第三章 第三十一話 世界が集まる場所
王都へ足を踏み入れてからしばらく経っても、アレンの視線は落ち着かなかった。大通りを歩けば、すぐ隣を見たことのない荷車が通り過ぎ、その向こうでは知らない言葉で商談が行われ、頭上の渡り廊下には色鮮やかな布が何枚も干されている。建物の高さも、店の数も、人の多さもラークホロウとは比べようがない。ひとつ角を曲がるだけで匂いまで変わり、焼いた肉の香ばしさが消えたかと思えば、今度は香草や油、革、金属、甘い菓子の匂いが混ざって流れてくる。目に入るものを一つずつ追っていたら本当に首が疲れそうで、鈴葉に言われた言葉を思い出したアレンは小さく苦笑した。それを隣で見ていた鈴葉が、すぐに声をかけた。
「笑った?」
「昨日から言われてたことが当たってるなと思って」
「首のこと?」
「ああ。見たいものが多すぎる」
「まだ入口に近いのに?」
「それを言うなよ」
鈴葉の口元がわずかに緩んだ。二人は人の流れを邪魔しないよう通りの端を歩きながら、宿屋街を示す案内板に従って進んでいた。だが道中に並ぶものが多すぎて、ただ宿へ向かうだけのはずなのに、アレンには何度も足を止めたくなる誘惑があった。
ある店先では、細長い青い果実を山のように積んだ商人が、南の島から運んできたものだと大声で客を呼び込んでいた。その隣では、雪のように白い毛皮をまとった旅商人が、北方で採れるという透明な鉱石を並べている。少し進めば、乾いた砂の匂いをまとった一団が香辛料を売り、さらに先では港町から来たという魚商人が、氷の上に銀色の魚を並べていた。海を見たことのないアレンにとって、その魚さえ遠い土地そのもののように見えた。
「全部、この王都まで運んでくるのか」
「全部ではないでしょうけど、ここへ来れば売れると思う人は多いんでしょうね」
「こんなに遠くから?」
「遠いからこそ、高く売れる物もあるもの」
鈴葉の返事を聞きながら、アレンは通りの向こうを見た。今度は反対方向から、長い角を持つ獣に荷車を引かせた隊商がやってくる。車体の側面には、アレンの知らない紋章が描かれていた。その後ろには弓を背負った護衛が何人も歩き、最後尾には猫人の少年が旗を掲げている。
王都はただ人が多いのではない。遠い場所から来たものが、ここで出会っている。その事実に気づいた瞬間、アレンの中で街の見え方が少し変わった。大きな壁に囲まれた巨大な都市ではなく、無数の道の終点であり、同時に出発点でもある場所。ここへ辿り着いた人々は、また別の道へ向かうのだろう。昨日まで名前すら知らなかった土地から来た者とすれ違い、その者がこれから自分とは逆方向へ旅立っていく。そう考えると、目の前の人混みがひとつの流れではなく、何百、何千もの旅が交差しているように見えた。
◇
宿屋街へ向かう途中、二人は大きな広場へ出た。中央には円形の噴水があり、その周囲に石造りの掲示板がいくつも並んでいる。壁面には紙や木札が隙間なく貼られ、商人の募集、護衛の依頼、荷運び、失せ物、祭りの告知、遠方への乗合馬車の案内まで、内容はばらばらだった。広場の端には旅人向けの案内所らしい建物もあり、その前で係員が地図を広げながら何人もの旅人に説明している。アレンは掲示板を見上げ、その隙間なく貼られた紙と木札に目を走らせた。
「これ、全部依頼か?」
「依頼だけじゃないみたい。ほら、あれは街道の通行情報」
鈴葉が横から一枚を示した。その先には、東へ向かう街道の一部が雨で崩れたという知らせが貼られていた。その下には、北方へ向かう隊商が護衛を募集している札があり、さらに隣には南西の温暖な地域へ向かう乗合馬車の出発日が記されている。アレンは一つずつ読みながら、知らない地名の多さに目を細めた。
「こんなに道があるのか」
「道があるというより、人が行く場所がそれだけあるってことね」
その言葉に、アレンはしばらく黙った。ラークホロウにいた頃、村の外に世界があることは知っていた。だが知識として知っていることと、目の前に何十もの地名を並べられることは違う。掲示板に書かれた一つ一つの名前の先に、本当に街があり、人がいて、暮らしがある。旅に出てから初めて、それが実感として胸に落ちてきた。
広場では、様々な種族の旅人たちが同じ掲示板を見ていた。大きな斧を背負った犬人の男が護衛依頼を剥がし、エルフの女性が地図を片手に行き先を確認している。二人組のケンタウロスは、遠方の草原へ戻る隊商について係員へ尋ねていた。翼を持つ若者は、高所の建物へ荷を運ぶ仕事の札を手に取り、その場で隣の男と報酬について話し始めている。アレンは掲示板から広場全体へ視線を移し、鈴葉も同じように周囲を見渡した。
「世界が集まってるみたいだな」
「そうね。でも、集まるだけじゃないわ」
「どういう意味だ?」
「ここからまた散っていくのよ。人も、物も、話も。誰かが持ってきたものを、別の誰かがもっと遠くへ運んでいく。だから大きな街は、知らない場所の話まで抱えている」
アレンはその言葉を聞きながら、もう一度掲示板へ目を向けた。そこには、雪深い地方、海沿いの港、山を越えた先の都市、乾いた土地へ向かう隊商の文字がある。どれも今のアレンには名前以上の意味を持たない。それでも、そのうちのどこかをいつか自分が歩く可能性があるのだと思うと、不思議な感覚が胸に広がった。アレンは掲示板の向こうに続く人の流れを眺めながら、ふと隣の鈴葉へ顔を向けた。鈴葉は問いかけられる気配を感じたのか、視線だけを彼へ向ける。
「鈴葉は、行きたい場所ってあるのか?」
「今は、特に決めてないわ」
「ずっと?」
「あなたと旅を始めたばかりでしょう。先を全部決めるには早いもの」
さらりとした返事だったが、アレンはなぜか少しだけ嬉しくなった。鈴葉が「あなたと旅を始めた」と自然に口にしたことが、昨日まで一人で歩いていた時間との違いを改めて感じさせた。
「じゃあ、しばらくは一緒に決めるか」
「そうね。あなたが変な場所ばかり選ばなければ」
「まだ何も選んでないだろ」
「これから選ぶから言ってるの」
アレンは苦笑し、鈴葉は何事もなかったように掲示板へ視線を戻した。二人の間には、まだ名前をつけるほど大きな感情はない。ただ、次の道を一人で決めなくていいという事実が、アレンには思っていた以上に心地よかった。
◇
広場を抜けたあと、二人はようやく宿屋街へ辿り着いた。通りの両側には宿が並び、入口には料金や食事の有無が書かれた札が下がっている。豪華な石造りの宿もあれば、木造で旅人向けらしい簡素な宿もある。アレンは手持ちを考えながら何軒かを見比べ、最終的に一階が食堂になっている中規模の宿を選んだ。
部屋を二つ取ると、宿の主人は王都の簡単な地図を一枚くれた。観光客向けのものではなく、主要な通りと市場、中央広場、職人区、城へ続く大路などが記された実用的な地図だった。アレンは食堂の端にある卓へ腰を下ろし、それを広げた瞬間、思わず息を吐いた。
「広いな……」
「外で見た時から分かってたでしょう?」
「分かってたつもりだった」
地図の中には、今日歩いただけでは想像できないほど多くの区画が描かれている。正門から宿まで進んだ道など、王都全体から見ればほんの一部分にすぎなかった。さらに街の外へ目を向ければ、王都から伸びる主要街道が何本も記され、その先にいくつもの地名が続いている。
アレンは指先で道を辿りながら、肩に掛けた荷物の中にある金属の羽根を意識した。七聖獣の印と、消されたもう一つの痕跡。答えはまだ遠い。麗華も、黒い九尾も、空を横切った影も、何一つ分かっていない。それでも、王都へ来たことで初めて、答えを探すための道が一つではないのだと感じられた。向かいに座った鈴葉は、地図の上を動くアレンの指先へ目を向けた。
「何を見てるの?」
「どこへ行けば何か分かるのかなって」
「もう答え探し?」
「少しだけ」
「今日は歩きすぎたでしょう。答えは逃げないわ」
「それもそうか」
アレンは地図から手を離した。焦って一つの道へ飛びつく必要はない。王都には、人も、物も、話も集まっている。ならば、ここで見るべきものを見てから次を決めても遅くはなかった。
食堂の窓の外では、夕方が近づいているにもかかわらず、人通りはほとんど減っていない。荷車が通り、商人が声を上げ、遠くでは鐘が鳴っている。昼間に広場で感じた通り、この街は世界の終着点ではなかった。誰かが辿り着き、誰かが旅立ち、そのたびに別の土地の話が残されていく。
アレンは窓の向こうへ続く通りを眺めた。今日歩いたのは、この巨大な街のほんの一部にすぎない。広場の掲示板には知らない土地の名が並び、地図の端からは何本もの街道がさらに遠くへ伸びていた。どこへ向かうかはまだ決めなくていい。まずは王都を歩き、ここに集まった人々の話を聞き、自分の知らない世界がどれほど広いのかを確かめてみたい。そして、その先の道を選ぶ時には、もう一人ではない。アレンは卓上の地図を鈴葉の方へ少し寄せた。
「明日は、どこから見る?」
鈴葉は地図を覗き込みながら少し考え、指先でいくつかの通りを順に辿ったあと、ようやく小さく笑った。「それを今から決めるんでしょう?」
窓の外では、夕暮れの王都を行き交う人々の声が途切れることなく続いていた。遠い土地から来た者と、これから遠い土地へ向かう者が同じ通りですれ違い、その間を荷車と噂と新しい話が流れていく。アレンは広げた地図へ再び目を落とした。王都は旅の終着点ではない。無数の道が集まり、また世界へ散っていく場所だった。
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