第三章 第三十二話 七つの物語の先へ
第三章が終わりました!第四章は10月4日から始まります。
翌朝、王都の鐘がまだ二度目を告げる前に、アレンは宿の窓を開けた。冷たい朝の空気と一緒に、石畳を走る荷車の音、店を開ける商人の声、どこかで焼かれているパンの匂いが流れ込んでくる。昨日は人の多さに圧倒され、目の前のものを追うだけで精一杯だったが、一晩眠った今でも街の勢いはほとんど変わらない。通りではもう旅人が荷を背負い、夜明け前に着いたらしい隊商が宿を探していた。誰かにとってはここが目的地で、別の誰かにとっては次の旅へ向かう途中にすぎない。昨日、広場で感じたことを思い出していると、扉を軽く叩く音がした。
「起きてる?」
「起きてる。今開ける」
扉を開くと、鈴葉がすでに旅装を整えて立っていた。昨日、地図を挟んで「明日はどこから見る」と話したものの、結局きちんとした行き先は決めていない。王都には見るべき場所が多すぎて、一つに絞ること自体が難しかったからだ。そのことを話すと、鈴葉は少し考えてから「なら、歩きながら決めればいいでしょう」と答えた。
朝食を済ませて大通りへ出ると、市場へ続く道にはすでに人が集まり始めていた。荷車を引く商人、仕事へ向かう職人、剣を背負った旅人、家族連れ、見たことのない種族の者たち。アレンはその流れに混じりながら、ラークホロウを離れてからの旅を思い返した。ケンタウロスの子供を助け、黒い九尾を目にし、麗華から渡された地図の先で異様な村へ入り、その裏側で人が売られていく現実まで見た。そして村を離れた先で銀の九尾と出会い、その獣が今、隣を歩いている。子供の頃の自分に話したところで、きっと信じなかっただろう。
◇
二人が辿り着いたのは、中央に古びた石像が立つ広場だった。像の周囲には露店や屋台が並んでいたが、アレンの目を引いたのは、少し離れた場所で子供たちを集めて話をしている老人だった。老人は木箱に腰掛け、古い絵本のようなものを手にしている。集まった子供たちは人間だけではなく、猫人の子も、長い耳を持つ子も、額に小さな角のある子もいた。老人が頁をめくると、大きな翼を持つ鳥の絵に子供たちが身を乗り出した。
「――そして炎の鳥は、燃え尽きた大地へ新しい火を与えたと言われています」
その言葉に、アレンの足が止まった。隣を歩いていた鈴葉もすぐに気づき、老人の手にある絵本へ視線を向けながら、アレンと並んでその場に立ち止まった。
「知ってる話?」
「似てる」
完全に同じではない。土地の名も語り方も、エララが聞かせてくれたものとは違う。それでも、炎を司る鳥、空を渡る獣、水を守る蛇、大地に関わる巨大な存在。話の中には、幼い頃に何度も聞いた七聖獣の面影があった。
老人は最後に、昔の人々が世界の各地に七つの大きな守り手がいると信じていた、と締めくくった。子供たちは「本当にいるの?」と騒ぎ、一人は「そんなの作り話だよ」と笑う。老人はただ穏やかに、「本当かどうかは、自分で確かめられたら一番だね」と答えた。
「母さんも、似たことを言ってた気がする」
エララは七つの物語を、信じろと押しつけたことはなかった。疑問を口にしたアレンには、自分で考えるよう促した。だからこそ、あの物語は長い間、心のどこかに残り続けたのかもしれない。
「昔は、本当にただの話だと思ってた」
「今は?」
鈴葉に問われ、アレンはすぐには答えず、老人の話を聞いて笑っている子供たちを見た。かつて自分も同じように物語へ胸を躍らせていたことを思い出してから、隣に立つ鈴葉へ視線を向けた。
「少なくとも、全部が作り話じゃなかった。キツネは本当にいたし、七聖獣も実在する。それだけでも、昔の俺が聞いたら驚くだろうな」
「今のあなたも十分驚いていたでしょう?」
「それは否定できない」
アレンは笑ったが、その胸には別の重さも残っていた。七つが実在すると知った一方で、金属の羽根には消されたもう一つの位置がある。誰かがそこにあったものを、最初から存在しなかったかのように削り取っている。七つの物語が真実へ近づいたからこそ、その欠落は以前より重く感じられた。だが今ここで答えが出るわけではない。アレンはそれ以上考えを追わず、鈴葉とともに広場を後にした。
◇
昼過ぎ、二人は王都を横切る大通りの高台まで来ていた。坂の上から振り返ると、昨日くぐった外壁の塔が建物の向こうに見え、その反対側には街の中心へ続く屋根と塔が何層にも重なっている。さらに遠く、城壁の外には街道がいくつもの方向へ伸び、細い線となって大地の先へ消えていた。
ラークホロウで暮らしていた頃、世界は森の向こうにあるものだった。何があるかは知らず、知る必要もなかった。エララの七つの物語だけが、村の外にもっと大きな何かがあることを教えてくれていた。今、その物語の一つは銀髪の少女として隣に立っている。その向こうには、まだ会ったことのない六つの存在がいて、七つだけでは説明できない消された痕跡もある。黒い九尾、麗華、父に繋がるかもしれない金属の羽根、空を横切った巨大な影。旅に出る前より分からないことは増えたのに、道を失った感覚はなかった。疑問が増えるたび、その先へ続く道も増えているように思えた。
「ずいぶん静かね」
「考えてた。子供の頃、母さんから七聖獣の話を聞くのが好きだったんだ。あの時は、いつか本当に会えるなんて考えたこともなかった」
「会ってみた感想は?」
アレンは幼い頃に思い描いていた神秘的な存在と、ここ数日の鈴葉の姿を頭の中で比べ、しばらく考えてから彼女を見た。
「思ってたより、よく人をからかう」
「帰る?」
「冗談だよ」
「分かってる」
鈴葉がわずかに笑い、アレンも笑った。旅に出た頃は、次にどこへ向かうかを決めるのも、危険に備えるのも、夜の静けさを受け止めるのも全部一人だった。今は隣に誰かがいる。それだけで旅そのものの形が変わり始めていた。
「鈴葉。これからも、よろしく」
唐突だったのか、鈴葉は一瞬だけ目を瞬かせた。アレン自身も、改まって口にするつもりでいたわけではなかったが、ここまでの旅を振り返るうちに、今のうちに伝えておきたくなった。
「昨日も一緒に旅するって言ったでしょう?」
「分かってる。でも、言っておこうと思って」
鈴葉は少しだけ視線を逸らし、遠くの街道へ目を向けた。いつものように軽くからかう言葉は返ってこず、代わりにわずかな間を置いてから静かな声が返ってきた。
「……こちらこそ」
それ以上は言葉を重ねず、二人はしばらく並んで王都を見下ろした。アレンは荷物の中にしまってある金属の羽根を思い出したが、取り出そうとはしなかった。答えは物を握り締めて考え続ければ現れるものではない。道を歩き、人と出会い、知らなかったものを知る中で、少しずつ形を持っていく。七聖獣が実在することも、キツネが鈴葉であることも、旅に出なければ知ることはなかった。ならば、消された一つの答えも、その先にあるはずだった。
◇
夕方、宿へ戻る道で、二人は昨日見た大きな掲示板の前を通った。昨日とは違う札が追加され、遠方へ向かう隊商の募集や、別の地方から到着した荷の知らせが貼られている。アレンは足を止め、そこに並ぶ地名をもう一度眺めた。
「次の行き先、決める?」
アレンは掲示板から夕焼けに染まる通りへ視線を移した。今すぐ一つを選ぶ必要はない。王都にはまだ見るものがあり、聞くべき話もある。けれど、ここにずっと留まるつもりもなかった。
「まだ決めない。でも、行きたい場所は増えた」
「欲張りね」
「世界がこんなに広いって分かったばかりだからな」
「なら、全部見て回るつもり?」
「全部は無理だろ。でも、行けるところまでは行きたい」
その答えを聞いた鈴葉は、掲示板の向こうに続く大通りを見ながら小さく笑った。二人の前を、これから王都を出るらしい隊商がゆっくりと通り過ぎていく。
「じゃあ、先は長いわね」
「ああ。長い方がいい」
二人は再び宿へ向かって歩き出した。夕暮れの王都では店の灯りが一つずつ点き始め、遠い土地から来た旅人が宿を探し、明日の出発に備える隊商が荷を整えている。幼いアレンにとって、世界の果てはエララが語る七つの物語の向こう側にあった。けれど今、その七つは終わりではなく、世界へ続く入口だったのだと分かる。物語の一つは現実となって隣を歩き、残る六つの姿をアレンはまだ知らない。そして、その七つの外には、誰かによって消された一つの痕跡さえ残されている。
アレンは建物の隙間から見える空を仰いだ。巨大な影は、今日も姿を見せなかった。それでも構わない。今すぐ答えを知る必要はない。かつて聞いた七つの物語は、もう幼い頃の寝物語ではなく、世界のどこかで生き、動き、知らない歴史と繋がっている。そしてアレン自身も、それを遠くから聞いているだけの子供ではなかった。隣には鈴葉がいて、前にはまだ名前しか知らない無数の土地がある。七つの物語の先へ――アレンの旅は、そこからさらに広い世界へ続いていく。
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それでは、第四章でお会いしましょう!




