第四章 第一話 王都の朝
王都で迎える二度目の朝、鐘が屋根を越えて響いた時には、アレンはすでに目を覚ましていた。窓の外では、夜明けの淡い光が石造りの建物を少しずつ白く染め、通りでは店を開ける音と荷車の軋みが重なり始めている。昨日なら、その一つ一つに目を奪われていたかもしれない。だが今朝は、王都という巨大な街が眠りから目覚めていく様子を、少しだけ落ち着いて眺めることができた。
七つの物語の先へ進む――昨日そう考えたばかりだったが、実際にどの道を選ぶかはまだ決まっていない。金属の羽根に残された削り取られた位置も、黒い九尾も、麗華も、空を横切った巨大な影も、答えは何一つ得られていなかった。それでも焦りはなかった。王都へ来て分かったのは、世界には自分の知らない土地も、人も、道も、想像していた以上に多いということだ。ならば、次に進む前に見るべきものを見て、知るべきことを知ればいい。
扉が二度、軽く叩かれた。
「起きてる?」
「今開ける」
扉の向こうには、すでに旅装を整えた鈴葉が立っていた。銀髪はいつも通りきれいに整えられ、表情にも眠気はない。
「早いな」
「あなたも起きてるじゃない」
「王都が起こしてくれた」
「この街で静かな朝を期待する方が間違ってるわ」
「昨日だけで十分分かったよ」
二人はそのまま一階の食堂へ下り、窓際の席についた。朝食は焼いたパンと野菜のスープ、それに薄切りの肉だった。周囲では、すでに何組もの旅人が今日の予定を話している。商人街へ向かう者、北門から出る者、荷を受け取ってその日のうちに王都を離れる者。昨日見たのと同じように、この街では一日の始まりと同時に無数の旅もまた動き始めていた。
「今日はどうする?」
鈴葉に尋ねられ、アレンは少し考えてから答えた。
「次の行き先を決める前に、道のことを調べたい。街道の状況とか、どんな土地があるのかとか。王都ならそういう情報も集まりそうだし」
「昨日より具体的になったわね」
「さすがに、何も知らないまま出るのはやめようと思って」
「成長したじゃない」
「なんで少し驚いてるんだよ」
鈴葉は小さく笑い、スープを口へ運んだ。
「でも、その方がいいでしょうね。土地が変われば、必要な物も危険も変わるわ」
「鈴葉も一緒に見てくれる?」
「そのために一緒に旅してるんでしょう?」
さらりと返された言葉に、アレンは一瞬だけ黙った。鈴葉にとっては何でもない返事だったのかもしれない。それでも、「一緒に旅している」ということが少しずつ日常の言葉になっているのを感じて、アレンは自然と笑った。
「じゃあ、今日は情報集めだな」
「ええ。あなたが途中で珍しいものに気を取られなければね」
「そこまで信用ない?」
「昨日のあなたを見ていたから」
「……気をつけるよ」
◇
朝食を終えた二人は、宿の外へ出た。朝の王都は、昨日の夕方とは違う勢いに満ちていた。露店では布が張られ、職人たちは工房の戸を開け、荷車が次々と大通りへ入っていく。衛兵は交差する人と車を整理し、商人たちはまだ眠そうな旅人にまで声をかけていた。
二人が最初に向かったのは、旅用品を扱う店が集まる通りだった。店先には丈夫な水袋、簡易鍋、厚手の外套、火打石、補修用の革紐などが並び、その奥には見慣れない装備も多い。顔の下半分まで覆う薄布、雪原用らしい厚底の靴、熱を避けるためなのか淡い色の外套まであった。
「同じ旅でも、行く場所でこんなに違うんだな」
アレンが店先を眺めながら言うと、鈴葉は棚の一つへ目を向けた。
「寒い場所へ行くのに薄着では困るし、水の少ない土地へ行くなら水袋も増やすでしょう?」
「ラークホロウを出た時は、ここまで考えてなかった」
「それで今まで生きてるなら、運も悪くなかったみたいね」
「運だけみたいに言うなよ」
「違うの?」
「少しは実力もあったと思いたい」
鈴葉は答えず、わずかに笑った。否定もしないところが余計に悔しかったが、アレン自身、旅に出た当初の自分が準備不足だったことは認めていた。危険な森も、見知らぬ土地も、そこへ行ってから考えればいいと思っていた部分がある。だが今は、知って避けられる危険なら、その方がいいと思えるようになった。
二人は店主から、王都では主要街道の情報が広場や旅人向けの案内所に集まると教えられた。天候による通行止め、隊商の募集、危険な魔獣の目撃情報まで、重要な知らせは頻繁に更新されるらしい。
「昨日見た掲示板か」
「たぶんね」
「じゃあ、あとで見に行こう」
店を出たあとも、アレンは売られている道具や服へ何度か目を向けたが、今日は買い物を目的にはしなかった。行き先が決まっていない以上、何が必要かもまだ分からない。まず情報を集め、そのあとで準備する。それだけでも、以前の自分とは少し違う気がした。
◇
昼前には、二人は旅人向けの案内所へ足を運んだ。建物の中には王都周辺だけではなく、さらに遠方まで描かれた地図が壁いっぱいに掲げられていた。道そのものは簡略化されているが、街道沿いの宿場や河川、山地などが記されている。
アレンは地図の前で足を止めた。王都から伸びる道は一つではない。北へ向かうもの、西へ向かうもの、南へ続くもの。途中でさらに枝分かれし、アレンが聞いたこともない土地へ繋がっている。
「これだけあったら、適当に選ぶ方が難しいな」
「昨日は選び放題って喜んでたのに」
「実際に見ると話が違う」
鈴葉が隣で地図を眺める。
「何を基準にする?」
「それを決めるために調べてるんだろ」
「ちゃんと考えてるのね」
「今日は褒められてるのか馬鹿にされてるのか分からないな」
「両方かも」
「やっぱりか」
案内所の係員にも話を聞いたが、今の段階で特定の目的地を決める必要はなかった。どの街道にも商人や旅人が行き交い、季節や天候によって安全性も変わるという。長い旅なら隊商へ同行する者も多く、護衛を求める商人も頻繁にいるらしい。
「一人で歩くよりは安全そうだな」
「場所によってはね」
「護衛なら路銀も稼げるか」
「お金のことも考えられるようになったのね」
「旅には必要だろ」
「本当に成長したわ」
「だから、その言い方やめない?」
鈴葉の小さな笑い声に、アレンも結局つられて笑った。
案内所を出た頃には、太陽はすでに高くなっていた。二人は人混みを避けながら広場の端へ移動し、今日集めた情報を簡単に整理した。まず行き先を決める。その土地に必要な装備を揃える。長い道なら、隊商や同行者を探す。単純なことばかりだが、以前のアレンならその順番さえ深く考えなかっただろう。
「明日は掲示板を見て、具体的な道を探してみるか」
「今日でもいいんじゃない?」
「まだ全部整理できてない」
「慎重になったわね」
「鈴葉が言ったんだろ。勢いだけで知らない土地へ行くなって」
「そこまでは言ってないけど、意味は同じね」
鈴葉は満足そうに頷いた。
アレンは広場の向こうにある大きな掲示板へ目を向けた。昨日より紙札が増えている。遠くからでも、新しく貼られたものが何枚かあるのが分かった。隊商の募集なのか、旅人への注意なのか、それとも別の知らせなのか、ここからでは読めない。
今すぐ確認したい気持ちはあったが、今日はまだ近づかなかった。焦る必要はない。王都には情報が集まり、それは明日もなくならない。
荷物の中には、今も金属の羽根がある。消された位置も、黒い九尾も、麗華も、空を横切った巨大な影も、答えはまだ遠い。けれど旅を続ける以上、いつかそのどれかに繋がる道へ出るかもしれない。その道を見落とさないためにも、今までより少し慎重に歩けばいい。
「戻る?」
鈴葉に尋ねられ、アレンは掲示板から視線を外した。
「ああ。今日はここまででいい」
二人は並んで宿への道を歩き始めた。朝にはまだ何も決まっていなかったが、今は次に何をするべきかだけは分かっている。明日、王都に集まった旅の情報をもう一度確かめ、その中から二人で次の道を選ぶ。
背後の広場では、係員がさらに新しい紙札を掲示板へ貼り付けていた。多くの旅人が足を止め、その一枚一枚を確かめていく。アレンはそれに気づかないまま、鈴葉とともに王都の人混みへ紛れていった。
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