第一章 第十八話 最初の狩り
十二歳になったアレンが目を覚ましたとき、ラークホロウの空にはまだ夜の色が残っていた。東の地平だけが深い紺から薄い灰青へ変わり始め、村の家々の多くは眠ったまま、聞こえるのは早起きした鶏の声と、夜露を含んだ葉が風に擦れる微かな音くらいだった。普段ならもう少し寝台の温かさへ身を預けていたい時刻だったが、今日ばかりは目を開けた瞬間に眠気が消えた。
初めての、本格的な狩りの日だった。
九歳の頃、訓練場で負った傷が一晩ほどでほとんど消えてから三年が経っている。その後も擦り傷や小さな切り傷を作ることはあったが、どれも人より少し早く治る程度で、あの日ほど露骨な異常を見せることはなかった。母が何かを知りながら話していないのではないかという疑問も消えてはいない。創造主の冠の暗がり、森の祠にあった削られた八つ目、火や風を使ったときに見せたエララの反応。それらは今も時折思い出す。それでも日々は進み、剣の稽古は以前より厳しくなり、文字と計算に加えて簡単な地図の読み方も学び始めた。火は小さく正確に扱うことを求められ、風も葉や布を僅かに動かす程度なら意識して扱えるようになっている。料理まで始め、最初に焼いた薄焼きパンを焦がしてトーマに何日も笑われたあとには、少なくとも食べられるものを作れるようになった。
八歳の季節市でエララから言われた「旅には剣以外のことも必要」という言葉は、今ではずっと現実的な意味を持っていた。
アレンは前夜から用意していた厚手の長袖と丈夫なズボンへ着替え、足首まで覆う革靴を履いた。腰へ狩猟用の小刀を収めた鞘を固定し、柄へ一度だけ手を置く。何度も扱い方を教わった刃だったが、今日はいつもより重く感じられた。木剣でも、料理用の包丁でもない。もし本来の用途で抜くことになれば、その先には生きている獣がいる。
階下では、すでにエララが起きていた。机には水、乾燥肉、黒麦パン、清潔な布、薬草、火打ち石、縄、替えの靴紐、防水布が並び、その横には一本の弓と矢筒が置かれている。
「触っていい?」
「おはようが先」
「……おはよう」
「おはよう」
「触っていい?」
「朝食が先」
「見るだけ」
「昨日も見たでしょう?」
「今日の方が違って見える」
「弓は一晩では変わらないわよ」
「僕が変わった。今日から狩りの日だから」
エララは一瞬黙ったあと、小さく笑った。
「まず座りなさい、狩人さん」
朝食を急いで食べようとして咳き込みかければ、「森は逃げない」と止められた。「獲物は逃げる」と反論すると、「あなたが家にも出ていないのに?」と返され、アレンは少し考えた末に食べる速度を落とした。
食事を終えると、弓より先に荷物の確認が始まった。水、食料、布、薬草、火打ち石、縄、替えの靴紐、防水布。晴れているからと雨具を置いていかず、窓の外の煙から風向きを読み、北西から弱い風が吹いていることも確認する。
「昼には?」
「変わるかもしれないから、途中でも見る」
「そう」
ようやく渡された弓は、大人用より短く、十二歳の身体でも無理なく引けるよう調整されていた。アレンが構え、弦を引くと、エララに言われる前に僅かに上がった肩を下げる。
「腕だけで引かない」
「背中も使う」
「疲れてくると崩れやすいから覚えておいて」
弦をゆっくり戻したあと、矢筒を受け取る。
「何本?」
数えてみると十一本しかなかった。
「十二本用意したんじゃないの?」
エララは机の端から一本を持ち上げた。軸が僅かに曲がっている。
「これ」
「少しくらいなら使える?」
「放てないわけではない。でも飛び方が安定しない」
「近かったら?」
「使わない」
「大きい獲物なら?」
「同じよ」
エララは曲がった矢を十一本から離した。
「今日は的当てではないでしょう?」
その言葉で、アレンの浮ついた気持ちが少し引いた。
「外して木へ刺さるだけなら矢を一本失うだけ。でも狙った場所と違うところへ当たれば、浅く傷つけたまま逃がすこともある。自分が矢を放つなら、そこまで考えるの」
「苦しい?」
「傷によるけれど、苦しいでしょうね」
アレンは曲がった矢を見つめた。
「怖くなった?」
「……ちょっと」
「その気持ちは忘れなくていいわ。これから生き物へ矢を向けるかもしれないと聞いて、何も感じない方が私は心配する」
今日の狩りは食べるためのものだった。村には食料があり、何も仕留められなくても飢えるわけではない。それでも将来ラークホロウの外を長く旅するなら、自分で食べるものを得なければならない日が来るかもしれない。魚を捕り、罠を使い、食べられる植物を探す。その一つとして、自分で獣を追うことを知るための日なのだとエララは説明した。
「絶対何か殺すの?」
「いいえ」
「見つからなかったら?」
「帰る」
「小さかったら?」
「狙わない」
「子供を連れてたら?」
「基本は見送る」
「射ちにくい場所だったら?」
「射たない」
「危ない獣だったら?」
「戦う必要がなければ近づかない」
アレンは眉を寄せた。
「それだと何も狩れない日もある?」
「もちろん」
「それって失敗?」
「あなたはどう思う?」
少し考えてから答える。
「……射っちゃ駄目なときに射たなかったなら、失敗じゃない?」
「私はそう思うわ」
そして、矢を放ったあとにはさらに重い責任がある。
「当たった獲物が逃げたら?」
「追う」
「なぜ?」
「傷つけたから」
「そう。血、足跡、折れた草、毛、土の乱れ。自分が傷つけたなら、できる限り最後まで追う。外したつもりだからと確認もせず帰るのは駄目」
アレンの視線が腰の小刀へ下がる。
「これも、そのため?」
「必要になればね」
「僕がやるの?」
「あなたが傷つけた獲物なら、できるだけあなた自身に」
「お母さんがやった方が早いのに」
「私が見つけて、私が射って、私が追って、私が終わらせたら、あなたは何を学ぶの?」
答えは分かっていた。
「……見るだけ」
「今日は見学ではないでしょう?」
アレンは柄へ触れたまま黙る。
「ちゃんとできなくて、もっと苦しませたら?」
「だから練習してきたの。だから曲がった矢は使わない。だから今日は私が隣にいる。そして、怖いことを恥ずかしがらなくていい」
「お母さんも最初は怖かった?」
「ええ」
「本当に?」
「私が何でも平気に見える?」
「ちょっと」
「それは困ったわね」
エララは笑いながらも、逃げるべき相手から逃げられない者が必ずしも強いわけではないと教えた。その言葉で、アレンは季節市で聞いた巨大な竜から全力で逃げた旅人を思い出す。
「剣を持ってても斬れないものを知ってた方が長生きする」
「よく覚えているわね」
「竜の話だったから」
「そっちね」
小刀の刃に欠けや錆がないこと、柄が緩んでいないことを確認し、使用後には洗って乾かすところまで改めて教えられた。
「刃物も弓も、使ったあとまで扱えて初めて道具になるの」
「旅も?」
「何が?」
「行くだけじゃないってこと?」
「あなた、何でも旅へ繋げるようになったわね」
「お母さんが何でも旅の話にするから」
「どちらが先かしら」
荷物を背負い、弓を持って家を出る頃には夜の色はほとんど消えていた。弓、十一本の矢、小刀、食料、水。十二歳のアレンには、その姿が少しだけ本物の旅人へ近づいたように思える。
「荷物、重くない?」
「平気。旅人っぽい」
「私は重いかどうか聞いたの」
「……ちょっと重い」
肩紐を直してもらうと、荷物が身体へ密着して明らかに楽になった。
「格好より先に身体」
「覚えた」
「本当に?」
「たぶん」
「そこだけは正直ね」
村の北側を抜け、月根の森へ続く道へ入る。古い祠とは少し離れた方角だったが、アレンは一度だけ北東の森へ目を向けた。
「祠の方?」
「うん」
「行かないわよ」
「分かってる。もう行かないよ」
「八歳のときも『分かってる』と言っていたわね」
「それ言うのずるい」
今度の返事には迷いがなく、エララもそれ以上は言わなかった。
森の外縁へ近づくと、朝露に濡れた草の間でエララが足を止めた。
「ここからは見るものを変えるわよ」
「静かに歩く?」
「それも。でも静かにするだけが狩りじゃない。足元を見て」
湿った土と草を眺め、アレンはやがて二つに割れた小さな跡を見つけた。
「鹿?」
「どうして?」
「蹄っぽい。でも小さい」
「だから子供?」
「……それだけじゃ決めない」
「そう」
種類によって大きさが違い、足跡が完全に残るとも限らない。縁の崩れ方や雨、朝露の状態から新旧を推測し、一つの跡だけではなく、食べられた葉、木へ擦った痕、毛、糞、折れた草、匂い、鳴き声なども合わせて判断する。
「いっぱい見るんだね」
「一つだけ見て何でも決めない。前にも似たことを教えたでしょう?」
季節市で聞いた言葉を、アレンも思い出した。
風はまだ北西から弱く吹いている。獲物に匂いを届けないため風下へ回ることは基本だが、そのために大きく動けば音や姿で気づかれる。結局は状況を見なければならない。
「狩りって『これやれば絶対正解』が少ないね」
「剣もそうでしょう?」
「似てる」
二人は森の入口へ近づいた。
「お母さん」
「なあに?」
「今日、一回も矢を射てなくても本当に失敗じゃない?」
「まだ気にしてるの?」
「ちょっと」
エララは森を見ながら答えた。
「見つからなければ帰る。小さければ見送る。子を連れていれば別を探す。距離や風が悪ければ射たない。危険な場所へ入りそうなら諦める。それで何も取れない日もあるわ」
「それでもいい?」
「今日の目的は肉を必ず持ち帰ることじゃないもの」
「じゃあ何を覚える日?」
「自分で見ること。考えること。それから、命へ矢を向けるなら、その前と後まで考えること」
森へ入る直前、エララはもう一度足を止めた。
「最後に大事なこと」
「まだある?」
「森の中で私が『逃げなさい』と言ったら?」
「逃げる」
「私を置いてでも?」
アレンは黙った。
「アレン」
「一緒に逃げる」
「私が逃げられなかったら?」
「助ける」
「助けられない相手だったら?」
「……助ける」
エララは小さく息を吐き、アレンの前へ回って視線を合わせた。
「その気持ちを嬉しいと思う私もいる。でも、誰かと一緒に死ぬことが、その人を助けることになるとは限らないわ」
「でも、お母さん置いていくのは嫌だ」
「今すぐ納得できなくてもいい。覚えておいて。これから先、あなたが何かを決めるたびに、私が必ず隣にいられるとは限らないから」
「旅に出たら?」
「それもあるわ」
「一人で決める?」
「いつかはね。今日はまず、私が答えを言う前にあなた自身で考えること」
「間違ったら?」
「どうして間違ったのか考える」
アレンは思わず笑った。
「昔と同じだ」
「何が?」
「転んだとき」
エララも笑った。
「覚えていたのね」
その笑いが収まると、森の入口には再び静けさが戻った。
そこへ一歩踏み込めば、今日の狩りが本当に始まる。
「お母さん」
「今度は何?」
「もし僕が獲物を見つけて、矢を射ったら……僕が殺したことになる?」
エララは答えを濁さなかった。
「そうなるわ」
「お母さんが教えたからじゃなく?」
「私が教えていても、最後に自分で矢を放つなら、その命を奪うのはあなたよ」
逃げ道のない答えだった。
「……怖い」
「うん」
「やめた方がいい?」
「あなたはどうしたい?」
昨日までなら、もっと簡単に「やる」と言えたかもしれない。自分で獲物を仕留めるという言葉だけなら、どこか格好よく聞こえた。
けれど今は、その後まで知っている。
外せば苦しませるかもしれない。
傷つけたなら追わなければならない。
必要なら小刀を抜き、自分の手で終わらせる。
そして、その命を食べる。
矢を放つ瞬間だけが狩りではない。
アレンはしばらく考えたあと、静かに答えた。
「……行く」
「どうして?」
「いつか必要になるかもしれないから。それに僕、いつも肉食べてる」
エララは黙って続きを待った。
「僕が殺してないだけで、食べるたびにどこかで動物は死んでる。それなら一回くらい、自分が食べるものがどうやってそこまで来るのか、ちゃんと見た方がいいと思う」
それが正しい答えなのか、アレン自身にも分からなかった。
エララはゆっくり頷く。
「分かった」
「正解?」
「今日は私から正解をもらう日じゃないでしょう?」
「また考えろってこと?」
「そういうこと」
「難しい」
「世界を見たいんでしょう?」
「それ言えば何でもやらせられると思ってない?」
「少し」
「やっぱり」
二人は少し笑った。
エララは森へ一歩進みかけ、最後に振り返る。
「もし今日、命を奪ったあとで怖くなっても、泣いても、吐きそうになっても、恥ずかしがらなくていい。逆に涙が出なくても、自分がおかしいと思う必要はないわ」
「慣れたら駄目?」
「慣れること自体が全部悪いわけじゃない。でも、命を奪うことへ慣れるのと、命を雑に扱うことは同じではない」
「……まだ分かんない」
「今日はそれでいい」
木々の間から流れてくる空気には、湿った土と苔、古い樹皮、朝露を含んだ葉の匂いが混じっている。
アレンはもう一度、自分の装備を確かめた。肩の荷物、水と食料、腰の小刀、背中の十一本の矢。そして何年も木剣や弓を扱ってきた掌。
八歳の頃、世界を見たいと思った。
九歳の頃、自分の身体にも、母にも、自分が知らないことがあると気づき始めた。
そして十二歳になった今、自分が望む世界には、美しい海や空を飛ぶ船、遠い国の珍しい人々だけがあるのではないことを、少しずつ理解し始めている。
生きることには、食べることがある。
食べるために、別の命を奪うこともある。
その現実から目を逸らしたまま世界を見たいと言うのは、どこか違う気がした。
「アレン?」
少し先でエララが振り返る。
「来ないの?」
「行く」
今日、何も見つからないかもしれない。矢を一本も放たず帰るかもしれない。それならそれでいい。
けれど、もし獲物を見つけ、自分で「射つ」と決めたなら、森から出る頃には、自分の手で初めて一つの命を終わらせた少年になっているかもしれない。
怖さは消えていなかった。
それでもアレンは弓を握り直し、十一本の矢を背負ったまま、エララの後を追って月根の森の木陰へ足を踏み入れた。
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