第一章 第二十五話 積もる年月
月根の森での初めての狩りから一年が過ぎた頃には、アレンの左脇腹に残っていた傷は、意識して探さなければ分からないほど薄くなっていた。グルームモウの爪に裂かれた直後は赤く長い線だったものが、今では周囲の皮膚より僅かに白い痕として残っているだけだ。それでも、傷そのものが薄れたからといって、あの日の記憶まで同じように消えたわけではない。中央から二つに折れた狩猟弓は修理されることなく、革紐でまとめられた状態でアレンの部屋の壁へ掛けられている。もう武器として使うことはできない。それでも、捨てようと思ったことは一度もなかった。
傷ついたユニコーンは、あのあと数日だけラークホロウに留まった。村外れの静かな納屋と草地を借り、エララが傷を洗い、アレンは毎朝水と柔らかな草を運んだ。珍しい白い獣を一目見ようと村人たちが遠巻きに集まることもあったが、エララが最初に「近づくかどうかはこの子に決めさせて」と伝えていたため、無理に触れようとする者はいなかった。
右の後脚が十分に回復した朝、ユニコーンは誰にも引かれることなく、自分の意思で村を出ていった。アレンもエララも追いかけなかった。白い獣は丘の上まで進んだところで一度だけ立ち止まり、朝日に透ける長い角を僅かに傾けながら振り返った。最初にエララを、それからアレンを長く見つめる。その眼差しが何を意味していたのかは、最後まで分からなかった。
やがてユニコーンは静かに前を向き、そのまま草原の彼方へ駆けていった。白い身体は朝の光の中で少しずつ小さくなり、最後には緩やかな丘陵の向こうへ完全に姿を消した。十三歳になったアレンは、その光景を今でもよく覚えていた。
「遅い」
突然、木剣が肩へ落ちた。
「痛っ!」
思い出に浸っている場合ではなかった。春の朝、家の裏にある小さな訓練場で、アレンは木剣を両手に持ったまま大きく後退した。十三歳になった身体は一年前より明らかに大きくなり、肩幅も僅かに広がっている。毎日の鍛錬を続けてきた腕には細いながらも筋肉がつき、幼い頃には額へ何度も落ちてきた黒髪も、今では自分で適当に整えるようになっていた。
対するエララは数歩先に立ち、片手で木剣を持っている。
「今、別のこと考えてたでしょう?」
「考えてない」
「ユニコーンのこと」
アレンは黙り込んだ。
「……何で分かるの?」
「顔」
「そんなに出る?」
「あなたは自分で思ってるより顔に出るわよ」
「お母さんは全然出ないくせに」
「それは経験」
「ずるい」
エララは小さく笑い、木剣を構え直した。
「もう一回」
十三歳になってから、訓練は明らかに厳しくなっていた。幼い頃なら正しい姿勢を作り、転んだ理由を理解できれば、そこで終わる日もあった。今では正しい姿勢を取れることなど前提にすぎない。そこから何度崩されても立て直せるか、疲れて呼吸が乱れたあとでも足を止めず、考え続けられるかまで求められる。
アレンは右足を踏み込み、エララの肩口を狙って木剣を振った。エララは真正面から受けず、ほんの半歩だけ退いて刃先を外し、そのままアレンの手首へ木剣を軽く当てる。
「死んだ」
「まだ剣持ってる」
「本物なら手首がない」
「そういう言い方するようになったよね」
「本物を見たでしょう?」
その一言で、黒灰色の巨体と、手へ流れた温かな黒い血が脳裏を掠めた。アレンは僅かに動きを止めたあと、小さく頷く。
「……うん」
「なら、訓練の中だけは綺麗なままだと思わない方がいい」
声は厳しい。けれど冷たくはなかった。アレンは再び距離を詰め、今度は母の木剣だけでなく、肩、腰、踏み込む足の向きまで見る。グルームモウとの戦いで教えられたように、目立つ武器へ視線を奪われず、その武器を動かす身体から次の動きを読む。
エララが横へ回れば、アレンも正面を合わせる。その速さは相変わらずだった。むしろ以前より自分の目が動きを追えるようになったからこそ、母がどれだけ無駄なく身体を動かしているのか分かるようになっていた。
右から迫ったエララの一撃を、アレンは両手で初めて真正面から受け止めた。乾いた音が朝の庭へ響き、木剣同士がぶつかった衝撃が腕へ走る。それでも足は動かず、姿勢も崩れていない。エララの目が僅かに見開かれた。
「今のは死んでない」
「そうね」
「初めて?」
「真正面から止めたのはね」
アレンは思わず歯を見せて笑った。
「じゃあ僕の勝ち」
「一本防いだだけでしょう?」
「今日はもうこれでいい気がする」
「駄目」
言い終えるより早く足を払われ、アレンは背中から地面へ落ちた。
「いったぁ……」
「勝ったと思った瞬間が一番危ないわよ」
仰向けになったアレンの視界へ、青空と一緒にエララの顔が入ってくる。黒と淡い薔薇色の髪、琥珀色の瞳。自分がもっと幼かった頃から、そこにあるものと何も違わないように見えた。
「……お母さん」
「何?」
「何でもない」
差し出された手を掴んで立ち上がりながら、アレンはもう一度だけ母の顔を見た。この頃はまだ、本当に変わっていないのか、それとも毎日見ているから変化へ気づけないだけなのか、自分でも判断できずにいた。
◇
十五歳になる頃には、アレンは村の大人たちと並んでも、もう幼い子供には見えなくなっていた。背はさらに伸び、肩幅も広がり、長年の鍛錬を続けてきた身体は無駄なく引き締まっている。薪割りや荷運び程度なら大人たちへ混じっても困ることはなくなり、剣も子供用の木剣から、実剣に近い重量を持つ訓練剣へ変わっていた。
魔法も同じように変化していた。掌へ小さな炎を灯すだけなら、今ではほとんど苦労しない。むしろ難しいのは、必要以上に大きくしないことだった。燃やしたい範囲だけへ熱を留め、周囲へ広げず、必要がなくなれば確実に消す。幼い頃には「火を出せること」そのものが大きな出来事だったのに、今では「出した力をどう扱うか」の方が遥かに重要になっている。
風についてだけは、エララが今も慎重だった。
「押すだけよ。切ろうとしない。飛ばそうともしない。少し揺らすだけ」
夏の午後、庭の端には干し草を詰めた小さな袋が紐で吊るされていた。
「もうちょっと強くやっていい?」
「駄目」
「何で?」
「あなたの『もうちょっと』は信用してないから」
「まだ案山子のこと言ってる?」
「案山子だけじゃなく、そのあと燃えた草も含めて忘れてないわ」
アレンは不満そうに肩を落としたものの、素直に胸の奥へ意識を沈めた。身体の内側を巡るエーテルを感じ、火を生むときとは僅かに違う感覚で、周囲にある空気の流れへ指先を伸ばすように意識する。
自分から何かを無理やり押し出すのではなく、そこにあるものへ触れ、ほんの少しだけ方向を変える。そう意識すると、吊るされた袋がゆっくり右へ揺れ、紐に引かれて中央へ戻った。アレンは集中を切らさず、もう一度だけ空気へ意識を向ける。次の風が袋へ触れ、先ほどとほぼ同じ幅だけ右へ動かした。
「できた」
「ええ」
「じゃあ、もうちょっと――」
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「言う顔だった」
アレンは不満そうに口を曲げた。
「本当に顔で全部分かるの?」
「全部じゃないわよ」
「じゃあ今、僕が何考えてるか分かる?」
「もっと強くやったらどれくらい動くかな、って考えてる」
アレンは黙った。
「ほら」
「ずるい」
エララが笑う。その表情を見た瞬間、アレンはまた同じことを考えた。十三歳だった自分は十五歳になった。頬から幼さが減り、声も少し低くなっている。手も大きくなった。幼い頃にエララの手を握ったときとは、指の長さも掌の幅もまるで違う。それなのに、母はほとんど変わっていない。
「お母さんって、何歳?」
突然の問いに、エララが瞬きをした。
「急ね」
「ちゃんと答えてもらったことない」
「聞かれたことはあるわよ」
「答えてもらったことがない」
エララは吊るしてある袋の紐を直しながら答える。
「女性に年齢を尋ねるものじゃないわ」
「僕、息子だよ」
「息子でも」
「じゃあ僕を産んだとき何歳だった?」
「質問を変えても同じ」
「怪しい」
「何が?」
「別に」
アレンは母の横顔を見る。ラークホロウには、エララと同じ頃に子供を育て始めた女性たちが何人もいる。誰も急に老いたわけではない。それでも、目元や頬、髪、手には少しずつ時間が積もっている。大きな違いではなくても、何年も経てば以前とは僅かに変わって見える。
エララには、その変化をほとんど見つけられなかった。
「昔の絵とかないの?」
「絵?」
「もっと若い頃の」
「今も若いわよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
アレンは言葉に詰まった。何がおかしいのか、自分でもまだ明確には説明できない。ただ、自分の中へ積み重なっている年月と、目の前にいる母の姿が、少しずつ噛み合わなくなり始めている。
しばらくして、エララの方からアレンを見た。
「私が変?」
「……分かんない」
「なら、今はそれでいいんじゃない?」
昔なら、その答えに苛立ったかもしれない。十五歳のアレンはすぐ反論せず、少しだけ考えてから首を傾けた。
「分からないなら、決めつけない」
「そう」
「でも気にはする」
「それもいいわ」
「聞いちゃ駄目ってことじゃない?」
「聞くのは自由でしょう?」
「答えるかは別?」
「そういうこと」
「やっぱりずるい」
エララは小さく笑った。
それ以上の説明はなかった。アレンも無理に答えを聞き出そうとはしなかった。母が話したくないことを力ずくで引き出せるとも思っていないし、分からないものへ自分の想像だけで答えをつける危険も、これまでの経験から少しずつ理解するようになっていた。ただ、その日から一つだけ変わったことがある。アレンは以前より意識して、エララを見るようになった。
笑ったときの目元。疲れたときの表情。朝の光を受けた髪。寒い日に外套から覗く手。幼い頃の記憶の中にいる母と、今、自分の目の前にいる母。急いで答えを出すつもりはなかったが、自分だけが変わっていくように見える理由を、もう「気のせい」という一言だけで終わらせることはできなくなっていた。
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