第一章 第十七話 母の嘘
朝食を終えてからも、アレンは何度も右腕を見ていた。昨日、ダリオの盾の金属縁で切った場所には、もう細い赤みしか残っていない。血が流れ、腕を曲げれば痛んでいた傷とは思えず、指先で押しても僅かな違和感があるだけだった。
包帯を外した直後は、これなら剣の稽古ができると喜んでいた。けれど皿を片づけ、庭へ出る準備をしているうちに、その喜びの下から別の疑問が浮かび始める。
「お母さん」
水筒へ水を入れていたエララが振り返った。
「なあに?」
「昨日の傷、本当に治癒魔法使ってない?」
「使っていないわよ」
「夜も?」
「ええ」
「僕が寝てる間も?」
水筒の蓋へ伸びていたエララの指が、ほんの僅かに止まった。
すぐに動き出したが、アレンは見逃さなかった。
「使ってない?」
「使っていないわ。どうしてそんなに疑うの?」
「だって昨日できた傷なのに、もうほとんどないから。お母さんも治るの早すぎるって言ってた」
「言ったわね」
「普通じゃないの?」
エララは水筒を机へ置いた。
「子供は大人より傷の治りが早いこともあるし、人によって差もあるわ。傷の深さや体調でも変わる」
「じゃあ普通?」
「一度の怪我だけでは判断できないわね」
「でも昨日、傷見たとき手止まったよ」
今度はエララが少し驚いた。
「そんなところまで見ていたの?」
「お母さん見てたから」
いつもなら笑って終わったかもしれない。だが今日は、アレンも笑わなかった。
「本当に、傷が浅かっただけ?」
エララの表情からも笑みが薄れる。
「今のところ、確かなことは言えないわ。分からないものを、最初から一つの答えへ決めつけない方がいいでしょう?」
季節市で教わったことをアレンは覚えていた。一人の話だけを信じないこと。自分で見ても間違えることがあること。そして、知らないなら知らないと言うこと。
「じゃあ、お母さんも分かんない?」
エララは短い間を置いた。
「……今はね」
「今は?」
「今のところ、という意味よ」
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。
ただ、疑問も消えなかった。
庭へ出ると、約束通り稽古は軽いものだけになった。エララは右腕を曲げ伸ばしさせ、痛みや引きつりがないことを確かめてから木剣を渡す。
「十回まで」
「二十回じゃ駄目?」
「では五回にする?」
「十回でいい」
アレンはすぐに構えた。木剣を握っても傷は痛まない。一回目をゆっくり振り、二回、三回と続けても違和感はなかったが、エララの視線は普段以上に右腕へ向いていた。
「お母さん、剣じゃなくて腕見てるでしょ」
「両方見てるわ」
「もう治ってるのに」
「また傷が開かないか確認しているの」
「開いたら普通?」
「アレン」
「何?」
「今は稽古でしょう?」
以前、遠い竜を想像して標的を外したときと同じ言葉だった。
「……今は剣」
「そう」
アレンは構え直した。
十回を終えると、エララは傷が開いていないことを確かめ、その日の稽古をそこで終わらせた。「治ったように見えることと、身体が完全に元へ戻っていることは同じではない」と言われれば、アレンにもそれ以上は反論できなかった。
昼頃、広場でトーマたちと会うと、昨日の怪我を見ていた三人はすぐ腕の話をした。
「もう治った」
「嘘」
「本当」
アレンが袖を捲ると、三人が一斉に覗き込む。
「どこ?」
「ここ」
「これ?」
ミーナが細い赤みを見て眉を寄せた。
「昨日もっと切れてたよね。血も出てた」
「うん」
「治癒魔法?」
「使ってない」
「じゃあ何で?」
「分かんない」
そう答えたあと、アレンは今朝のエララと似た言い方をしていることに気づいた。
「僕、膝切ったとき三日くらい痛かった」
フィルが言う。
「私も去年、手を切ったとき五日くらい跡が残ってたよ」
「五日?」
「うん」
もちろん傷の深さも場所も違う。エララが言ったように、単純には比べられないのだろう。
「やっぱり変かな」
アレンが尋ねると、トーマはすぐ答えた。
「便利じゃん。怪我してもすぐ治るなら」
「じゃあ怪我していいってこと?」
ミーナが睨む。
「そうじゃないけど」
「なら便利って言わない」
フィルは少し考えてからアレンを見た。
「昨日は痛かった?」
「うん」
「今は?」
「ない」
「じゃあ変だけど、痛くないなら良かった」
「うん」
アレンは笑った。
それでも、小さな疑問は胸の奥に残った。
午後、四人で広場の端に座っていると、アレンは何となく空を見上げた。昼の青空に星は見えない。それでも思い出したのは、以前エララと見た創造主の冠だった。
七つの星。
その間に一瞬だけ見えたような、不自然に深い暗がり。
八つ目はないのかと尋ねたとき、僅かに変わった母の顔。
そして月根の森の祠には、七つの壁龕の隣に、誰かの手で形が分からなくなるほど削られた八つ目があった。
さらに思い返せば、初めて火を灯したときも、案山子を燃やしたときも、火を守ろうとしただけで風が動いたときも、エララは時折、自分を見る目を変えていた。今度は、一晩でほとんど消えた傷である。
どれにも別々の説明はつけられる。
星の暗がりは見間違いかもしれない。祠の八つ目は七聖獣とは関係ないかもしれない。風は偶然で、傷もただ治りが早かっただけかもしれない。
けれど、それらについて話すたびに母が僅かに様子を変えることだけは、偶然ではないように思えた。
「アレン」
ミーナに呼ばれ、顔を向ける。
「何?」
「聞いてた?」
「……ごめん」
「何考えてたの?」
少し迷ってから答えた。
「お母さんのこと」
「何だよそれ」
トーマが笑う。
「何か隠してる気がする」
三人の表情が変わった。
「祠?」
フィルが尋ねる。
「それも」
「聞けばいいじゃん」
「聞いた。でも……答えてくれたのに、答えてない感じがする」
「どっち?」
「分かんない」
自分でもうまく説明できない。
「嘘ついたの?」
ミーナの問いには、すぐ答えられなかった。
「……分かんない」
エララは昔から、嘘をつくなと教えてきた。分からないならそう言うこと。間違えたなら認めること。約束は守ること。
だから、母が自分へ嘘をつくという発想そのものを、アレンはほとんど持ったことがなかった。
けれど――嘘をつかないことと、すべてを話すことは同じなのだろうか。
「何でそんな顔してるの?」
フィルに言われ、アレンは眉を寄せていたことに気づく。
「何でもない」
「それ、隠してる人が言うやつ」
ミーナの指摘に、何も言い返せなかった。
夕方、家へ戻ると、エララは乾燥させた薬草を小瓶へ分けていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。腕は?」
「平気」
「見せて」
「また?」
「また」
袖を捲ると、朝よりさらに赤みが薄くなっている。エララが傷跡へ軽く触れた。
「ミーナは小さい傷でも五日くらいかかったって」
その指が、また一瞬止まる。
「人によるわ」
「フィルも三日くらい痛かったって」
「場所も深さも違うでしょう?」
「僕の方が血いっぱい出てた」
「血の量だけで傷の深さは決まらないわ」
「じゃあ僕のは浅かった?」
「そうだった可能性はあるわね」
「可能性?」
エララが顔を上げた。
「今日はずいぶん言葉を拾うわね」
「お母さんが『そうかもしれない』とか、『可能性』とか、『今は分からない』って言うから」
エララの表情が僅かに変わった。
「本当は分かってる?」
「何を?」
「僕の傷」
「どうしてそう思うの?」
「昨日から、お母さん変だから」
「心配していたのよ」
「それだけ?」
エララは答えなかった。
傷だけではない。星も、祠も、火も、風も、頭の中へ浮かんでくる。
「お母さんって――」
そこまで言って、言葉が止まった。
エララは待っていた。
「何?」
いつもと同じ母の顔だった。毎朝食事を作り、転べば理由を考えさせ、魔法を教え、悪いことをすれば叱り、夜には七聖獣の物語を聞かせてくれた。
何を尋ねたいのか、自分でもまだ分からない。
ただ、その先を言えば何かが変わってしまう気がした。
「……何でもない」
アレンは目を逸らした。
エララはしばらく息子を見つめたあと、静かに答えた。
「そう」
その一言が、いつもより少し寂しく聞こえた。
夕食では普段通りに話した。トーマが警備員用の盾を持てると言い張ったのに結局持ち上げられなかったことを話せば、エララは笑った。フィルが甲虫を家へ持ち帰ろうとして止められた話もした。
外から見れば、何も変わっていない。
けれどアレンは、母の言葉を以前のように何も考えず受け取ることができなくなっていた。
母を信じられなくなったわけではない。むしろ信じているからこそ、分からなかった。
エララは自分を守り、必要なことは嫌でも教え、間違えば叱る。
それなのに、どうして話してくれないことがあるように感じるのだろう。
寝室へ戻ると、アレンは棚の七体の木像と、その隣に置かれた革袋を眺めた。窓の外には雲の少ない夜空が広がっている。
窓を開け、創造主の冠を探す。
七つの星はすぐに見つかった。
一つずつ数えたあと、その間の闇へ目を凝らした。以前見た暗い場所がどこだったのか、今夜ははっきりしない。あの日のものが本当に特別だったと証明するものは何もなかった。
それでも一つだけ、どうしても引っかかる。
「……お母さん、何知ってるんだろ」
窓枠へ置いた右腕には、昨日の傷がほとんど残っていなかった。
九歳になったアレンは、その日初めて意識した。
母が嘘をついているとは限らない。
けれど、母が自分にすべてを話しているとも限らない。
それはエララを嫌いになるような発見でも、信頼を失うようなものでもなかった。ただ、自分の世界のすべてを知っていると思っていた母の向こう側にも、まだ自分の知らないものがある。
そのことに気づいただけだった。
やがて眠気が勝ち、アレンは静かな寝息を立て始めた。階下で椅子が引かれ、玄関の扉がそっと開いたことにも気づかなかった。
エララは一人で庭へ出た。
夜の空気は冷え、風が草を僅かに揺らしている。見上げた二階の窓からは、すでに灯りが消えていた。
朝、傷について何度も尋ねられたとき。夕方、「本当は分かってる?」と聞かれたとき。そして、「お母さんって――」と言いかけた息子が自分で続きを飲み込んだとき。
何を尋ねようとしたのかまでは分からない。
けれど、アレンが以前とは違う目で自分を見るようになったことは分かった。
九歳になった息子は、もう母の答えだけですべてに納得する幼い子供ではない。自分の目で見たことを覚え、過去と比べ、言葉の僅かな違いに気づき、自分で理由を考えようとしている。
本来なら喜ぶべき成長だった。
何より、それを教えたのはエララ自身である。
転んだ理由を考えること。一人の言葉だけで決めないこと。自分の目さえ間違う可能性があること。分からないなら、分からないと言うこと。
それを覚えたアレンが、今度は母の言葉にも同じ問いを向け始めた。
エララは目を閉じた。
息子へ教えてきたことを、自分へ向けられたときだけ止めろとは言えない。
治りすぎた傷。幼い頃から現れ始めた魔法の異常。本人の意思を離れて動いた風。そして祠の八つ目や、夜空についてアレンが抱いた疑問。すべてが同じものへ繋がっているとは限らない。それでも、彼が何かを疑い始めるには十分すぎた。
いつか、これまで語らずにきたことを話す日は来る。
家族のこと。
自分の過去。
そして、幼い息子にはまだ必要ないと判断し、口を閉ざしてきたこと。
永遠に隠せるとは思っていなかった。
ただ、その「いつか」が想像していたより早く近づいている。
まだ九歳なのだ。
世界へ旅立つ日はずっと先で、七聖獣へ会いたいと目を輝かせ、木剣を十回ではなく二十回振りたいと真剣に訴えるような年齢である。そんな息子へ、今すぐ何もかも背負わせる必要はない。
少なくとも、エララはそう考えてきた。
けれど最近では、その沈黙が本当にアレンを守るためだけのものなのか、自分自身が話すことを恐れているからなのか、その境目が以前ほどはっきりしなくなっていた。
守るための沈黙と、怖くて口にできない沈黙は、外から見ればよく似ている。
エララは暗い二階の窓を見つめ、胸の前で片手を握った。
「……ごめんね、アレン」
風に溶けるほど小さな声だった。
「まだ、言えないの」
返事はない。
アレンは眠っている。
しばらく庭に立ち続けたあと、エララは静かに家へ戻った。
その夜を境に、母と息子の間から信頼が失われたわけではない。翌朝になれば、エララはいつも通り朝食を作り、アレンはいつも通り剣の稽古について文句を言うだろう。二人は笑い、話し、これまでと同じように日々を重ねていく。
けれど、アレンの中には一つだけ、それまでになかった考えが残った。
母は、自分にすべてを話しているわけではない。
それが何を守るための沈黙なのかを、九歳の彼はまだ知らなかった。
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