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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第一章 七つの物語
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第一章 第二十一話 白い角

月根の森を抜けたあともしばらく、アレンは背後から聞こえてくる音を気にしていた。木々の密度が薄れ、開けた草地へ出ただけで周囲の空気は驚くほど変わっている。森の内部を覆っていた枝葉はなくなり、昼へ近づく陽光が草の一本一本まで照らし、湿った樹皮や腐葉土の匂いに代わって、温められ始めた草と野花の香りが風へ混じっていた。それでも肩から緊張は抜けきらない。背中には朝から一本も減っていない十一本の矢があり、その向こうには成獣の森角鹿を殺した正体不明の捕食者が潜む森が広がっている。


「お母さん。もう大丈夫?」


 前を歩いていたエララは一度だけ森を振り返った。


「少なくとも、さっきよりはね」


「絶対じゃない?」


「今日はその言葉を気に入ったの?」


「お母さんが全然言わないから」


「分からないことに絶対なんて言えないでしょう?」


 アレンは小さく息を吐いた。それでも森の中よりは遥かに気が楽だった。視界が開け、何かが近づけば木々の間より早く気づける。


「このまま村へ帰る?」


「そうしましょう。今日は狩りを再開しないわ」


「分かってる。大きい足跡も追わなかったし」


「成長したわね」


「十二歳だから」


「十二歳は何でもできる年齢なの?」


「八歳よりはできる」


「それはそうね」


 少し得意になったアレンが胸を張りかけた、そのときだった。風の中へ、ごく弱い鳴き声が混じった。遠くの鳥かと思うほど細く、掠れ、どこか苦しげな声だった。


「お母さん」


「聞こえたわ」


 もう一度、草地の端に茂る低木の向こうから鳴き声がする。動物らしいが、元気な声ではない。アレンは反射的に弓を持ち直しかけたものの、エララに止められた。


「走って近づかない」


「怪我してるかもしれない」


「そうかもしれない。でも、弱った声に聞こえるから安全だとは限らないでしょう?」


 森で繰り返し教えられた言葉を思い出し、アレンは周囲を確認した。草地に大型の動物は見えず、森との間にもまだ距離がある。風は森側から草地へ流れ、血の匂いも感じられない。鳥も鳴き、小さな虫が草の間を飛んでいた。


「周りを見る」


「そう。それから近づく」


 二人はエララを先頭に、低木へ向かって慎重に歩いた。距離が縮まるにつれ、鳴き声には馬のいななきに似た響きがあることが分かった。しかし、もっと高く澄んだ音の名残もあり、傷の痛みに擦れているように聞こえる。十歩ほど手前まで来たところで、アレンは葉の隙間に白いものを見つけた。


「いる」


「見えてるわ」


 二人が少し横へ回ると、茂みに半ば隠れていた銀白色の身体が姿を現した。


「……ユニコーン」


 低い草の上へ横たわっていたのは、一頭の白い獣だった。馬によく似た体つきだが、ラークホロウの農耕馬より遥かに細身で、四肢も長く優美だった。毛並みは陽光を受けるたび薄い銀色を返し、長い鬣には淡い青や紫が混じっている。額から伸びる一本の角には螺旋状の溝が走り、根元の象牙色から先端へ向かうほど半透明になって、光の加減で僅かな虹色を帯びていた。絵や旅人の話では知っていたものの、本物を見るのはこれが初めてだった。


「本当にいる……」


「いるわよ」


「お母さん、見たことある?」


 ほんの僅かに間を置いたエララは、白い獣から視線を外さないまま答えた。


「話は知っているわ」


「見たことは?」


「今はこの子の方が先よ」


 また答えを外された気がしたが、アレンは追及しなかった。白い獣は二人に気づき、頭を持ち上げようとしたものの、途中で力を失って草へ戻す。その動きで、美しい毛並みを汚す赤い血と、右の脇腹から後脚の付け根へかけて斜めに走る三本の深い傷が見えた。


「……鹿と同じ?」


「似ているわね」


 巨大な爪で横から薙がれたような傷だった。森角鹿ほど深くはないものの、軽傷とは到底言えない。


「さっきのやつかな」


「同じものに襲われた可能性はある。でも、まだ決めつけない」


 アレンは月根の森を振り返った。広い草地の向こうで、木々は静かに並んでいる。何も動いていない。それでも、先ほどより森が近く感じられた。


「助ける?」


「まず、助けられる状態か確認するわ」


 エララは腰の刃物にも触れず、両手を見せたままゆっくりユニコーンへ近づいた。アレンも弓を下げ、少し後ろからついていく。白い獣は前脚へ力を入れて逃げようとしたが、立ち上がれず、傷ついた右側を震わせた。それを見たエララはすぐに足を止め、静かな声で呼びかける。


「大丈夫。傷を見たいだけよ。無理に触らない」


 言葉そのものが通じているかは分からない。それでもユニコーンの耳が動き、荒かった呼吸が僅かに遅くなった。黒に近い大きな瞳が、じっとエララを見つめている。


 そのときアレンは、周囲の風が僅かに変わったことへ気づいた。少し離れた草は今も揺れているのに、二人とユニコーンを囲む狭い範囲だけが不自然なほど穏やかになっている。エララの長い髪も僅かに持ち上がっただけで、静かに肩へ戻った。


「お母さん」


「今は静かに」


 エララがもう一歩近づくと、ユニコーンの鼻が動いた。匂いを確かめるように何度か息を吸った直後、その大きな瞳が明らかに見開かれる。警戒ではない。驚いたようにエララを凝視し、再び強く匂いを嗅いでいた。その反応を見つめるエララの顔にも、普段ならほとんど見せない戸惑いが僅かに浮かぶ。


「どうしたの?」


「……分からないわ」


 白い獣は逃げる代わりに前脚を折り、すでに低くしていた頭をさらに下げた。長い角が草へ触れそうなほど額を伏せる姿は、アレンにはまるで誰かへ頭を垂れているように見えた。


「……知り合い?」


「違うわ」


「でも今、お辞儀した」


「そう見えただけでしょう?」


「ユニコーンってみんなするの?」


「そんなこと私に聞かれても分からないわよ」


 そう返しながらも、エララは白い獣から視線を外さなかった。ユニコーンもまた、彼女だけを長く見つめている。その眼差しには警戒より、驚きと奇妙な懐かしさに似たものが宿っているように見えた。


「本当に初めて?」


「この子とは初めてよ」


 アレンは、その言葉を心の中で一度だけ繰り返した。――この子とは。ユニコーンという生き物そのものを初めて見た、とは言っていない。けれど今は、それ以上聞かなかった。


「傷見る?」


「ええ」


 エララは鼻先へ手の甲を差し出し、匂いを嗅がせてから、初めてそっと鼻筋へ触れた。ユニコーンが逃げないことを確認すると負傷した右側へ回り、三本の爪痕を調べる。中央の一本が最も深く、まだ僅かに血が滲んでいた。


「骨は?」


「今見える範囲じゃ分からない。立てないのも、痛みや筋の傷が原因かもしれないわ」


「治癒魔法は?」


「まず傷を洗う」


 九歳の頃、自分が腕を切ったときと同じだった。魔法で塞ぐ前に、傷そのものを正しく扱う。アレンはすぐ荷物を下ろし、水袋から少量の水で清潔な布を濡らした。


 エララが血と土を拭い始めると、ユニコーンは何度か身体を震わせたものの、噛みつくことも角を向けることもなかった。


「いい子ね」


 白い耳が小さく動く。


「僕も触っていい?」


「鼻先から。急に頭や角へ手を伸ばさないで」


 アレンは弓を地面へ置き、両手を見せながらしゃがんだ。エララと同じように手の甲を差し出すと、白い鼻先が近づき、温かな息が指へ触れた。


「嗅いでる」


「そのまま」


 ユニコーンは手だけでなく、腕、肩、胸元へ鼻を動かした。やがて不意に動きを止め、アレンとエララを交互に見つめる。


「……何?」


 白い獣は傷ついた身体のまま首を伸ばした。エララが何かに気づいたように声を上げる。


「待って」


 だが、その前にユニコーンの額がアレンの胸へそっと触れた。長い角を横へ傾け、柔らかな額だけを押しつけている。


「僕、何かされてる?」


「……動かないで」


 エララの声音には、明らかな戸惑いがあった。ユニコーンは数秒間そのまま目を閉じている。怖がっているようには見えず、そこにある何かを確かめようとしているようだった。やがて顔を離し、再びエララを見る。その瞬間、母が見せた一瞬の驚きを、アレンは見逃さなかった。


「お母さん。今の何?」


「分からないわ」


「本当に?」


「本当に」


「全部?」


 エララは僅かに言葉を選ぶような間を置いてから答えた。


「全部は分からない」


 以前なら「何でもない」と流されていたかもしれない。けれど今は違う。アレンは母を見つめたまま言った。


「じゃあ、分かってるところだけ教えて」


「この子があなたを怖がっていないこと。それから、私たちに敵意がないこと。今、確実に言えるのはそれだけ」


 不満がないわけではない。それでも、分からないことを分かったふりで答えないのも、母から教えられてきたことだった。


「傷治そう」


「そうね」


 二人は治療へ戻った。エララが取り出したのは、細長い葉の内側へ黄色い繊維を持つ黄糸草だった。


「使い方、覚えてる?」


「汚れてないか見て、それから潰す」


「正解」


 アレンは葉を確認して軽く洗い、平らな石の上で繊維を残すよう慎重に潰した。滲んだ粘り気のある液をエララが傷へ塗り、最も深い場所には清潔な布を当てる。二人で胴へ布を回し、寝たとき結び目が当たらない位置へずらして固定した。


「立てるかな」


「少し休ませてからね」


「村に連れて帰れる?」


「歩けるなら考える。でも、この子が人の村へ行きたいかどうかは別でしょう?」


「来てくれないかもしれない?」


「この子が決めることよ」


 その言葉に、アレンは何となくエイラヴェルの物語を思い出した。愛や平和は、誰かへ強制するものではない。選ぶ自由がなければ意味を失う。何気なく母を見ると、エララは巻いた布を確認しているだけだった。


「何?」


「何でもない」


「今度はあなた?」


「ちょっと考えてただけ」


 しばらく休むとユニコーンの呼吸も落ち着き、アレンが鼻筋へ触れても警戒しなくなった。浅い窪みのある石へ注いだ水を白い獣がゆっくり舐めるのを見ながら、アレンはその柔らかな毛を撫でた。


「綺麗だな。お前、名前ある?」


「野生の動物に名前を聞いてどうするの?」


「あるかもしれないじゃん」


「誰がつけるの?」


「ユニコーン同士」


「人間の言葉で?」


「分かんない」


 エララが小さく笑い、その表情を見たアレンは何がおかしいのか分からないまま白い獣へ向き直った。


「僕はアレン」


 アレンは自分の胸を指し、次に母を示した。


「アレン。エララ」


 エララの名を口にした瞬間、ユニコーンの耳が大きく動き、白い獣は再び彼女を凝視した。


「今、お母さんの名前に反応した」


「あなたのときも動いていたでしょう?」


「でも今の方が大きかった」


「気のせいよ」


「本当?」


「……たぶん」


「たぶんになった」


「細かい」


 アレンは笑ったが、ユニコーンはなおもエララを見つめていた。声だけではない何かを覚えているような眼差しだった。しかし、今問い続けても答えが出ないことも分かっている。


 十分に休ませたあと、エララはユニコーンの脚を確認した。


「少し立てるか試してみましょう。無理に持ち上げないでね」


「うん」


 二人が左右から支える位置へつくと、ユニコーンは前脚へ力を入れ、ゆっくり身体を持ち上げた。右側へ体重がかかった瞬間に大きく震えたものの、一度姿勢を整え直し、傷ついた脚を庇いながら四本の脚で立つことに成功する。


「立った」


「静かに。まだ無理はさせない」


 そのままもう少し休ませようとしたとき、エララが何気なく月根の森を振り返り、直後に表情を変えた。


「……お母さん?」


「静かに」


 アレンも気づいた。少し前まで草地では虫が鳴き、森の縁から鳥の声が聞こえていた。それが明らかに減っている。ユニコーンも耳を森へ向け、痛みを忘れたように全身を硬くして木々の境界を見つめ、その大きな瞳には明らかな恐怖を浮かべていた。エララはすぐにアレンの前へ一歩出る。先ほどまで傷ついた獣へ向けていた柔らかな雰囲気は消え、身体の向きまで明確に変わった。


「弓」


 短い声に、アレンは地面へ置いていた弓を拾った。


「一本だけ準備して。まだ引かない」


「うん」


 矢筒から一本抜き、弦へつがえる。残りは十本。まだ引き絞らず、森の境界へ視線を固定した。


「さっきのやつ?」


「分からない。でも、この子は何かを恐れている」


 ユニコーンが足を引きずりながら草地側へ一歩進むのを見て、アレンも弓を構えたまま僅かに後退した。


「逃げる?」


「ゆっくり下がる。走らない」


「ユニコーンは?」


「置いていかない」


 以前なら危険なときには誰かを置いて逃げる判断も必要だと教えられていた。アレンが視線を向けると、エララもその意味を察した。


「この子は今すぐ走れないし、私たちが治療した以上、できるところまではやる。でも、無理だと判断したらそのとき決めるわ」


 アレンは頷き、二人はユニコーンを庇うような位置へ移った。その瞬間、月根の森の縁で太い枝が折れた。森の中で聞いたものとよく似た、重い音だった。ユニコーンが短く鳴いて身体を震わせ、低木の葉が揺れる。その向こうを何かが移動しているのが分かったものの、姿はまだ見えない。


 アレンが弓を持ち上げると、すぐにエララの声が飛んだ。


「まだ引かない」


「でも――」


「姿を見てから」


 森角鹿の死骸と巨大な足跡を見た今なら、その慎重さの意味が分かる。正体も位置も分からないものへ、恐怖だけで矢を放ってはいけない。


 低木が再び揺れた。今度は少し左側だった。


「回ってる?」


 エララは答えず、木々の影を凝視している。ユニコーンだけが、その動きを怯えたように目で追っていた。


 やがて鳥の声も虫の羽音も途絶え、森が完全な静けさへ沈んだ。草地を渡る風が葉を擦る音だけが残り、アレンは自分の呼吸さえ大きく感じた。エララは片手を後ろへ伸ばして息子を庇う位置を取り、その視線を森から一度も外さない。


「私より前に出ないで。何かあったら、まずこの子と一緒に草地側へ」


「お母さんは?」


「今は聞かない」


 言い返したい気持ちを押し込み、アレンは森を見続けた。姿が見えないことが、かえって恐ろしい。姿さえ見えれば、少なくとも何を恐れているのかは分かる。今は、その何かがどこにいるのかさえ確信できない。


 長く感じられる数秒のあと、茂みの奥から低い唸り声が響いた。狼の遠吠えでも、熊の唸りでもない。喉の奥で石同士をゆっくり擦り合わせているような、低く濁った声だった。ユニコーンが怯えて一歩後ずさり、その動きとほとんど同時に、エララの目が鋭く細くなる。


 アレンは矢をつがえたまま暗い森を見つめる。ユニコーンの脇腹へ刻まれた三本の傷。森角鹿を引き裂いていた爪痕。湿った土に残っていた、自分の手より大きな足跡。そのすべてが、少しずつ同じ存在へ結びつき始めていた。


 まだ姿は見ていない。名前も知らない。それでも、森の向こうにいるものはもう、ただの想像ではなかった。


 茂みの奥から、もう一度低い唸り声が響く。


 今度は、先ほどより近かった。

ここまで読んでくださり、そして『セイクリッドボーン』を応援してくださって、本当にありがとうございます。

もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。

皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。

いつも本当にありがとうございます。これからも『セイクリッドボーン』をよろしくお願いいたします!

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