では基本の構えなら自分で作れ、振り終えた身体が流れた理由や、狙った場所から剣先がずれた原因もある程度は自分で考えられる。
「もう一回」
「何回目?」
「数えていたなら集中が足りないわ」
「頑張った証拠になるじゃん」
「上手になれば、それが一番分かりやすい証拠でしょう?」
「それ言われたら何も言えない」
エララが僅かに笑った。
その日の午後、ラークホロウの共同訓練場では、村の警備を担う者たちが若者向けの簡単な公開稽古を行っていた。盾の扱いや複数人での位置取り、剣と槍で異なる間合いを実際に見せるもので、アレンもトーマ、ミーナ、フィルと一緒に見学していた。
「槍の人、剣の人より広く立ってる」
フィルの一言で、アレンも足元へ注目する。同じ相手と向き合っていても、武器が違えば立ち方も距離も変わる。考えてみれば当然なのに、並べて見ると面白かった。
「アレン」
後ろから呼ばれて振り返ると、村の警備員の一人、ダリオが立っていた。短く刈った茶髪と日に焼けた肌を持つ三十代半ばほどの男で、アレンも幼い頃から顔を知っている。
「最近、エララさんに剣を習ってるんだって?」
「うん。ちゃんと習い始めて一年くらい」
「構え、見せてみるか?」
「今?」
「嫌ならいいぞ」
「やる」
子供用の木剣を借り、アレンは普段通りに構えた。足を開き、膝を固めすぎず、肩から力を抜き、両手で柄を握る。
ダリオの表情が少し変わった。
「……ちゃんとしてるな」
「本当?」
「ああ。九歳にしてはかなりな」
「お母さんはすぐ直すよ」
「教える側は直すところを見るからな。直すところがあるのと、下手なのは別だ」
嬉しそうなアレンを見て、ダリオは訓練用の丸盾を左腕へ通した。
「一回、打ってみるか? 俺は盾だけ使う」
「お母さんに怒られない?」
「危ないことはさせない。強く当てることだけ考えず、ちゃんと振って、ちゃんと止めろ」
「うん」
アレンは一度呼吸を整え、上から木剣を振り下ろした。乾いた音が響き、剣は盾のほぼ中央へ当たる。
「悪くない。次は右から」
何度か打つうちに、狙いを外したり踏み込みが深くなったりしたが、そのたび自分で姿勢を戻した。
「転ばなくなったな」
「前はよく転んでた」
「転ばない奴はいない」
エララから昔教えられた言葉を思い出しながら、アレンはもう一度構える。
その瞬間、訓練場の反対側で槍が倒れ、甲高い金属音が響いた。
ほんの一瞬、アレンの視線がそちらへ動く。
「アレン、前」
ダリオの声で意識を戻したときには、間合いが僅かに崩れていた。
「待て」
ダリオが盾を下げようとする。しかしアレンも動きを止めようとした瞬間、踏み込んだ右足が地面の小さな窪みへ入り、身体が予定より前へ流れた。
「っ!」
右前腕が盾の外縁を掠める。
木製の盾には摩耗を防ぐ薄い金属板が打たれており、その継ぎ目から浮いていた鋭い端が、アレンの皮膚を横切った。
最初に熱さを感じ、その直後に痛みが追いついた。アレンは木剣を落とす。
「アレン!」
ダリオがすぐ盾を置き、傷を確認した。右前腕には赤い線が走り、滲み出した血が手首へ向かって流れている。深く抉られた傷ではないが、浅い擦り傷とも言えなかった。
「動かすな」
「大丈夫」
「大丈夫かどうかは見てから決める」
ミーナもフィルも顔を強張らせ、普段なら騒ぐトーマまで黙っている。
「エララさん呼んだ方がいい」
フィルが言うと、ダリオはすぐ近くの警備員へ声を掛けた。
「これくらいなら平気だよ」
「平気でも報告する」
「怒られるかな」
「俺も怒られるかもしれんな。盾の確認が足りなかった」
「僕がよそ見したから」
「それとこれとは別だ。お前はよそ見をした。俺は道具の確認が足りなかった。両方が反省すればいい」
何となくエララが言いそうなことだと、アレンは思った。
ほどなくして訓練場へ来たエララは、まず傷を洗うための清潔な布を当て、深さを確かめた。
「指は動く?」
五本の指を開閉する。
「痛みは?」
「曲げるとちょっと」
「痺れは?」
「ない」
傷の周囲を慎重に確認したあと、エララは頷いた。
「筋や深いところまでは届いていないわね」
ダリオが頭を下げる。
「すみません。盾の縁が浮いてたみたいで」
「故意ではないでしょう。でも次から道具の確認は必ずしてください」
「はい」
それ以上彼を責めることなく、エララはアレンを家へ連れ帰った。
「治癒魔法使わないの?」
「使うほどの傷ではないわ」
「でも早く治るんでしょ?」
「傷は何でも早く閉じればいいわけじゃないの。汚れが残ったまま塞げば、中に悪いものまで閉じ込めることがある。まず洗って、薬を使って、身体がどう治していくかを見る」
家へ戻ると、傷を水でよく洗い、薬草から作った薄い消毒液を使う。
「しみる」
「我慢」
「魔法の方が楽」
「だからって何でも魔法に頼らない」
「……今しみてるから話したくない」
エララが小さく笑い、清潔な布を巻いた。
「今日は剣は禁止」
「明日は?」
「傷を見て決める」
「このくらいならできるよ」
「あなたが決めることじゃないでしょう」
「またそれ」
「何度でも言うわ」
午後は文字の練習をすることになったが、右手で炭筆を動かすたびに傷が引っ張られる。
「左で書いてみたら?」
「無理」
「旅先で利き手を怪我することだってあるでしょう?」
「また旅の話にする」
「世界を見たいと言ったのはあなたよ」
渋々左手で一文字書いたアレンは、紙を見て眉を寄せた。
「……何これ」
「あなたが書いた文字」
「文字じゃないよ」
「なら練習ね」
「怪我してるのに練習増やさないで」
結局、数行だけ左手で書かされた。
夕方、エララは包帯を交換するためアレンを椅子へ座らせた。
「朝より全然痛くない」
「動かしていないからでしょう。まず見せて」
布を解き、傷を露出させたところで、エララの指が止まった。
「どう?」
「……じっとして」
数時間前まで皮膚が開き、血が滲んでいた傷は、すでにほとんど閉じていた。赤い線こそ残っているものの、まるで数日前につけた傷を見ているようだった。
「すごい。もう治ってる」
「完全には治っていないわ」
「でも閉じてる」
エララは傷の周囲を慎重に確かめる。強い熱もなく、腫れもほとんどない。
「僕、丈夫なんじゃない?」
「そうかもしれない」
そう答えたものの、声には僅かな迷いがあった。
「じゃあ剣できる?」
「駄目」
「何で?」
「治り方が早すぎるから」
「早いならいいじゃん」
「理由が分からないことを、『良かった』だけで終わらせるのは違うでしょう?」
新しい布を巻かれ、アレンは不満そうに口を尖らせた。
夕食はいつもと変わらなかった。エララも傷について特別なことは言わず、アレンも母がまだ気にしているとは思わなかった。
ところが寝る前、再び包帯を解いたエララは、今度こそ何も言わなくなった。
朝には明らかな切り傷だったものが、夜には細い赤みを残すだけになっている。傷口は完全に塞がり、乾いたかさぶたすらほとんど形成されていない。
「……もっと治ってる」
「そうね」
「やっぱり丈夫なんだ」
エララは返事をせず、アレンの手首を取り、脈を確かめた。額、首筋、両手へ触れ、瞳と呼吸も見る。それでも目に見える異常はなかった。
「身体、変?」
少し不安そうな表情を見て、エララはすぐ顔を和らげた。
「今すぐ怖がるようなことではないわ」
「じゃあ平気?」
「今のところは」
「明日剣できる?」
「結局そこなのね」
「だってほとんど治った」
「朝見てから」
「分かった」
アレンが眠りについたあとも、エララはすぐには部屋を出なかった。
寝台のそばへ腰を下ろし、眠る息子の右腕へ目を向ける。異常なのは傷の速さだけではない。彼女は腕へ直接触れないほどの距離まで片手を近づけ、静かに目を閉じた。
生き物の身体にはエーテルが巡っている。魔法を学ぶ者はそれを意識し、集め、整え、火や水、風といった現象へ変える。アレンも八歳からその基本を学び、掌へ火を灯した。そして本人が意識しないまま、風まで僅かに動かしたことがある。
しかし今、眠る少年の体内で起きているものは、そのどちらとも違っていた。
アレンは魔法を使おうとしていない。傷を治そうとも考えていない。それどころか深く眠っている。
それなのに、胸の奥から巡るエーテルの一部が本人の意思を介さず右腕へ集まり、傷の周囲へ穏やかに留まり続けていた。荒々しく溢れることもなく、必要な場所を身体そのものが理解しているかのように、僅かな流れが修復中の組織へ染み込んでいる。
エララはゆっくり目を開いた。
「……ただ治りが早いだけじゃない」
治癒魔法ではない。外部から術式を与えた形跡もなく、アレン自身も意識していない。
掌へ生まれた、年齢に似合わない火。炎を消したくないと思っただけで動いた風。そして今度は、眠っていてさえ続く傷の修復。
どれか一つなら、珍しい適性や偶然として片づけることもできたかもしれない。けれど一年の間に積み重なった小さな異常は、もう一つずつ切り離して考えることが難しくなっていた。
「早すぎる……」
アレンが僅かに身じろぎする。
「お母さん……?」
「ここにいるわ」
「明日……剣……」
半分眠ったままの言葉に、エララは一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。
「傷が治っていたらね」
「治ってる……」
それだけ言うと、アレンは再び眠りへ落ちた。
まだ九歳になったばかりの子供だ。一年前には初めて火を灯したことを喜び、今も明日木剣を振れるかどうかを一番気にしている。
その幼さを知っているからこそ、エララは眠る息子の黒髪をそっと撫でた。
「まだ……早いわ」
いつか何かを伝えなければならない日が来ることは分かっていた。
「あなたには、まだ早い」
翌朝、目を覚ましたアレンが真っ先に右腕を確かめると、痛みはほとんど消えていた。嬉しくなって階段へ駆け出す。
「お母さん!」
「走らない」
台所から即座に声が返った。
最後の数段だけ速度を落として入ってくる。
「傷、見て」
「まずおはようでしょう?」
「おはよう。傷見て」
「順番を守っただけ偉いわ」
エララが布を外す。
昨日切れていた場所には、細い赤い線が僅かに残っているだけだった。
「治った」
「ほとんどね」
「剣できる?」
「……今日は軽い稽古だけ」
「やった!」
「痛んだらすぐ止める。強く打たない。勝手に回数を増やさない」
「分かった」
「返事が早い」
「今度は本当に分かってる」
アレンは笑いながら朝食の席へ向かった。
その背中を見送りながら、エララは右腕に残る細い赤みをもう一度見た。
本人の意思とは関係なくエーテルが傷へ集まり、眠っている間も身体の修復を助け続けていた。その事実を、アレン自身は何一つ知らない。
今はまだ、教えるつもりもなかった。
「今日何回振っていい?」
何も知らないアレンがパンを口へ運びながら尋ねる。
「傷を見ながら決めます」
「百回?」
「十回」
「少なすぎる」
「では五回」
「減った!」
「文句を言うからでしょう」
「十回でいい!」
抗議の声が朝の家へ響き、エララもいつものように笑った。
家の中だけを見れば、何一つ変わらない朝だった。
祠の奥に何が隠されているのかを、アレンはまだ知らない。
そして、自分の火や風、異常なほど早い傷の治癒が、ただ別々に起きた偶然ではないかもしれないことも、まだ知らなかった。
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