第三章 第三十話 門の向こう
白い石線の向こうで、門番が次の旅人を呼んだ。
アレンと鈴葉は人の流れに合わせて数歩進み、木製の柵で仕切られた確認台の前に立った。昨日までなら道の途中で出会う相手といえば、商人か旅人、あるいは獣だった。だが今は、左右の台で同時に何組もの入城手続きが進み、兵士たちが名前や目的を尋ね、荷物を確認し、必要に応じて別の係へ案内している。背後にはまだ長い列が続いているため、一人にかけられる時間は思ったほど長くない。それでも、誰でもそのまま通しているわけではなかった。
「次。二人とも一緒か?」
確認台の向こうに立つ兵士が尋ねた。年齢は三十代ほどで、紺色の上着の上に胸当てを着け、腰には短剣を下げている。声は事務的だったが、疲れている様子はない。
「一緒です」
アレンが答えると、兵士は二人を順に見た。
「名前。入城の目的」
「アレン・ヴェイレン。ラークホロウから来ました。旅の途中です」
「ラークホロウ?」
兵士の眉がわずかに動く。アレンは一瞬身構えたが、相手は机の上に置かれた厚い帳面をめくり、何かを探したあとで首を振った。
「小さな村か?」
「はい」
「王都の周辺じゃないな。まあいい。旅人なら滞在先が決まっていなくても入れる。次」
「鈴葉。私も旅の途中よ」
鈴葉はそれだけ答えた。兵士は彼女の銀髪を一度見たものの、余計な質問はせず、帳面へ短く書き込んだ。
「荷物を開けろ。全部出す必要はない。上から見える程度でいい。危険物と禁制品の確認だけだ」
アレンは肩から荷を下ろした。金属の羽根の存在が頭をよぎるが、表情には出さない。布に包んだまま荷の底近くへ収めてあるそれは、ただの所持品として持ち歩いてきたものだ。兵士は水袋、替えの衣服、保存食を手早く確認し、底まで掻き回すようなことはしなかった。鈴葉の荷も同じだった。
次に、兵士の視線がアレンの腰の剣へ落ちる。
「剣は?」
「自分のものです」
「王都では抜くな。正当防衛でも、事情聴取は受けてもらう。市場や宿で揉め事を起こして抜けば、その時点で拘束されると思え」
「分かりました」
「旅人の剣まで全部預かっていたら、この門が日暮れまでに詰まるからな」
兵士は慣れた口調でそう言い、剣の鞘と柄を確認しただけで返した。アレンはわずかに肩の力を抜く。武器を取り上げられることを心配していたが、王都には武器を持つ旅人そのものが珍しくないらしい。
兵士は最後に帳面へ何かを書き込み、確認済みを示す印を押した。ラークホロウでは、自分がどこの誰なのかを証明する必要などなかった。村中の誰もがアレンを知っていたからだ。だがここでは、目の前を通るだけで数え切れないほどの人がいる。その違いだけでも、王都の大きさを別の角度から感じさせた。
「行っていいぞ。次!」
兵士の声に背を押されるように、二人は確認台を離れた。
◇
外壁を貫く通路へ入った瞬間、空気が変わった。
頭上を覆う石の天井は高いが、それでも外から見上げた城壁の厚さを考えれば、今いる場所が巨大な石の塊の内部なのだと分かる。靴音も車輪の音も壁に反響し、前後から聞こえる声まで幾重にも重なっていた。一定の間隔で鉄格子を下ろすためらしい溝が天井と壁に刻まれ、左右の高所には小さな監視窓が開いている。敵が門を突破したとしても、ここでさらに止めるための構造なのだろう。アレンは歩きながら何度も上を見た。
「外から見ても大きかったけど、中までこんなになってるんだな」
「王都の入口だもの。壁に穴を開けただけでは済まないでしょうね」
「鈴葉はこういう街に入ったことがある?」
「ある。でも、同じ街は一つもないわ」
「それ、答えになってるようでなってない気がする」
「全部話したら、あなたが自分で見る楽しみがなくなるでしょう?」
鈴葉は涼しい顔で言った。アレンは苦笑しながらも、それ以上は聞かなかった。前方には、通路の出口から差し込む白い光が見えている。人々は次々とその中へ消え、外壁の向こう側へ入っていく。
出口に近づくにつれて、匂いまで変わっていった。焼いた肉、香辛料、焼きたてのパン、馬や家畜、煙、石畳に撒かれた水。どれか一つではなく、無数の匂いが混ざって押し寄せてくる。その向こうからは鐘の音、商人の呼び声、金属を叩く音、笑い声まで聞こえてきた。
そして二人は、外壁の内側へ出た。
アレンはその場で足を止めかけた。門の先には一本の大通りが真っ直ぐ伸びている。だが「通り」と呼ぶには広すぎた。荷車が何台並んでも余る幅の石畳を、人と馬と獣車が絶え間なく行き交い、その両側には三階、四階建ての建物が隙間なく続いている。一階部分には店が並び、色鮮やかな布の日除けが道へ張り出し、窓から吊るされた看板が風に揺れていた。さらに奥には別の通りが何本も枝分かれし、その先にも建物の屋根が延々と重なっている。外から見えていた尖塔の一つは、ここへ入ってもなお遥か遠くにあった。
「……これが、王都」
アレンの声は人混みに吸い込まれた。
正門の外でも多くの種族を見たつもりだった。だが中へ入ると、それがほんの入口にすぎなかったと分かる。大きな角を持つ男が樽を二つ肩に担ぎ、その横を猫人の少女たちが笑いながら走っていく。長い耳を持つエルフの商人は店先で布を広げ、鱗のある旅人が香辛料の屋台で店主と値段を交渉していた。背の低い老人たちは見たことのない形の工具を荷車から降ろし、少し先では翼を持つ者が屋根上の荷台へ軽々と飛び移っている。
聞こえる言葉も一つではない。アレンの理解できる共通語の中に聞き慣れない訛りが入り、別の場所では意味の分からない言語が飛び交っている。それでも商売は成立し、人々は道を譲り合い、時には怒鳴り合いながら、それぞれの目的地へ向かっていた。
「外にいた時より、すごいな」
「まだ門を入ったところよ」
鈴葉の一言に、アレンは思わず彼女を見る。
「まだ?」
「王都全部がこの通りだけだと思っていたの?」
「いや……でも、これだけでも十分大きいだろ」
「だから首を痛めるって言ったでしょう?」
鈴葉の口元には、わずかな笑みがあった。
アレンは反論しかけてやめた。実際、右を見ても左を見ても気になるものばかりだった。見たことのない果物。聞いたことのない楽器。色の違う貨幣を並べる両替商。巨大な背負い籠を持った旅人。遠い土地の名が書かれているらしい案内板。その一つ一つを追えば、何時間あっても足りそうにない。
門を入ってすぐの広場には、大きな石造りの案内板が立っていた。王都の主要な区画と大通りが簡略化されて描かれているらしい。アレンは近づいて見上げたが、そこに刻まれた道の数だけで軽く眩暈がしそうになった。
「宿を探すだけでも大変そうだな」
「まずは場所を決めないとね。ずっとここに立っていたら邪魔になるわ」
実際、背後から荷車が近づき、御者に声をかけられて二人は慌てて脇へ寄った。ラークホロウなら道の真ん中で立ち話をしても誰かが避けてくれたが、この街では人の流れそのものが止まらない。
アレンは改めて案内板へ目を向ける。宿屋街、市場、職人区、中央広場。読める範囲だけでも、知らない場所がいくつも示されていた。その先には、今ここからは見えない区画がさらに広がっている。
ふと、エララの声が遠い記憶から蘇った。幼い頃、暖炉の前で聞いた七つの物語。空を巡るもの、水を渡るもの、大地を支えるもの。あの頃のアレンにとって、世界とはラークホロウと森、その向こうにぼんやり存在する知らない土地だった。七聖獣さえ、夜に聞く物語の中だけにいる存在だった。けれど今、その一つであるキツネが隣にいる。そして目の前には、幼い頃には想像すらできなかったほど多くの人々と道が広がっている。
「アレン?」
鈴葉の声で我に返った。
「何でもない。ただ……本当に遠くまで来たんだなって思った」
「ラークホロウから?」
「それもある。でも、それだけじゃない気がする」
鈴葉はすぐには答えず、人々が行き交う大通りへ視線を向けた。
「なら、まだ先も長そうね」
「ああ」
アレンは頷きながら、肩に掛けた荷物へわずかに意識を向けた。その中には今も金属の羽根がある。消された一つの位置も、黒い九尾も、麗華の正体も、空を横切った巨大な影も、何一つ答えは出ていない。だが今は、それらを急いで一つの答えへ押し込めようとは思わなかった。この街へ入ってほんのわずか歩いただけで、自分の知らないものが世界にはいくらでも存在していると理解させられたからだ。
鈴葉が大通りへ足を向け、「行きましょう。まずは今夜寝る場所」と促すと、アレンも「分かった」と答えてその隣へ並んだ。二人の背後では巨大な王都の門が次々と旅人を飲み込み、前方には無数の声と匂いと道が重なっている。アレンは歩き始める前に一度だけ、高い建物の向こうへ続く空を見上げたが、丘の上で見た巨大な影はもうどこにもなく、ただ雲だけが穏やかに流れていた。
その正体を追うのは、まだ先でいい。今は、この王都に何があり、どんな人々が暮らし、ここからどんな道が世界へ繋がっているのかを、自分の足で確かめてみたかった。そうしてアレンと鈴葉は、人々の絶え間ない流れへ並んで足を踏み出し、初めて足を踏み入れた王都の奥へとゆっくり歩き始めた。
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