第一章 第二十話 狩る者と狩られる者
太い枝が折れたような鈍い音が、月根の森のさらに奥から響いた。アレンは矢筒へ伸ばしかけた手を止め、その方角を見つめる。少し前まで聞こえていたのは、低木の向こうを何かが移動する程度の軽い物音だった。しかし今の音には、乾いた枝をまとめて踏み潰したような重さがあり、帆尾栗鼠のような小動物が立てたものとは考えにくい。
「行く?」
囁くように尋ねると、エララは音のした奥だけでなく、左右の木々や地面、頭上の枝葉までゆっくり確かめた。鳥の声はまだ聞こえているものの、森へ入った頃より少なく感じられる。それが環境の変化なのか、何かへの警戒なのか、アレンには判断できなかった。
「ゆっくり進みましょう」
「矢は?」
「まだ。大きな音がしたからといって、こちらへ襲いかかってくるとは限らないわ。それに、私たちが追っているのは森角鹿でしょう?」
アレンは頷き、地面へ視線を戻した。大小の蹄跡はまだ前方へ続き、近くには新しく食べられた低木や枝へ残された淡い茶色の毛もある。二人は速度を落として進み始め、アレンも足元だけに集中せず、鳥の声、風向き、木々の間に動く影へ順番に注意を向けた。森へ入ってから何度も教えられた「一つだけを見て全部を決めない」という考え方が、少しずつ身体へ馴染み始めていた。
やがてアレンの方が足を止めた。
「お母さん。跡、変じゃない?」
それまで一つの方向へまとまっていた森角鹿の蹄跡が、そこから急に乱れていた。左右へ大きく散らばり、深く沈んだものや、土の表面を長く削ったものまである。落ち葉は蹴り飛ばされ、細い草も倒れていた。
「どう見える?」
「走ったと思う。足跡が深いし、間も広い。それに……群れが散ってる」
「そう見えるわね」
「何で?」
答えを求める前に、アレンは周囲を見た。折れた低木、踏み潰された葉、抉られた湿った土。その一角に、これまで見たものとは明らかに違う足跡が残っている。
「これ……」
手前で腰を落とし、右手を広げて大きさを比べる。中央には幅広い肉球のような窪みがあり、その前へ四本の指の跡が伸び、さらに先には爪が深く食い込んだ痕まであった。アレンの手より大きい。
「狼?」
「普通の灰狼ではないわ。大きさも、足の形も違う」
「熊?」
「熊とも違うわね」
「じゃあ何?」
「今は分からない」
これまでにも何度も聞いた答えだったが、今度は意味が違った。植物なら触らずに離れればいい。鹿の痕跡を読み違えたなら、獲物を見つけられず帰るだけかもしれない。しかし、この足跡の主が何なのか分からないということは、どれほど危険なのかも分からないということだった。
「これが鹿を追った?」
「可能性は高いわ。ここまでまとまって歩いていた鹿が急に走り始めて、その場所からこの足跡も現れている」
「まだ近くにいる?」
「分からない。だから、向きだけ確認して深追いはしない」
二人は痕跡を踏まないよう回り込みながら先へ進んだ。巨大な足跡は森角鹿と同じ方向へ続き、蹄跡より遥かに歩幅が長い。アレンが再び矢筒へ手をやると、エララが静かに止めた。
「あなたの矢で確実に止められる相手かどうかも分からないでしょう?」
「当てても?」
「どんな身体なのかも分からない。警戒することと、すぐ武器を向けることは同じではないわ」
アレンは手を離した。その少し先で、今度はエララが足を止める。アレンにも理由はすぐ分かった。湿った土と植物の匂いに満ちた森の空気へ、それまでなかった鉄のような臭いが混じっている。
「……血?」
「そうね」
低木の葉には赤黒い液体が数滴つき、その先の地面にも同じ跡が続いていた。進むほど血の量は増え、途中では木の幹へ赤い擦れが残り、蹄が滑ったような痕まで見える。
「怪我した鹿が逃げた?」
「その可能性が高いわ」
「僕たちが追ってた鹿?」
「群れの一頭かもしれない」
その答えを聞き、アレンの胸へ妙な感覚が広がった。何も起きていなければ、自分が今頃その鹿へ矢を向けていたかもしれない。食べるために命を奪う覚悟もしていた。それなのに、別の何かに襲われたと知った途端、助けたいような気持ちが生まれている。
「鹿、助ける?」
「見つけて、生きていて、助けられる状態なら考えるわ」
「僕たち狩りに来たのに?」
「狩るつもりだったからといって、傷ついたものを見つけたら必ず殺さなければならないわけではないでしょう?」
アレンが小さく頷いた直後、視線が茂みの向こうへ吸い寄せられた。血の量が急に増え、その先に大きな茶褐色の脚と蹄が横たわっている。
「お母さん」
「見えてるわ」
二人はすぐには近づかなかった。エララは頭上、左右、背後、風向きを確かめ、何もないことを確認してから慎重に進む。
「私より前へ出ないで」
「うん」
十歩ほど近づいたところで、死骸の全体が見えた。立派な枝角を持つ大きな雄の森角鹿だった。立っていれば肩の高さはアレンの胸を越えていただろう。しかし首は不自然な方向へ曲がり、胴体には深い傷が何本も走り、腹部の一部は大きく裂けている。血は濡れた落ち葉へ染み込み、森の床を暗い赤へ変えていた。
アレンは言葉を失った。家畜が解体されたあとの肉も、村へ持ち帰られた狩猟獣も見たことはある。けれどこれは違う。少し前まで森を走っていたかもしれない生き物が、逃げ、抵抗し、血を流した痕跡ごと目の前へ残されている。
「近づかないで」
「死んでるよね?」
「死んでる。でも、これを殺したものが戻ってくるかもしれない」
死骸から距離を取りながら周囲を調べると、泥の上には先ほどと同じ巨大な足跡が何個も残されていた。鹿の周囲を歩き回った跡があり、深く沈んだものもある。
「これ、あの足跡のやつ?」
「おそらくね」
エララは鹿の脚と周囲の地面へ視線を移した。後脚にも前脚にも擦れや傷があり、近くには激しく土を蹴った痕跡や折れた枝が散らばっている。
「戦った?」
「抵抗したみたいね」
片側の枝角の先端には、鹿自身の血とは違って見える黒っぽい液体が付着していた。
「相手に刺した?」
「可能性はあるわ」
「じゃあ相手も怪我してる?」
「しているかもしれない。でも、この大きさの森角鹿を殺せる相手よ。怪我をしているから弱いとは決めつけないこと」
植物や足跡を教えていたときとは違う、硬い声音だった。エララが恐怖で動けなくなっているわけではない。それでも、普段の余裕がほとんど消えていることはアレンにも分かった。
「悪い魔物なのかな」
口にした直後、自分の言葉に引っかかり、アレンは死んだ鹿を見た。
「……僕たちも、この鹿を狩ろうとしてた」
「そうね」
「食べるために。こいつも食べるために殺したなら、悪いって言うの変?」
エララの表情が僅かに柔らかくなる。
「いいところに気づいたわね。自然の獣が生きるために狩ったなら、それを善悪だけで考える意味はあまりない。でも、魔物の中には必要以上に殺すものや、人を積極的に襲うものもいる。だから、この相手についてはまだ何も決められないわ」
「分からないんだ」
「ええ」
今度は、その言葉を嫌だとは思わなかった。分からないのなら、分からないことを前提に判断しなければならない。
「鹿、持って帰れない?」
「駄目。これを倒したものが戻るかもしれないし、何に襲われたか分からない以上、傷口に毒や病気の危険がないとも言えない」
「もったいない」
「そう思っても、安全を捨てる必要はないわ。ここから離れる」
「今日の狩りは?」
「終わり」
「まだ他の鹿いるよ?」
「いるでしょう。でも私たちは、正体の分からない大型の捕食者がこの周辺にいると知った。しかも、この死体は新しい」
アレンは改めて血の濡れた落ち葉を見る。
「さっきの音……」
「同じものかもしれないわね」
その一言だけで、森の奥から響いた重い音が別の意味を持った。二人は来た道をそのまま戻らず、南寄りへ距離を取りながら森の外へ向かうことにした。
「村はどっち?」
こんな状況でも問われ、アレンは風向きとここまで歩いた方向を思い返した。
「南西……くらい?」
「いいわ。でも今日は私の後ろを歩いて」
正解したことを喜ぶ余裕はなく、二人は静かに進み始めた。今度は獲物へ気づかれないためではなく、自分たちの存在を正体の分からないものへ知られないために足音を抑えている。その違いを意識した途端、湿った土や落ち葉を踏む音が妙に大きく感じられた。
背中には十一本の矢がある。森へ入ったときは十分すぎるように思えたのに、今は相手が何なのか、自分の矢が通じるのか、何本当てれば止められるのかさえ分からない。
「もし出てきたら、戦う?」
「今は絶対に戦わない」
「狩りに来たのに」
「狩りは、自分より危険なものへ何でも挑むことじゃないでしょう? 今日一番大事なのは?」
アレンは少し考えてから答えた。
「安全に帰る」
「そう」
その直後、右手側の森で、ばきっ、と太い枝が折れた。今度は近い。エララが瞬時に片手を上げ、アレンも動きを止める。濃い葉と木の幹、その間へ重なる影を凝視するが、何も見えない。やがて落ち葉の擦れる音がゆっくり右手から離れ、最後に低木が一度揺れたあと消えた。
エララはしばらく待ってから、小さく言った。
「行くわよ」
「どこ行った?」
「分からない。だから留まらない」
二人がさらに進むと、湿った土へ新しい巨大な足跡が残されていた。鹿の死骸の近くで見たものと同じ形だが、向きは違い、二人の進路を横切るように北東から南へ抜けている。縁では踏み固められた土がまだ僅かに崩れていた。
「近くにいたんだ……」
「そういうことになるわ」
「追う?」
尋ねた直後、アレン自身が首を横へ振った。
「……追わない」
「どうして?」
「危ないし、何か分からない。それに、あれを倒すために森へ来たんじゃない」
「そう」
好奇心が消えたわけではない。それでも森角鹿の死骸を見たあとでは、姿を見たいという理由だけで追う気にはなれなかった。
足跡から離れて森の外縁を目指すうちに、アレンの呼吸も少しずつ落ち着いていった。鳥の声が戻り、木漏れ日の中を透玻蝶が静かに横切っていく。月灯茸も、火舌花も、帆尾栗鼠も、巨大な倒木も、朝と何一つ変わらずそこにある。その同じ森の中を、自分の手より大きな足跡を残し、成獣の森角鹿を倒せる何かも歩いている。
森は綺麗なだけの場所ではない。だからといって、恐ろしいものしかない場所でもなかった。穏やかなものも、美しいものも、食べるものも、食べられるものも、同じ場所で生きている。
木々の密度が薄くなり、樹冠の隙間から差し込む光が増え始めた頃、アレンはようやく肩の力を少し抜いた。
「お母さん」
「何?」
「今日の狩り、失敗?」
「どうして?」
「何も狩ってない。矢も一本も使ってないし、途中で帰ってる」
エララは歩みを緩め、アレンを振り返った。
「今日、何を見つけた?」
「森角鹿の跡。群れが逃げた跡。大きい足跡と血。それから、死んだ鹿」
「それを見て、どうした?」
「危ないと思って離れた」
「どうして足跡を追わなかった?」
「何か分からないし、僕の矢で止められるかも分からない。それに、あれを狩るために来たんじゃないから」
「なら、狩りに必要な判断をいくつもしたでしょう。獲物を持ち帰れない日も、狙える動物に会えない日も、危険を見つけて早く帰る日もある。それを全部失敗だと思って無理をしたら、いつか本当に帰れなくなるわ」
アレンはしばらくその言葉を考えてから、少し首を傾げた。
「帰れたら成功?」
「ただ歩いて、たまたま無事だっただけなら違う。でも危険を見て、目的と比べて、進む必要がないと判断して撤退したなら、それは間違った狩りじゃない」
「肉はないけど」
「今夜は家に肉があるわ」
「ずるい。それ言われたら何も言えない」
エララは小さく笑い、そのまま前へ向き直った。
「また機会はあるでしょう?」
「また来る?」
「もちろん。今日一日で全部覚えられたと思っていたの?」
「思ってない」
「なら、次があるわ」
やがて巨大な木々の間隔が広がり、その向こうに草地の明るい色が見えた。森の外縁まで来たところで、アレンは一度だけ後ろを振り返る。
朝、自分は弓を持ち、背中には十一本の矢があるから、自分が狩る側なのだと思っていた。だが森角鹿は植物を食べ、自分たちはその鹿を食べるために追い、さらに自分たちより遥かに大きな何かも同じ鹿を獲物としていた。もし次にその何かがこちらを狙えば、弓を持っているだけで狩る側に留まれる保証などない。
狩る者と、狩られる者。その境目は、アレンが思っていたほど遠く離れてはいなかった。
アレンは森へ背を向け、エララの後を追った。矢筒には、朝と同じ十一本の矢が残っている。一本も失わず、一本も放っていない。それなのに、その重さだけは森へ入る前とはまるで違って感じられた。
やがて二人は木陰を抜け、月根の森と草地の境目へ出た。朝より高く昇った陽光が開けた土地へ広がり、湿った樹木とは違う草の匂いが風へ混じっている。背後にはまだ森があり、その奥には名前さえ知らない捕食者がいる。
それでも今のアレンは、あの足跡の主を一度も目にすることなく森を出られたことを、心から幸運だと思っていた。
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