第一章 第二十四話 死が残すもの
グルームモウが動かなくなってからも、草地にはしばらく誰の声も響かなかった。風だけが何事もなかったかのように長い草を揺らし、少し前まで地面を震わせていた重い足音も、喉の奥から絞り出されていた濁った唸り声も、もう聞こえない。踏み荒らされた草、深く抉れた土、途中から折れた若木、あちこちへ飛び散った黒い血。そして、その中心へ横たわる黒灰色の巨体だけが、ほんの少し前までここで何が起きていたのかを残していた。
アレンはまだ地面へ座り込んでいた。両手にはグルームモウの黒い血がこびりつき、指の間や手首へ入り込んだ液体は、風へ晒されるうちに少しずつ冷えている。洗いたいと思う一方で、今すぐすべてを消してしまうことが少し怖かった。黒い汚れがなくなれば、短剣を喉へ押し込んだときの感触まで薄れてしまうような気がしたのだ。そんなはずはないと分かっていても、手に残るものと記憶の中へ刻まれたものを、まだうまく切り離せなかった。
「アレン」
エララの声に、アレンはゆっくり顔を上げた。母の外套の端は爪で裂かれ、黒と淡い薔薇色が混じる長い髪には草や細かな土が絡んでいる。呼吸もまだ僅かに深い。それでも、エララは自分の足で立っていた。
生きている。その事実を改めて確かめた瞬間、胸の奥へ張りついていた緊張がほんの少しだけ緩んだ。
「立てる?」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて、ゆっくり試して」
アレンは地面へ手をつき、慎重に身体を起こそうとした。その瞬間、左の脇腹へ鋭い痛みが走る。
「っ……」
戦っていた最中には焼けるような熱さとしてしか感じていなかった傷が、緊張が解けたことで本来の痛みを取り戻したようだった。服の内側には、まだ湿ったものが貼りついている感覚もある。それを見たエララの表情がすぐに変わった。
「無理に立たなくていいわ。先に傷を見せて」
「浅いと思う」
「立てることと、傷が浅いことは同じじゃないでしょう?」
口調はいつものエララだったが、その声の奥にはまだ消えきっていない緊張が残っていた。彼女はアレンの前へしゃがみ込み、まず両手へ付着した黒い血を確認する。
「これは全部グルームモウの血ね?」
「うん」
「目や口には触ってない?」
「たぶん――」
そこまで言って、アレンは母の顔を見た。
「……触ってない。そこは覚えてる」
「ならいいわ。あとでしっかり洗いましょう」
エララはようやく脇腹へ視線を移した。
「服、少し上げられる?」
「うん」
アレンが外套と上衣の裾を慎重に持ち上げると、布には赤い染みが広がっていた。グルームモウの黒い血ではない。自分の血だった。
爪先が左脇腹を斜めに掠めたらしく、皮膚には一本の長い裂傷が走っている。傷口は開いていたが、深く肉を抉られたわけではない。血も滲んではいるものの、脈打つように流れ続けてはいなかった。
「深い?」
恐る恐る尋ねると、エララは少し間を置いてから答えた。
「……見える範囲では深くないわ。でも、何でもない傷ではない」
アレンが母を見ると、エララも一瞬だけ視線を合わせた。
「私、その言葉をあまり使わないようにしてるの」
「気づいてる」
「なら少しくらい評価して」
「考えとく」
「本当に生意気になったわね」
ほんの短いやり取りだった。それでも、張りつめていたものが僅かに緩み、アレンは少しだけ呼吸をしやすくなった。
エララは水袋を取り出し、清潔な布へ水を含ませた。
「先に洗うわ。痛むと思う」
「大丈夫」
「痛いなら、痛いって言っていいのよ」
「じゃあ、たぶん――っ、痛い!」
布が傷へ触れた瞬間、アレンの身体が跳ねた。
「でしょうね」
「もっと優しくできない?」
「優しくして汚れが残る方が怖いの」
戦いの最中、アレンは何度も草地へ転がった。傷の周囲には血だけでなく、細かな土や潰れた草の汁まで付着している。エララは布を何度も洗い直しながら、傷口の周囲から慎重に汚れを取り除いていった。
「治癒魔法は?」
「すぐ強く閉じる必要はないわ。汚れを取り除いて、出血と傷の状態を見てから」
「前に腕を切ったときと同じ?」
その言葉に、エララの手がほんの僅かに止まった。
「……基本は同じよ」
アレンも、それ以上は聞かなかった。
九歳の頃、訓練で切った右腕。普通なら何日も残るはずだった傷が、異常なほど早く塞がった。眠っているあいだ、自分自身のエーテルが傷へ集まっていたことも覚えている。あれが何だったのかは、今も完全には分かっていなかった。
エララは清潔な布を傷へ当て、その上から別の布を身体へ回して固定した。
「きつくない?」
「少し」
「大きく息を吸ってみて」
アレンがゆっくり胸を膨らませると、傷が引かれて顔が僅かに歪んだ。
「痛いけど、息はできる」
「なら帰るまではこれで押さえましょう」
「僕より、お母さんは?」
「私は切られてないわ」
「外套」
「布だけよ」
「本当?」
「帰ったら好きなだけ確認していいわ」
「じゃあ見る」
「信用ないのね」
アレンは返事をしなかった。母の「大丈夫」や「何でもない」を、以前ほど簡単には信じなくなった。そのことを、エララ自身ももう分かっている。
そこでようやく、二人の視線が同じ方向へ向いた。グルームモウだった。死んでいる。もう動かない。頭では理解していても、近づくにはまだ勇気が必要だった。
「剣を回収しないと」
エララが言った。グルームモウの前脚には、彼女の片手剣がまだ深く刺さったまま残っている。
「僕も行く」
「ここにいてもいいのよ」
アレンは死骸を見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「……行く」
エララは止めなかった。
二人はゆっくり死骸へ近づいた。ほんの数歩の距離なのに、戦っていたときより長く感じる。白みがかった黄色の瞳は開いたままで、裂けた口の隙間からは幾重もの牙が覗いている。喉へ目を向ければ、そこにはアレンが短剣を突き立てた傷が残り、周囲の毛は大量の黒い血で濡れていた。
「短剣、抜く?」
「先に私の剣からね」
エララは前脚へ回り込み、片手剣の柄を握った。刺さった角度を確かめて一度ゆっくり息を吐き、それから刃を真っ直ぐ引き抜く。
湿った音がした。
開いた傷口から、まだ液状の黒い血が僅かに流れ出す。アレンの肩が小さく跳ねた。
「死んでるのに、まだ血が出るんだ」
「身体の中に残っているものまで、一瞬で止まるわけじゃないから」
エララは草で刃の黒い血を大まかに拭い、そのあと布へ包んだ。
「刃先、傷んだ?」
「少しね。帰ったらちゃんと確認しないと」
その言葉を聞き、アレンも少し離れた場所へ視線を向けた。
そこには、自分の弓だったものが落ちている。中央から完全に折れ、片側から外れた弦がもう一方へ絡みついていた。
アレンはそこまで歩くと、ゆっくりしゃがんで二つに分かれた弓身を手に取った。朝には一本の綺麗な弧を描いていた木が、今はもう元の形を失っている。
「直る?」
隣へ来たエララも、折れた断面を確認した。
「……弓として使える形へ戻すのは難しいわね」
「そっか」
悲しくないわけではなかった。それでも涙は出なかった。折れた箇所を見るたび、自分の身体ではなく、この弓へ振り下ろされた巨大な爪が頭へ浮かぶ。
「持って帰っていい?」
「もちろん」
「もう使えないのに?」
エララは少し不思議そうに息子を見た。
「使えなくなったら捨てなきゃいけないって、誰が決めたの?」
その言葉を聞いた瞬間、幼い頃に作った木彫りのグリフィンが脳裏へ浮かんだ。脚を折り、綺麗には元へ戻らなかった。それでも、直した跡ごと残しておけばいいのだと教えられた。
アレンは改めて二つに折れた弓を見る。初めての狩りへ持ってきた。初めて本当の矢を放った。そして最後には、自分の代わりにグルームモウの爪を受けたように折れた。
「……うん。持って帰る」
二つの弓身を布でまとめ、荷物へ固定する。背中の矢筒には九本の矢が残っていた。弓がなければ今すぐ使うことはできない。それでも、矢まで捨てる気にはならなかった。
「九本」
「何?」
「矢。九本残った」
「ずっと数えてたの?」
「うん」
「いいことよ」
アレンは折れた弓を一度見た。
「結局、鹿には一本も使わなかった」
「そうね」
「変な狩りだったね」
「全然普通じゃなかったわ」
「毎回こんなの?」
エララは即座に首を横へ振った。
「毎回だったら、私はもう二度とあなたを森へ連れていかない」
その答えに、アレンは少しだけ安心した。もしこれが狩りでは当たり前なのだと言われていたら、もう一度行きたいと思える自信はなかった。
そのとき、小さな鼻息が聞こえた。
古木の根の間から、ユニコーンが自分の力でゆっくり外へ出てきている。まだ傷ついた右の後脚を庇ってはいるものの、戦いの直後よりは身体を支えられるようになっていた。
「お前も大丈夫?」
アレンは近づきかけてから、自分の両手へ目を落とした。グルームモウの黒い血がまだ残っている。
「先に洗う」
「そうして」
二人は残った水を少量使い、アレンの手を丁寧に洗った。乾き始めた黒い血は思った以上に落ちにくく、指の間や爪の際には僅かな汚れが残る。
「取れない」
「強く擦りすぎないで。今度は皮膚を傷つけるわ。家へ戻れば石鹸もある」
「……全部落ちる?」
エララは一瞬だけ、息子が何を尋ねているのか考えるように顔を見た。
「血ならね」
「血なら?」
「覚えていることまで、洗えば消えるわけじゃないってこと」
アレンは濡れた両手へ目を落とした。黒い汚れがまだ少しだけ残っている。
「……うん」
今は、それでいいと思えた。
ユニコーンへ近づくと、白い獣は逃げず、自分から鼻先を伸ばしてアレンの手や腕の匂いを確かめた。アレンがそっと鼻筋へ触れると、柔らかな体温が掌へ伝わる。冷え始めた血へ触れたあとだからこそ、その温かさが以前より強く感じられた。
「お前は生きてるな」
ユニコーンがゆっくり瞬きをし、再びアレンの胸元へ額を寄せようとする。その拍子に傷ついた身体が傾き、アレンは咄嗟に支えようとした。
「脇腹!」
「あ……忘れてた」
「自分が怪我してることを忘れないで」
「でも倒れそうだった」
「だから私が支えるわ」
エララが反対側へ回り、白い身体へそっと手を添えた。その瞬間、ユニコーンの瞳がまた彼女を捉える。傷を治療する前と同じ、どこか知っているものを見つめるような長い眼差しだった。
エララも気づいている。けれど何も言わない。アレンも、今は尋ねなかった。
ユニコーンがどうして母へ頭を垂れたのか。どうして自分の胸へ額を押しつけたのか。そして、グルームモウを横へ吹き飛ばしたあの強い風は何だったのか。知りたいことはまた増えていたが、今は答えを求めるより、無事に帰る方が先だと分かっている。
「歩けそう?」
アレンが尋ねると、ユニコーンは右脚を庇いながら一歩進み、少し間を置いてもう一歩進んだ。エララはその歩き方を注意深く観察する。
「ゆっくりなら移動できそうね。途中で何度か休ませましょう」
「村まで来たくなかったら?」
「この子が自分から離れようとするなら、無理に連れていかない」
「この子が決める」
「そう」
再び同じ言葉だった。選ばせること。強制しないこと。アレンは黙って頷いた。
三人が歩き出そうとしたところで、エララが呼び止める。
「待って。あなたの傷をもう一度だけ見るわ」
「さっき見たよ」
「血の止まり方を確認するの」
「そんなに?」
「そんなに」
アレンは仕方なく服を持ち上げた。巻かれた布には赤い染みが残っているものの、先ほどより広がってはいない。エララは布の端を僅かに持ち上げ、傷口を短時間だけ確認した。
その表情がほんの少し変わる。
「お母さん?」
「……出血が落ち着くのが、少し早い気もする」
「また?」
「まだ決めつけないで。今回は傷そのものが浅いもの。浅い傷なら、思ったより早く血が止まることもあるわ」
「九歳のときみたいかは、まだ分からない?」
「ええ」
「分かった。でも、変だったら教えて」
以前ならもっと食い下がっていたかもしれない。けれど今のアレンは、分からないものを無理に答えへ変えても意味がないと知っている。
「それは約束する」
エララの返事に頷き、アレンは服を元へ戻した。傷はまだ痛むし、消えたわけでもない。だから今は、それ以上の意味を決める必要はなかった。
歩き出す前に、アレンは最後に一度だけグルームモウを振り返った。
「置いていくの?」
「ええ」
「皮とか、爪とかは?」
「持ち帰って使う人はいるでしょうね。でも今日はやめるわ。あなたもユニコーンも怪我をしている。今すべきなのは、価値のあるものを探すことじゃない」
「安全に帰る」
「そう」
森角鹿の死骸を前にしたときにも教えられたことだった。けれど今では、同じ言葉があのときより遥かに重く感じられる。
「使えるものだからって、使わなくてもいい?」
「必要なら食べても、皮を使ってもいいと思う。でも、使えるからといって必ず使わなければならないわけでもないでしょう?」
エララは横たわるグルームモウへ一度だけ視線を向けた。
「今日は、この命をこれ以上、私たちの都合で切り分ける必要はないと思う」
それが絶対に正しい答えなのか、アレンには分からなかった。別の狩人なら爪を持ち帰り、皮を剥ぎ、使えるものを残さないようにするかもしれない。それでも今の自分には、エララの答えが一番近く感じられた。
「置いていく。でも忘れない」
「それでいいわ」
三人はようやく歩き始めた。エララがユニコーンの傷ついていない側へ寄り、必要なときだけ白い身体を支える。アレンは左脇腹を庇いながら、その反対側をゆっくり歩いた。進む速度は、朝に月根の森へ向かったときより遥かに遅い。それでも、誰も急がなかった。
月根の森が少しずつ遠ざかっていく。
アレンは何度か後ろを振り返った。最初は、グルームモウがもう一度起き上がるのではないかという恐怖からだった。次は、自分が本当にあそこへ一つの死体を残してきたのか確かめるためだった。さらに進むと長い草が視界を遮り、黒灰色の巨体は少しずつ見えなくなっていった。
それでも、何があの場所へ残されたのかは分かっている。地面には戦いの跡があり、アレンの弓は折れ、エララの剣も傷ついたかもしれない。ユニコーンの白い身体には三本の爪痕があり、アレンの左脇腹にも傷が刻まれた。そして、目には見えなくても、記憶の中へ残ったものもある。
アレンは左脇腹へそっと手を添えた。まだ痛む。けれど、その痛みを嫌だとは思わなかった。少なくとも今は、自分がここに立ち、生きて歩いていることを確かめられる。
隣では白いユニコーンがゆっくり歩き、その向こうにはエララがいる。
どちらも生きている。
家へ帰れば、傷をもう一度洗わなければならない。エララの剣も手入れする必要がある。折れた弓をどこへ置くかも考えたい。ユニコーンが村まで来るのなら、その傷をどう治療していくかも決めなければならない。聞きたいことも、また増えた。
けれど今は、一歩ずつ帰ることだけでよかった。
背中の矢筒には九本の矢がある。荷物には二つに折れた弓がある。左脇腹には爪の傷が残り、胸の奥には簡単には消えそうにない記憶がある。
死は、地面へ倒れた一つの身体だけでは終わらない。生き残った者たちの中にも、確かに何かを残していた。
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