第一章 第二十三話 初めて奪う命
牙を剥き出しにしたグルームモウが、真正面からアレンへ突進してきた。地面を蹴るたび黒灰色の巨体が低く沈み、次の瞬間には信じられないほど距離を詰めてくる。右肩にはアレンが放った矢が深く刺さり、左肩には森角鹿につけられたらしい傷とエララの矢が重なり、裂けた左頬からも黒い血が流れている。それだけ傷ついても退くどころか、自分を射た相手を新しい獲物と決めたように、白みがかった黄色の瞳はアレンだけを真っ直ぐ捉えていた。
「アレン、右へ!」
エララの声が飛んだ瞬間、身体が考えるより先に動いた。アレンは弓を胸元へ引き寄せながら右へ跳び、そのまま草の上へ転がる。ほんの一瞬遅れてグルームモウの長い前脚が先ほどまで胸のあった場所を薙ぎ、巨大な黒爪が外套の裾を掠めて布を裂いた。
「立って!」
言われるまでもなく、アレンはすぐ片膝をついて土と草のついた顔を上げた。グルームモウはすでに方向を変え、次の攻撃へ移ろうとしている。
「速すぎる……!」
「身体全部を見ないで! 肩と前脚を見るの!」
裂けた口も、幾重にも並ぶ牙も、若木を一撃で折った爪も怖かった。だが、そのすべてを一度に見ようとすれば、次に何が来るのか分からなくなる。アレンは恐怖で広がりすぎていた意識を無理やり前脚へ絞った。グルームモウが右の前脚へ体重を移す。反対側から来る――そう判断して半歩早く身体を引いた直後、左から振るわれた爪が目の前の空気を切り裂いた。
「避けた!」
「喜ぶのはあと!」
直後、エララの矢が飛んだ。だがグルームモウは弦が鳴る寸前に頭を沈め、矢は裂けた耳の上を通って背後の草地へ突き刺さる。最初の数射より、明らかに反応が早くなっていた。矢そのものだけを見ているのではない。エララの肩の向き、弓を持つ腕、弦を引く指、矢尻の向けられる方向まで観察し、攻撃が来る直前に身体をずらしている。
戦いながら学んでいる。その事実が、ただ巨大で強いということ以上にアレンを怖がらせた。古木の根の隙間では、傷ついたユニコーンが身体を縮めている。右の後脚はまだまともに使えず、今から全力で逃げることなどできそうになかった。
「お母さん。このままじゃ逃げられないよね」
「ええ」
「じゃあ……止めるしかない」
「……そうね」
その言葉が胸の奥へ重く落ちた。矢を刺しても止まらない。血を流しても退かない。逃げれば追ってくる。ならばグルームモウを本当に止めるために、最後には何をしなければならないのか。その答えを、アレンはまだ考えたくなかった。
グルームモウはすぐには飛びかからず、草を踏み潰しながらゆっくり近づいてきた。アレンとエララを交互に見比べ、どちらへ攻撃するべきか選んでいるようだった。
「僕を狙ってる?」
「あなたが矢を当てたから、脅威として見始めたのかもしれない」
「僕が、脅威……」
「嬉しそうにしない」
「してないよ!」
恐怖で声が裏返った。エララは次の矢をつがえながら、ほんの一瞬だけアレンの姿勢と背中の矢筒を確認する。
「矢は十本?」
「うん」
「無駄に撃たないで。次は私が動かす。あなたは確実に当てられるときだけ」
「分かった」
アレンは矢筒から一本を抜いた。背中には九本、手には一本。こんな状況で数を気にしている自分が妙にも思えたが、それでよかった。数える。見る。考える。恐怖に頭の中をすべて奪われないために、自分がまだできることを一つずつ続ける。
エララが左へ大きく動くと、グルームモウの視線も彼女を追った。さらに一歩外へ出たところで、鋭い声が飛ぶ。
「アレン、今!」
グルームモウの右脇腹が開いた。アレンは弓を持ち上げて弦を引く。狙う場所は十分に広い。しかし指を離そうとした瞬間、獣がこちらへ顔を向け、身体を捻った。
撃てば外す。そう判断したアレンは、弦から指を離さなかった。
「撃たないの!?」
「外すと思った!」
「正解! でも走って!」
グルームモウが今度はアレンへ向きを変えた。アレンは矢をつがえたまま走る。後ろだけを見れば足を取られ、地面だけを見れば獣を見失う。前方の根や石を確かめながら、耳では背後から迫る重い足音を追った。
「左!」
エララの声に従って横へ飛んだ直後、グルームモウの巨体がすぐ脇を通り抜けた。
その瞬間、空気が爆ぜた。
見えない何かがグルームモウの横腹へ叩きつけられ、肉と空気が同時に震えるような鈍い音が草地へ響く。小型の馬ほどある巨体が横から強引に押し流され、肩を地面へ打ちつけながら数度転がった。
「……今の」
「見るな!」
エララが叫んだが、アレンはすでに見ていた。彼女は長弓を片手に持ち、空いた手をグルームモウへ向かって突き出している。その周囲では草が一斉に外側へ伏せ、圧縮された何かが一瞬だけ駆け抜けた跡のように波打っていた。
風だった。以前、自分の炎が不自然な方向へ押し流されたときに感じたものと似ている。しかし、今の一撃はその比ではない。
「お母さん、それ――」
「あと!」
グルームモウが起き上がった。動きには僅かな鈍さが生まれ、呼吸も先ほどより荒くなっている。それでも倒れず、裂けた口から黒い唾液を垂らしながら、エララへ怒りの咆哮を浴びせた。
エララは長弓を手放し、腰から細身の片手剣を抜いた。家に置かれている姿ならアレンも見たことがある。けれど母が本気で抜剣し、敵へ刃を向ける姿を見るのは初めてだった。
グルームモウが飛びかかる。エララは正面から受けず、牙が閉じる寸前に身体を左へ滑らせ、すれ違いざま肩へ刃を走らせた。黒灰色の毛が裂け、黒い血が細い線を描く。しかし傷は浅い。毛の下にある皮膚も筋肉も、人間とは比べものにならないほど厚かった。
着地したグルームモウは後脚で即座に地面を蹴り、無理やり上半身を捻って長い前脚を振り回した。
「お母さん!」
エララは剣の腹で爪を受けた。甲高い金属音が響き、細身の身体が衝撃に押されて一歩、二歩と後退する。それでも三歩目で足を強く踏み込み、倒れることなく体勢を立て直した。
アレンは弓を引いた。グルームモウの動きは一瞬止まっている。胸を狙える。しかし、そのすぐ近くにはエララがいた。少しでも外せば母へ当たる。
「くそっ……」
アレンは歯を食いしばりながら、引いた弦をゆっくり戻した。
グルームモウの爪が再び振り下ろされる。エララは剣で軌道を外へ流し、続く噛みつきを身体を捻って避け、首筋へ反撃の刃を走らせた。それでも切れるのは表面の毛と皮膚だけだった。しかも獣は、今度は剣の間合いまで覚え始めている。前へ踏み込むと見せかけて止まり、エララが剣を出せば刃先の届かない外側へ回る。
「お母さん、右!」
アレンが叫ぶと、エララは即座に反応して横から来た爪を避けた。
「見えてる!」
「なら言わせないで!」
「余裕あるなら、もっと離れて!」
こんな状況で言い返される。そのことに、アレンはほんの僅かだけ救われた。母はまだ戦える。けれど、このまま永遠に続けられるわけではない。エララの呼吸は少しずつ深くなり、額には汗が滲み始めている。グルームモウも傷だらけだったが、身体の大きさが違う。黒い血を失いながらも、まだ凄まじい力を残していた。
アレンは周囲へ視線を走らせた。ユニコーンを守る古木の根、少し離れた場所へ落ちたエララの長弓、折られた若木、自分の弓、矢筒、腰の短剣。そして、今目の前で戦っている母と獣。
何が使える。何をすれば、少しでも状況を変えられる。
グルームモウが再びエララへ飛びかかった瞬間、アレンは走った。
「アレン!?」
射線が取れないなら、自分が位置を変える。弓を構えず、グルームモウの後方へ回り込むと、獣の耳が動いてこちらへ頭を向けた。
「こっち!」
「何してるの!」
「見る方向変えてる!」
視線がアレンへ移った隙に、エララの剣が後脚の外側を浅く切る。グルームモウが怒って母へ向き直った瞬間、今度はアレンの正面へ右脇腹が大きく晒された。
射線にエララはいない。アレンは迷わず弓を上げ、狙いを定めて弦から指を離した。矢は黒灰色の毛を割って脇腹へ突き刺さる。深くは入っていない。それでも、確かに肉を穿った。
矢筒には九本が残った。
「当たった!」
「次を急がない!」
グルームモウが激しく身体を振ると、脇腹へ刺さった矢の軸が途中から折れた。それでも傷そのものは残っている。白みがかった黄色の瞳が再びアレンへ向けられた瞬間、背筋へ冷たいものが走った。
「来る!」
アレンは右へ走った。グルームモウも即座に進路を変える。
「途中で変えて!」
エララの声に従って左へ切り返す。獣も追う。速い。見る間に距離が縮まり、振り上げられた前脚が視界の端へ入った。
アレンは身体を低くしながら横へ飛んだ。
完全には避けきれなかった。
グルームモウの爪先が左の脇腹を掠めた瞬間、焼けた鉄を押し当てられたような熱い痛みが走り、身体が横へ弾き飛ばされた。肩から地面へ落ちた衝撃で呼吸が一瞬止まる。何が起きたのか理解するより先に左手を脇腹へ当てると、指先へ濡れた赤い血がついた。
「アレン!」
エララの声が遠く聞こえた。
「大丈夫!」
「どこが!」
「立てる!」
傷の深さはまだ分からない。痛い。血も出ている。それでも脚は動く。アレンは歯を食いしばりながら身体を起こした。
弾き飛ばされたときに手放した弓は、すぐ横の草へ落ちている。拾おうと手を伸ばした、その前へ黒い前脚が振り下ろされた。
乾いた破裂音が草地へ響く。
グルームモウの爪が弓の中央を叩き割り、弧を描いていた木は真ん中から無残に折れた。朝、初めての狩りへ持ってきた弓は、もう使えない。
「あ……」
巨大な口が開く。アレンは考える暇もなく折れた弓の片方を拾い、獣の顔へ投げつけた。傷にはならなかったが、木片が鼻先へぶつかって一瞬だけ視界を塞ぐ。その隙に横へ転がると、幾重にも並んだ牙が直前まで身体のあった場所へ食い込み、土が激しく跳ね上がった。
「こっち!」
エララが叫びながら剣を振り下ろす。グルームモウは前脚を上げて受けたが、彼女は力任せに刃を押し込まず、剣先の向きを鋭く変えた。狙ったのは爪の根元ではなく、毛の薄い前脚の内側だった。
刃が深く突き刺さる。
グルームモウが絶叫した。痛みに暴れながら前脚を大きく振り回し、エララは剣を握り続ければ身体ごと引きずられると判断してすぐ柄から手を離す。片手剣は前脚へ深く刺さったまま残り、獣が動くたびに傷口を広げ、黒い血を周囲の草へ飛び散らせた。
明らかに動きが変わった。傷ついた前脚へ、もう十分な体重を掛けられていない。
「今なら逃げられる?」
息を切らせながら尋ねたアレンに、エララは古木の根へ一瞬だけ目を向けた。ユニコーンは必死に立とうとしているものの、傷ついた右脚ではまだ走れない。
「無理ね」
グルームモウもまた動きを止めていた。荒い呼吸に合わせて巨体が上下している。左頬から流れる黒い血、両肩の傷、脇腹へ残った矢傷、そして剣が刺さった前脚。黒灰色の毛は何箇所も黒い血で濡れ、それでも白みがかった黄色の瞳だけは獲物を探し続けていた。
エララが再びアレンの前へ出ようとする。
「後ろへ」
「お母さん、武器ない」
「あなたの短剣は?」
アレンは腰へ手を伸ばした。そこには、森へ入る前、傷つけた獲物を苦しませたままにしないため必要なのだと教えられた狩猟用の短剣がある。
「……これ?」
「抜いて」
鞘から短剣を引き抜いた。手の中へ収まるほどの刃は、目の前のグルームモウと比べればあまりにも小さく見える。
「こんなので?」
「近づかせないのが一番。でも、来たら使う。目、喉、口の中。毛と筋肉が薄い場所」
アレンは唾を飲み込んだ。
「……殺すの?」
エララはすぐには答えず、グルームモウから視線を外さないまま静かに言った。
「生きるために必要なら」
胸の奥が重くなった。矢なら、もう撃った。自分の矢で傷つけてもいる。けれど、短剣を使うなら自分で近づかなければならない。刃が身体へ入る感触も、その距離で命が失われる瞬間も、自分自身の手で受け止めることになる。
「怖い」
「うん」
「やりたくない」
「うん」
「でも、あいつ止まらない」
「……うん」
エララは否定しなかった。それが何より怖かった。
次の瞬間、グルームモウが動いた。狙ったのはアレンでも、エララでもない。古木の根の奥で動けずにいるユニコーンだった。
「来る!」
傷ついた前脚を引きずりながら、それでも巨体は最初から狙っていた白い獣へ向かって突進する。ユニコーンが甲高い悲鳴を上げた。
「やめろ!」
アレンとエララが同時に走った。だが距離はグルームモウの方が近い。巨大な前脚が持ち上がる。あれが落ちれば、傷ついた白い身体は耐えられない。
アレンは左脇腹の痛みも忘れ、獣の横へ飛び込んだ。
「こっちだ!」
グルームモウが頭を向け、裂けた口を大きく開く。身体中が逃げろと叫んでいた。それでもアレンは止まらなかった。噛みついてきた頭を見て、ぎりぎりで身体を横へ捻る。何列もの牙が肩のすぐ脇を通り抜けた瞬間、短剣を首へ振った。
だが毛が厚い。刃は入ったものの浅く、黒い血が僅かに滲んだだけだった。
直後、グルームモウが激しく頭を振り、アレンの身体は再び地面へ弾き飛ばされた。それでも短剣だけは手放さない。獣がこちらへ向き直り、今度こそ殺される――そう思った瞬間、踏み出そうとした前脚が突然崩れた。
エララの剣が深く刺さった脚だった。
巨体の重さを支えきれず、グルームモウの肩が落ち、そのまま巨大な頭が地面へ打ちつけられる。荒い呼吸とともに黒い唾液が草へ垂れた。
「アレン、離れて!」
エララが叫んだ。
グルームモウは残った前脚で地面を掻き、何度も立ち上がろうとしている。だが身体は持ち上がらない。それでも白い獣のいる古木へ顔を向け、喉の奥から低い唸りを絞り出していた。
アレンは短剣を握ったまま、その姿を見つめた。
今なら、本当に止められる。
そう考えた自分自身が怖かった。弱って倒れている相手へ近づき、自分から刃を突き刺す。それは、さっきまで襲われながら戦っていたことと同じなのか。
グルームモウが再び前脚へ力を入れる。立ち上がれない。それでも諦めてはいない。もしもう一度立てば、ユニコーンへ向かう。母を傷つけるかもしれない。自分を噛み殺そうとするかもしれない。
エララは「殺せ」とは言わなかった。「やめろ」とも言わなかった。
森へ入る前に教えられたことを思い出す。自分の矢で獲物を傷つけたなら、そのまま苦しませて放置しない。逃げれば痕跡を追い、必要なら短剣を使って終わらせる。
これは森角鹿ではない。食べるために追っていた獲物でもない。
けれど、自分たちはもうこのグルームモウを深く傷つけている。そして、ここで終わらせなければ、まだ誰かを殺そうとする。
アレンはゆっくり立ち上がった。左の脇腹が熱く痛み、脚も震えている。それでも短剣を両手で握り締めた。
グルームモウがアレンを見る。白みがかった黄色の目は、初めて暗い森の中で見つけたときには、それだけで身体が凍りつくほど恐ろしかった。
今も怖い。
ただ、その恐怖の向こうに、別のものまで見えてしまった。
痛そうだった。苦しそうだった。喉から漏れる濁った呼吸も、立ち上がろうとして震える脚も、生きようとしているからこそのものだった。
「……ごめん」
なぜ謝るのか、自分でも分からなかった。言葉が通じるとも思わない。それでも、言わずにはいられなかった。
「ごめん」
もう一度だけ言い、アレンは走った。
長い牙の届く正面を避けて首の横へ身体を寄せ、比較的毛の薄い喉へ短剣を突き立てる。
手へ強い抵抗が返った。硬い。簡単には入らない。それでも両手で柄を押し、脇腹の痛みに歯を食いしばりながら体重を掛ける。
「っ……!」
刃がさらに沈み、黒い血が傷口から溢れてアレンの指と手首へ流れかかった。
温かかった。
その温度を感じた瞬間、腕から力が抜けそうになる。直後、グルームモウの身体が激しく跳ね、アレンは振り落とされて地面へ転がった。短剣は喉へ残ったままだった。
グルームモウの傷ついた前脚が一度、土を深く掻いた。
もう一度。
今度は弱い。
さらに僅かに動いたあと、その脚も完全に止まった。
草地へ静けさが戻った。
アレンは地面へ座り込んだまま、しばらく動けなかった。耳の奥では自分の心臓だけが激しく鳴っている。グルームモウの口は少し開いたままで、牙も見えていた。白みがかった黄色の目も閉じてはいない。しかし、その瞳はもうアレンも、エララも、ユニコーンも追っていなかった。
「……死んだ?」
どうにか絞り出した声に、エララはすぐ答えなかった。グルームモウの後方から慎重に近づき、動きと呼吸を確認し、しばらく待ってから静かに告げる。
「……死んでるわ」
その言葉を聞いた瞬間、アレンの身体から力が抜けた。嬉しくなかった。勝ったとも思わない。助かったはずなのに、胸の奥にあるものは少しも軽くならなかった。
自分の両手を見る。黒い血が指の間にも手首にもついている。
「僕が……殺した?」
エララは嘘をつかなかった。
「そうよ。あなたの傷が最後になった」
「じゃあ……僕が殺した」
「ええ」
否定してほしかったのかもしれない。仕方なかったと言ってほしかったのかもしれない。エララも矢を射ち、剣を刺し、森角鹿にも傷つけられていた。そう言ってもらえれば、自分一人の行為ではないと少し楽になれたかもしれない。
けれどエララは、事実そのものを消してはくれなかった。
気づけば、アレンの目から涙が落ちていた。
「変なの……止めなきゃって思ってた。僕がやらなきゃって。でも、本当に死んだら……嫌だ」
エララは急いで答えず、アレンの近くへしゃがんだ。
「僕、間違った?」
「ユニコーンを守らなければ、あの子は殺されていたかもしれない。あなたも私も危険だった。グルームモウは何度傷ついても退かなかった」
「じゃあ正しかった?」
「必要だったことと、嬉しいことは同じじゃないわ」
アレンは涙で滲む目を母へ向けた。
「殺したのに、悲しくてもいい?」
「いい」
「気持ち悪い」
「うん」
「手が震える」
「止めなくていい」
「僕、弱い?」
エララはそこで初めて、はっきりと首を横へ振った。
「違うわ。命を奪ったあとで何も感じないことだけが強さじゃない。怖かったことも、震えたことも、逃げたかったことも、それでも誰かを守りたいと思ったことも、全部覚えていていいの」
アレンは動かなくなったグルームモウを見る。少し前まで恐怖そのものだった獣は、今ではただ大きな身体を草の上へ横たえている。
「忘れない方がいい?」
「あなたはどう思う?」
答えるまでに時間がかかった。短剣を押し込んだときの抵抗も、手へ流れた黒い血の温かさも、最後に土を掻いた爪の音も、まだ鮮明に残っている。
「……忘れたくない」
「どうして?」
「忘れたら……次に殺すのが簡単になりそうだから」
エララの表情が僅かに揺れた。
「簡単になったら駄目だと思う?」
「分かんない。でも……僕は嫌だ」
アレンは震えの残る両手を見つめたあと、もう一度グルームモウへ目を向けた。
「怖かったことも覚えてる。殺したときのことも。忘れたくない」
エララは静かに頷いた。
「それでいいわ」
アレンは息を吸い、震えながらゆっくり吐き出した。
その日、彼は初めて自分の手で一つの命を終わらせた。必要だったのだと誰かに言われても、その重さまで消えるわけではない。
だからアレンは、その事実から目を逸らさなかった。
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