第一章 第二十二話 森の牙
茂みの奥から響いた二度目の低い唸り声は、先ほどより明らかに近かった。アレンは弦へつがえた矢をまだ引かないまま、月根の森の境界を凝視していた。陽光の届く草地から見れば、森の内部は一枚の暗い壁のように見える。太い幹も、低木も、幾重にも重なった葉も何も変わっていない。それなのに、どこかへ自分たち以外の意思が潜み、暗がりからこちらを見ていると思うだけで、木々のすべてが何かを隠すために並んでいるように感じられた。
ユニコーンが短く鳴いた。その声には、傷を洗われたときの痛みとは違う、はっきりとした恐怖が混じっている。
「息を止めないで」
アレンより半歩前に立つエララが、森から目を離さないまま言った。
「止めてない」
「浅くなってる。ゆっくり吸って、吐いて」
言われて初めて、アレンはほとんど胸だけで呼吸していたことに気づいた。鼻から息を吸い、ゆっくり吐く。恐怖が消えるわけではない。それでも、弓を握る指が震えていることを、自分で認識できる程度には落ち着きを取り戻した。
「怖い?」
「……怖い」
「それでいいわ。怖くないふりをして判断を間違えるより、ずっといい。震えていても足が動くなら動けるし、考えられるなら考えられる」
アレンは小さく頷き、傷ついたユニコーンへ目を向けた。白い獣は草地の奥へ進もうとしているが、右の後脚を引きずり、数歩動くだけでも呼吸が荒くなる。
「村まで走るのは無理だよね」
「ええ」
「僕たちだけなら?」
問いかけた直後、アレン自身がユニコーンを見た。エララもその視線を追い、静かに答える。
「今の段階では、この子を置いていかない」
森の奥で葉が擦れた。右側から聞こえたかと思えば、少し間を置いて左の低木が揺れる。姿を見せないまま、何かがこちらの動きに合わせて位置を変えている。
「回ってる?」
「その可能性が高いわ」
「僕たちを?」
「……たぶんね」
エララは背負っていた細身の長弓を外し、一本の矢を弦へつがえた。アレンの子供用狩猟弓より遥かに長く、細いにもかかわらず、張られた弦には見るだけでも強い張力が感じられる。
「お母さん、それ朝から持ってた?」
「持ってたでしょう?」
「見てなかった」
「今度から人の装備も見ることね」
こんな状況でも、いつもの教え方だった。そのことが、ほんの少しだけアレンを落ち着かせる。
「位置を変えるわ。森から離れて草地側へ。走らない」
「逃げるものを追う相手かもしれないから?」
「そう」
アレンの脳裏に、乱れた森角鹿の蹄跡と、深く抉られた土が浮かんだ。鹿は走り、そして追いつかれた。エララはユニコーンの左側へ回り、首の下へ片手を添える。
「アレンは前。傷ついた右側へ寄りすぎないで」
「うん」
アレンは矢をつがえた弓を保持したまま白い獣の斜め前へ移った。
「こっち」
ユニコーンは言葉の意味を理解しているかのようにアレンを見て、右脚を庇いながら一歩進む。さらに一歩。少しずつ森から離れていく。そのあいだも、森の中にいる何かは姿を見せなかったが、枝葉が揺れる位置だけは境界に沿ってこちらとほとんど同じ速度で移動していた。
「向こうからは僕たち見えてるのかな」
「見えていると思って動いて」
「僕からは見えないのに」
「だから相手の方が有利よ」
森の中で習ったことが、今になって違う意味を持ち始めていた。地形も風向きも視界も、朝までは森角鹿を見つけるために考えていた。今はそれらすべてを、自分たちが生き残るために考えている。
森から十数歩ほど離れたところで、ユニコーンが突然立ち止まった。全身を震わせ、耳を完全に森へ向け、一点だけを凝視している。
「どうした?」
アレンもその視線を辿った。一際太い木の根元、その脇に密集する低木の奥へ、黄色がかった白い光が二つ並んでいた。地面からそう高くない位置で微動だにせず浮かぶそれを見つめ、アレンは一瞬遅れて正体を理解した。
目だ。
「お母さん」
「見えてる」
二つの目が動き、暗がりからゆっくり前へ出てくる。最初に現れたのは長い鼻先だった。狼に似ている――そう思ったのも一瞬だけだった。頭だけでも異様なほど大きく、鼻先から額へ続く骨格は細長い。黒灰色の粗い毛が皮膚へ張りつくように生え、三角形の耳の片方は途中から裂けている。さらに一歩進むと、アレンの胸ほどの高さまである肩が現れ、やがてその全身が陽光の下へ晒された。
基本的な形だけなら狼に近い。しかし、普通の狼をそのまま巨大にしたものではなかった。頭から尻までの長さは小型の馬ほどあり、背中の粗い毛は棘のように逆立っている。前脚は後脚より不自然なほど長く、歩くたび巨大な肩甲骨が皮膚の下で隆起する。その脚の先には、森で見つけた足跡の主だと一目で分かる四本の黒い爪が伸びていた。
口角の裂け目は普通の獣より遥かに後ろまで続き、ほとんど耳の下へ届いている。白みがかった黄色の眼球には細い縦長の瞳孔があり、アレン、エララ、ユニコーンの順にゆっくり視線を移した。
「……あれ」
掠れた声を漏らしたアレンの隣で、エララが長弓を静かに持ち上げた。
「グルームモウ」
「知ってるの?」
「名前だけはね」
それ以上説明する余裕はなかった。グルームモウは前脚だけを草地へ出して立ち止まり、鼻を持ち上げて空気の匂いを嗅ぐ。最後にユニコーンへ視線を固定すると、ゆっくり口を開いた。
裂けた口の内側には、大小の細長い牙が一列ではなく幾重にも重なっている。その姿を見ただけで、森角鹿の引き裂かれた身体がアレンの脳裏へ蘇った。
「目を逸らさないで」
「怖い」
「分かってる」
「すごく怖い」
「それでも見て」
ユニコーンが怯えた声を上げた瞬間、グルームモウの視線が白い獣へ完全に固定された。
「狙ってる」
「ええ」
「傷つけたの、あいつ?」
「おそらく」
今度のエララは、単なる可能性として扱わなかった。グルームモウの左肩には新しい傷があり、毛を固める血は赤ではなく黒い。森角鹿の枝角へ付着していたものと同じ色だった。
「鹿が刺したやつ……」
「たぶんね」
巨大な足跡、森角鹿の死骸、その角についた黒い血、ユニコーンへ刻まれた三本の爪痕。それまで拾ってきた手掛かりが、ようやく目の前の一頭へ繋がった。それでも、名前を知ったからといって恐怖が薄れることはなかった。
グルームモウが一歩進むと、エララが僅かに弦を引く。獣はすぐ止まった。
「こっちを警戒してる?」
「そう見えるわ」
「じゃあ僕たちがいたら襲わない?」
「そうならいいけれど」
次の瞬間、グルームモウの身体が低く沈んだ。
「アレン。ユニコーンを草地の奥へ」
「走る?」
「まだ走らない。私は後ろを見る」
アレンは白い獣の鼻先へ回った。
「来て。ゆっくり」
自分自身が少しも大丈夫ではないのに、大丈夫だと言い聞かせるように声を掛ける。ユニコーンが一歩進んだ瞬間、グルームモウも動いた。ただし、真っ直ぐこちらへ来たのではない。森の境界へ沿うように右へ走り、巨体とは思えない速さで低木の裏へ消えた。
「右!」
「止まらないで!」
アレンはユニコーンをさらに草地側へ進ませた。しかし後ろから追ってくる気配がなく、思わず森へ目を向ける。
「逃げた?」
「違う。回り込んでる」
エララの言葉が終わるより早く、右手の背の高い草が激しく揺れた。黒灰色の巨体が草むらから一気に飛び出す。すでに森の中ではない。白みがかった黄色の目は、最初から傷ついたユニコーンだけを捉えていた。
「アレン、離れて!」
考えるより先に身体が動いた。アレンは弓を咄嗟に手放し、両手でユニコーンの首を全力で左へ押す。
「行け!」
白い獣が大きくよろめく。その直後、巨大な影がアレンの視界を埋めた。避けきれない。ユニコーンを押した反動のまま横へ倒れ込んだアレンの頭上を、グルームモウの長い前脚が薙いだ。爪が引き裂いたのは背後の若木だった。
ばきん、と乾いた音が響き、アレンの腕より遥かに太い幹が一撃で折れる。その破壊力を目の当たりにした瞬間、もし今の爪が自分へ当たっていたらという想像が、遅れて背筋を駆け上がった。
「アレン!」
「大丈夫!」
地面へ転がったまま返事をしたアレンの前で、グルームモウはすぐ身体を反転させた。大きさから想像できないほど速い。ユニコーンが逃げようとするが、傷ついた脚では距離を取れない。
グルームモウが再び踏み込んだ瞬間、一本の矢が飛んだ。エララの矢だった。獣は咄嗟に頭を振り、目への直撃を避けたが、矢尻は左の頬を深く裂き、黒い血が草の上へ飛び散る。
グルームモウが咆哮した。低い唸りが一瞬で高く割れ、怒りと痛みの入り混じった絶叫が草地へ響き渡る。
「黒い……」
「見てる場合じゃない!」
エララが二本目の矢をつがえる。アレンも起き上がり、手放した弓へ走った。その近くには、森の縁で唸り声を聞いたときから弦へつがえていた一本の矢も落ちている。転倒した拍子に外れたらしいが、軸は折れていなかった。
アレンは弓とその矢を拾い上げた。矢筒には、まだ十本残っている。
グルームモウがエララへ向き直った瞬間、二本目の矢が飛び、すでに黒い血で濡れていた左肩へ深く突き刺さった。それでも獣は倒れず、速度すらほとんど落ちなかった。
「止まらない!」
「分かってる!」
長い前脚が薙がれ、エララは身体を低く沈めて避けた。爪は外套の端だけを切り裂き、彼女はそのまま横へ転がって間を置かず立ち上がる。
「草地の奥!」
アレンはユニコーンへ走った。
「こっち!」
白い獣も必死に動く。一歩、二歩。だが三歩目で傷ついた右脚が崩れ、身体が大きく傾いた。アレンが肩を押し当てて支える。
「お母さん、走れない!」
戦いながら周囲を見回していたエララが、少し先に立つ一本の古木を見つけた。地面から複数の太い根が持ち上がり、その間に狭い空間ができている。
「あそこ! 根の間へ!」
三人は古木を目指した。ユニコーンを急がせれば傷が悪化する。だが遅ければ追いつかれる。アレンは白い獣の左前方を進みながら声を掛け続ける。
「もう少し。あとちょっと」
背後でエララの矢がもう一本飛んだが、今度はグルームモウが放たれる直前に横へ跳び、矢は草地を抜けて外れた。
「避けた?」
偶然には見えなかった。弓を向けられると進路を変え、矢が放たれる瞬間に大きく身体をずらしている。
「見て学んでる……?」
「考えるのはあと!」
ようやく古木へ辿り着くと、エララが持ち上がった根の間を示した。
「ユニコーンを中へ。アレンも一緒に入りなさい」
「お母さんは?」
「外で――」
「嫌だ」
アレンは即座に拒んだ。
「アレン」
「三人とも入れないの?」
「私まで入ったら、正面から来られたとき逃げ道がなくなる」
「じゃあ僕も外」
「駄目」
「お母さん一人より二人の方がいい」
「十二歳のあなたを戦わせるために連れてきたんじゃない!」
いつもより明らかに強い声に、アレンは一瞬怯んだ。それでも退かなかった。
「でも、もう狩りじゃない。今は僕たちが襲われてる」
エララの目が僅かに見開かれる。
「僕の矢が効くか分からない。でも、何もしなかったらお母さん一人になる」
「だからといって――」
「逃げろって言ったら逃げる」
その言葉に、エララが口を閉じた。
「本当に逃げろって言われたら逃げる。ユニコーンを連れて行けって言われたら行く。でも今は、まだ言ってない」
グルームモウの唸り声が近づいてくる。迷っている時間はなかった。エララは短く息を吐き、アレンを真っ直ぐ見た。
「……絶対に私より前へ出ない。勝手に追わない。それから、私が走れと言ったら、私がどうなっていても走る」
最後の条件に、アレンはほんの僅かに迷った。森へ入る前にも同じことを言われている。誰かと一緒に死ぬことが、その人を助けることになるとは限らない。今では、その言葉が朝より遥かに重かった。
「……分かった。逃げろって言われたら逃げる」
エララは一度だけ頷いた。
「なら、その矢を使いなさい」
アレンは手にしている一本へ目を落とした。森の影から唸り声が聞こえたときに準備し、一度も放たないままここまで持ってきた矢だった。背中の矢筒には、まだ十本残っている。
「狙う場所は?」
「目?」
「今のあなたが目だけを狙えば外す可能性が高い。肩か胸。身体の大きいところを狙って」
「心臓は?」
「正確な位置を知らないでしょう?」
「……うん」
「矢一本で倒そうとしない。確実に当てることを考えて」
「分かった」
グルームモウがゆっくり姿を現した。頬から黒い血を流し、左肩にはエララの矢が刺さったままだ。それでも歩みは止まらない。身体を低く沈め、こちらの動きを観察している。古木の根の間ではユニコーンが震え、その前にエララ、さらに少し後ろにアレンが立っていた。
アレンは拾った一本の矢を、もう一度弦へつがえた。
「まだ」
エララの囁きに従い、弓を上げる。
グルームモウが一歩近づいた。さらに一歩。裂けた口の端から唾液が細い糸を引き、幾重にも並んだ牙が覗いている。もう一歩進んだところで、アレンは弦を引き始めた。
「肘」
位置を直す。
「肩に力を入れすぎ」
ゆっくり息を吐く。
「相手全部を見ない。狙う場所を見る」
アレンは右肩へ意識を絞った。十分に広く、今の自分でも狙える場所だった。
「呼吸」
吸う。吐く。
グルームモウが止まり、白みがかった黄色の目で真っ直ぐアレンを見た。その瞬間、全身へ別の種類の恐怖が走る。自分が狙っていることを、相手も理解している。そう思えるほど、その視線は明確にアレンだけを捉えていた。
グルームモウの身体が僅かに沈む。
「来る」
「撃って!」
エララの声と同時に、アレンは弦から指を離した。
鋭い音とともに矢が飛ぶ。頭でも目でもない。狙った右肩へ一直線に進み、黒灰色の毛を割って肉へ突き刺さった。
それは、この日アレンが初めて放った一本の矢だった。朝、十一本の矢を背負って森へ入ったとき、最初の一本は獲物の命を奪うために使うのだと思っていた。けれど実際に放った矢は違う。獲物を仕留めるためではなく、自分と、母と、傷ついた白い獣を守るために放った一本だった。
矢筒には十本が残っている。
グルームモウの身体が一瞬だけ揺れた。
「当たった……」
次の瞬間、巨大な口が開いた。痛みに怯んだのではない。怒ったのだ。前脚が地面を蹴り、草と土が激しく後方へ飛ぶ。白みがかった黄色の目が、今度はアレンだけを捉えた。
そして牙を剥き出しにしたグルームモウは、真正面から凄まじい速度でアレンへ突進してきた。
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