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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第一章 七つの物語
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第一章 第十九話 月根の森

月根の森へ一歩足を踏み入れただけで、世界の音が変わった。ラークホロウから続く草地では、朝風が何にも遮られず頬へ触れ、遠くの家畜や鳥の声まで聞こえていたのに、巨大な樹木が幾重にも並ぶ森の内側では、風は枝葉へぶつかって細かく砕け、頭上を覆う濃い樹冠が外の音を遠ざけている。代わりに、濡れた葉から水滴が落ちる音、樹皮の陰で小さな虫が動く微かな気配、どこか遠くから響く鳥の短い鳴き声まで、先ほどより鮮明に耳へ届いた。


 空気にも明らかな違いがあった。湿った土と苔、濡れた木、朽ち始めた葉の匂いへ、微かな花の甘さと、どこからともなく流れてくる冷たい水の気配が混じっている。森の外より気温も少し低く感じられ、朝露を含んだ草が革靴の側面へ触れるたび、小さな水滴を残していった。アレンは思わず足を止め、頭上を見上げる。月根の森の木々は、ラークホロウ周辺に生える普通の樹木より遥かに大きく、数人で腕を回しても囲み切れそうにない幹も珍しくない。太い根の一部は地面から盛り上がって膝ほどの高さまで隆起し、灰褐色の樹皮には深い裂け目が走り、その隙間へ濃い緑の苔や小さな白い菌類が根づいている。遥か頭上では枝同士が絡み合うほど伸び、朝の光は無数の葉へ遮られながら、ところどころ細い柱のようになって森の床へ落ちていた。


「止まらない」


 少し前を歩いていたエララが、小声で言った。


「見てただけ」


「見るのはいいけれど、森の入口でずっと上だけ見ていたら足元に負けるわよ」


 言われて視線を下げた瞬間、アレンは目の前を横切る太い根へようやく気づき、慌てて足を止めた。


「……危なかった」


「もう負けかけてる」


「まだ転んでない」


「転んでから気づくよりいいでしょう?」


 根を跨いだアレンは、それからエララの歩き方を真似し始めた。森では落ち葉の下へ石や枝が隠れ、濡れた根は不用意に踏めば滑る。何でもない土に見えた場所が柔らかく沈むこともあれば、苔に覆われた穴へ足を取られそうになることもある。だからといって足元だけを見続ければ、今度は枝へ顔をぶつける。前ばかり見れば地面が疎かになる。その両方を気にしながら、さらに左右や頭上にも意識を向けるエララの歩き方は、簡単そうに見えて真似すると難しかった。


「目、四つ欲しい」


「耳と鼻も使えば少し楽よ」


「匂い?」


「獣の匂い、花、腐ったもの、水、煙。全部を嗅ぎ分ける必要はないけれど、姿を見るより先に何かの存在へ気づくこともあるわ。耳も同じ。鳴き声だけじゃなく、枝が折れる音、草を踏む音、羽ばたき。それから、それまで聞こえていた音が急になくなることも覚えておいて」


「なくなる?」


「小さな動物や鳥が危険に気づけば、鳴くのを止めたり隠れたりすることがあるでしょう?」


 アレンは周囲へ耳を澄ませた。今は複数の鳥が鳴き、遠くでは別の種類らしい声が重なっている。頭上の枝葉からは、小さな羽ばたきも聞こえていた。


「今は鳥鳴いてるから大丈夫?」


「鳥が鳴いているから絶対に安全、なんて意味ではないわよ」


「また絶対じゃない」


「森の中で何でも絶対だと思う方が危ないもの」


 そのとき頭上で葉が大きく揺れ、灰茶色の小動物が一本の枝から飛び出した。身体は栗鼠によく似ているが、前脚と後脚のあいだには薄い膜があり、尾は普通の栗鼠より平たく広い。小動物は四肢を広げ、木から木へ十数歩分ほどの距離を滑るように移動すると、反対側の幹へ器用に取りついた。


「飛んだ」


「帆尾栗鼠ね。飛ぶというより滑空しているの」


「食べられる?」


「最初にそれを聞くの?」


「今日狩りだから」


「食べられなくはないけれど、小さいし、今あなたが矢を使う相手ではないわね」


「じゃあ見送る」


「最初から狙ってないでしょう?」


 エララは呆れたように言いながらも、僅かに笑った。


 二人がさらに奥へ進むと、森の緑にも無数の違いがあることが見えてきた。地面近くには暗い青緑色の苔が広がり、岩陰からは細長い赤紫色の葉を持つ草が伸びている。倒木の根元には淡い青色の茸がいくつも生え、その傘の内側から、ごく薄い光が滲んでいた。興味を引かれたアレンがしゃがみ込み、手を伸ばしかけたところで、すぐにエララの声が飛ぶ。


「触らない」


 アレンは空中で手を止め、そのまま茸との距離を保った。


「毒?」


「月灯茸。食べるとお腹を壊すことがあるし、人によっては触れたところがしばらく痺れるわ」


「光ってるのに?」


「光っていることと安全なことは関係ないでしょう?」


「綺麗なのに」


「綺麗なものと安全なものも別よ」


 アレンは手を引き、少し離れた場所から茸を観察した。灰白色の傘の裏側だけが夜空を閉じ込めたような淡い青を帯び、朝の森では目立たないものの、夜になればもっと強く見えるのかもしれない。その先の岩の割れ目には、小さな炎を思わせる橙色の花も咲いていた。


「これ知ってる。火舌花」


「正解」


「軽い傷なら葉を潰して使う」


「よく覚えているわね。ただし似た植物もあるから、花の色だけで決めないこと」


 エララに促され、アレンは葉脈と茎の根元まで確かめた。よく似た別種には黒い斑点があり、傷へ塗れば逆に腫れることもあると教えられると、今度は色だけではなく葉や茎の形まで意識して覚えようとする。


 狩りへ来たはずなのに、まだ獲物の姿は一度も見ていない。それでもアレンは退屈しなかった。幼い頃にも月根の森の外側へ入ったことはあるし、古い祠を見つけた日にもこの森を歩いている。けれど、その頃の自分にとって木は木、草は草、鳥は鳥だった。今は同じ植物を見ても、名前や用途、好む場所、どんな生き物が利用するのかまで考える。一枚の緑にしか見えなかった景色が、知識を得るたび細かな意味へ分かれていくようだった。


 しばらくしてエララが片手を上げると、アレンもすぐに足を止めた。


「何?」


「自分で見て」


 エララが指した湿った土には、二つに割れた蹄跡が残っていた。森へ入る前に見たものより明らかに大きい。アレンはしゃがみ込み、形だけで答えを出さず、周囲へも視線を動かした。


「森角鹿だと思う」


「理由は?」


「蹄の形。それに、さっき外で見た跡より大きい。あと……少し離れたところにもある」


 近くには大きさの異なる跡がいくつか残っている。アレンは三頭ほどではないかと考えたが、同じ程度の大きさをした別個体がいる可能性もあると指摘され、すぐに言い直した。


「じゃあ、三頭以上かもしれない」


「そう考える方が自然ね」


 胸の奥が少し高鳴った。さらに跡を見ると、縁はほとんど崩れておらず、窪んだ部分の土は周囲より僅かに濃い。


「新しいと思う。朝露が落ちたあとについた?」


「可能性は高いわ」


「じゃあ近い?」


「今朝ここを通った可能性がある、まで」


「お母さん慎重すぎる」


「姿も見ていないのに『すぐそこにいる』と決める方が早すぎるわ」


 少し先では低木の葉が途中から不規則に欠けており、その周囲には鹿とは違う丸みのある蹄跡と、地面を鼻先で掘り返したような跡も残っていた。


「猪?」


「そうね」


「鹿の跡追ってても猪が出る?」


「獣道を一種類だけが使うとは限らないもの」


「熊も?」


「いる可能性はある」


「何でも可能性あるじゃん」


「だから周りを見るの」


 その直後、アレンの右足の下で細い枝が折れ、ぱきっ、と乾いた音が森へ響いた。エララが足を止めると、アレンもその場で固まり、自分の足元へ視線を落とした。


「……大きかった?」


「近くに獲物がいたなら、気づいてもおかしくないくらい」


「ごめん」


「謝るより、次は?」


 枯れ葉の下に細い枝が何本も隠れていることを確かめ、アレンは足を置く前に見ると答えた。ただし静かにしようとして不自然に大きく身体を動かせば、それも獲物へ気づかれる原因になる。そう教えられ、今度は足を高く上げすぎず、乾いた枝や石を避けながら、身体全体を大きく左右へ振らないよう歩き始めた。しばらくすると、自分でも足音が先ほどより小さくなったのが分かる。


「今の方がいい?」


「さっきよりね」


 褒められたのが嬉しくて振り返りかけ、アレンは途中で首を止めた。


「今、振り返ったら駄目?」


「私を見る理由があるならいいけれど、毎回褒められるたびに後ろを向くの?」


「……向かない」


 エララが声を殺して笑った。


 さらに森の奥へ進むと、苔に覆われた巨大な倒木が横たわっていた。いつ倒れたのか分からないほど古く、幹の一部は腐り、表面には茸や草が生えている。割れた樹皮の内側では小さな虫が動き、その隙間からは新しい若木まで伸びていた。


「死んでる木?」


「そうね。でも、よく見て」


 アレンは倒木の周囲へ視線を巡らせた。


「木、死んだのにいっぱい生きてる」


「虫や菌が分解して、少しずつ土へ戻すの。その途中では、ほかの生き物の住処にもなるわ」


「死んだら終わりじゃない?」


「少なくとも森では、死んだものが何にも使われず消えることは少ないわね」


 森へ入る前に聞いた話を思い出し、アレンは少し考えた。


「獲物も?」


「そう。人が何もしなくても、死んだものはいずれ別の生き物に食べられ、森へ戻っていく。でも、自分たちが食べるために命を奪うなら、できるだけ無駄にしない。それも責任よ」


 アレンは倒木をもう一度見つめてから、エララとともに先へ進んだ。


 足跡、葉の食べられ方、木へ残された擦れ、落ちた枝、鳴き声、風向き、空気へ混じる匂い。森へ入る前は、木々の間を歩き回り、獲物そのものを探せばいいのだと思っていた。しかし実際には、姿を見るずっと前から、そこに何かがいた証拠はいくつも残されている。


「お母さん」


「何?」


「森って、字がない本みたい」


 エララの歩みが僅かに緩んだ。


「本?」


「うん。普通に見たら木と草しかないけど、読めたら何がいたとか、どこへ行ったとか分かる。僕はまだほとんど読めないけど」


 エララは微笑んだ。


「いい考え方ね。ただし、本と違って森は途中で書き換わるわ」


「雨とか?」


「雨、風、動物、人。昨日あった痕跡が今日には消えることもあるし、新しいものが増えることもある。読めたと思ったものが、実はまったく違う意味だったことだってあるわ」


「難しい本」


「だから面白いんじゃない?」


 アレンは少し考えてから笑った。


「うん」


 それからしばらく、二人はほとんど話さずに進んだ。意識して周囲を見るようになると、アレン自身にも気づけるものが少しずつ増えてくる。低木の上部だけ不自然に欠けた葉、細い枝へ絡んだ淡い茶色の毛、比較的新しい蹄跡。さらに少し先の木には、アレンの胸ほどの高さへ樹皮を擦ったような痕まで残っていた。


「森角鹿?」


「高さから考えると、その可能性は高いわね」


「成獣?」


「そうでしょう」


 その言葉を聞いた瞬間、アレンの心臓が少し速くなった。先ほど見た複数の蹄跡を思い出しながら風向きを確かめる。北西からの風はまだ続き、足跡はおおよそ北東へ伸びていた。


「僕たち、今は風下?」


「今のところはね」


「じゃあ匂い届かない?」


「風が大きく変わらなければ」


 知らず知らず、弓を握る手へ力が入っていた。


「まだ矢出さない?」


「姿も見えていないでしょう?」


 必要になったときすぐ抜けるようにと矢筒へ伸ばしかけた手を、アレンは素直に戻した。そこからは歩く速度をさらに落とし、乾いた枝や厚い落ち葉を避けながら、湿った土へ静かに足を置いて進んでいく。鳥の声、小さな羽音、遠くの水音、自分自身の呼吸まで意識すると、隣を歩くエララの足音が自分より遥かに小さいことにも改めて気づいた。


 やがてアレン自身が片手を上げると、エララもすぐに足を止めた。


「何かある」


 声を潜め、少し先の低木を指した。葉が一枚、途中から千切られている。切れ口はまだ乾ききっておらず、その真下の土には形の崩れていない蹄跡が残り、近くの細い枝には一本の毛まで絡んでいた。


「近いと思う。葉がまだ乾いてないし、足跡も新しい。毛は……古いかどうか分かんないけど」


「いいわ」


「近い?」


「さっきより、そう考える材料は増えたわね」


「また慎重」


「その慎重さを覚えるためにも来たのよ」


 アレンが苦笑した、そのときだった。前方で低く葉が擦れ、二人はほとんど同時に動きを止めた。先ほどの帆尾栗鼠のような小さな生き物とは違う。ある程度の大きさを持つ何かが、低木の向こうを移動したような音だった。


 アレンの胸が強く鳴る。エララを見ると、母は何も言わず、ただ音のした方向へ意識を向けていた。その沈黙の意味は分かる。自分で考えろということだ。アレンは矢筒へ伸ばしかけた手を途中で止め、まず風向きと周囲の様子を確かめた。まだ姿すら見ていない。音だけで探している森角鹿だと決めつけてはいけない。


 もう一度、がさり、と葉が擦れた。今度は少し右側だった。何かが移動しているらしい。鳥の声はまだ聞こえていたが、それを安全の証拠にしようとした自分をすぐに止める。先ほどエララから、鳥が鳴いているからといって絶対に安全なわけではないと教えられたばかりだ。自分に都合のいい答えを先に作れば、そのあとに見るものまで歪んでしまう。


 やがて葉の音が途絶れ、数秒の沈黙を挟んで、森の日常の気配が少しずつ戻り始めた。アレンが矢筒から手を離そうとした、その瞬間、さらに奥で低く鈍い音が響いた。太めの枝が踏み折られたような音で、先ほど葉の向こうを移動していたものより明らかに重い。アレンが顔を上げて隣を見ると、エララの表情からも、それまで残っていた柔らかさが消えていた。


「鹿?」


 声を殺して尋ねた。


 エララはすぐには答えず、音のした方角を見つめ続けた。


 森角鹿らしい蹄跡は確かに前方へ続いている。少し前には新しい食べ跡もあり、この辺りを鹿が通った可能性は高い。だが、それと今聞こえた重い音が同じ生き物によるものだと決めつける理由はなかった。アレンは再び矢筒へ近づきかけた手を止め、まず周囲へ目を配った。


「行く?」


 小さく尋ねると、エララは一度周囲を見渡し、風を確かめるように顔を僅かに上げてから頷いた。


「ゆっくり」


 二人は痕跡を追い、さらに月根の森の奥へ進み始めた。アレンはまだ、森という「字のない本」をほんの少し読めるようになったにすぎない。蹄跡を見分け、食べられた葉を見つけ、枝へ残された一本の毛から、そこに何かがいたことを想像できるようになっただけだ。そして、その森に痕跡を残すものが獲物だけではないことを、彼はまだ知らなかった。


 森角鹿の行方を追うその先で、別の何かもまた木々のあいだを進んでいる。狩るために森へ入ったからといって、最後まで自分が狩る側でいられるとは限らない。その意味を、十二歳のアレンはまだ知らなかった。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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