第三章 第二十九話 王都の外壁
丘の頂から見た王都の外壁は、遠くでは地平を横切る一本の灰白い線にすぎなかった。だが街道を下り、距離が縮まるにつれて、その線は壁という言葉では足りないほど巨大なものへ変わっていった。朝の光を受けた石の面には古い補修跡と雨筋が幾重にも残り、一定の間隔でそびえる見張り塔はラークホロウのものとは比べものにならない。胸壁の上では兵士が行き交い、その向こうには尖塔や煙突がいくつも突き出していた。アレンは知らず歩調を緩め、首を上げたまま呟いた。
「……大きいな」
隣を歩く鈴葉も壁を見上げたが、驚きを大きく表には出さなかった。
「遠くから見た時と、全然違う」
「大きなものは、距離があるほど小さく見えるものよ。山も、海も、街もね」
「海を見たことがあるのか?」
アレンが尋ねると、鈴葉は一拍だけ間を置いた。
「あるわ」
それ以上は話さなかった。鈴葉が何を見て、どこを旅してきたのか、アレンはまだほとんど知らない。彼女が神獣キツネだと知ったからといって、その過去まで理解したことにはならない。今は無理に聞く必要もないと思い、アレンは視線を前へ戻した。
王都へ続く街道は、昨日まで歩いてきた道とは別物のように混み合っていた。荷車が列を作り、その隙間を騎乗した旅人や徒歩の商人が進んでいる。布を積んだ車、果物の匂いを漂わせる車、金属製品を載せた車。御者の声、獣の鳴き声、車輪の軋みが重なり、まだ街の外だというのに巨大な市場へ入り込んだようだった。
行き交う者たちもラークホロウでは見たことのない者ばかりだった。猫人の商人、子供の手を引く犬人の女、腕に鱗を持つ旅人。その向こうにはケンタウロスの一団もいる。以前助けた幼いケンタウロスを思い出し、アレンが少し長く視線を向けていると、鈴葉が気づいた。
「知り合い?」
「いや。前に、ケンタウロスの子供を助けたことがあって」
「そう。だから見ていたのね」
「顔に出てたか?」
「ええ。少なくとも私には」
からかわれたのか本気なのか分からず、アレンは苦笑した。こうした鈴葉とのやり取りにも、少しずつ慣れ始めている。
外壁へ近づくにつれ、壁際には建物がなくなった。広く空けられた地面を兵士が巡回し、その外側には長い溝と低い杭が続いている。アレンが理由を尋ねると、鈴葉は攻め込まれた時に敵が隠れたり、燃える物を壁際へ運んだりするのを防ぐためではないかと答えた。ラークホロウでは森を読み、獣の気配を察することが身を守る方法だった。だがここでは、何万人いるのか想像もつかない人々を、石と兵士と規則で守っている。その違いだけでも、アレンには世界の広さを突きつけられる思いがした。
街道が大きく曲がると、正門の全体が姿を現した。中央には巨大な二枚扉があり、その左右には人や荷車を通すための入口がいくつも並んでいる。門前には柵で分けられた列が伸び、頭上の建物や胸壁から兵士たちが街道全体を見下ろしていた。門というより、小さな砦そのものだった。
「これ、全部入口なのか」
「みたいね」
「ラークホロウなら、村の端から端まで入りそうだ」
「比べる相手を間違えていると思うわ」
アレンが笑った、その直後だった。前方の旅人たちが一斉に空を指し、ざわめきが波のように広がった。
「見たか? 城壁の向こうへ行ったぞ」
「鳥じゃない。あんな大きな鳥がいるものか」
「飛竜じゃないのか?」
「ただの雲の影だろ」
意見はばらばらだった。アレンの胸に、丘の上で見た巨大な影が蘇る。無意識に荷物へ手をやると、布越しに金属の羽根の硬さを感じた。父に繋がるかもしれない品。七聖獣の印と、意図的に消されたもう一つの位置。そこへ空を横切った巨大な影まで重なり、頭の中で別々の手掛かりが結びつきかける。
「アレン」
鈴葉の声に顔を上げた。彼女はアレンの手元を見ていた。
「結びつけるのは、確かめてからでいい」
アレンは数秒黙り、荷物から手を離した。
「……そうだな」
何かが存在することと、その正体を知っていることは違う。金属の羽根に削り取られた場所があることは分かった。だが、何が消されたのかは分からない。空を横切った影も同じだった。
「鈴葉は、何だと思う?」
「分からないわ。遠すぎたもの」
「鈴葉でも?」
「私が世界の全部を知っていると思わないで。知らないものは知らないし、影だけで決めつける方が危ないでしょう?」
「確かに」
「今は王都へ入ることを考えなさい。空ばかり見て荷車に轢かれたら笑うわよ」
「助けてはくれないのか?」
「笑ってから助ける」
「順番がおかしいだろ」
鈴葉の口元がわずかに上がった。二人はそのまま門へ続く人の流れに加わった。
◇
正門に近づく頃には、列は用途ごとに細かく分けられていた。頭上の案内板には複数の文字と図があり、徒歩、騎乗、荷車、家畜などの進む場所が一目で分かる。周囲から聞こえる言葉にもアレンの知らない響きが混じり、服装も肌の色も持ち物も違う旅人たちが同じ門を目指していた。
砂色の長衣をまとった一団の荷からは香辛料の匂いが漂い、別の一団は暖かな季節にもかかわらず厚い毛皮を肩へ掛けている。長い耳を持つエルフらしい老人、頭に角を持つ男、背中に小さな翼を畳んだ女。アレンにとっては一人一人が珍しいのに、周囲の者たちは誰も特別なものを見る顔をしていなかった。猫人の商人と人間の御者が値段を巡って言い争い、その横を別の種族の旅人が当たり前のように通り過ぎていく。その光景が、城壁の高さ以上に王都の大きさを感じさせた。
「ラークホロウが小さかったって、初めて本当に分かった気がする」
アレンの言葉に、鈴葉は壁の方を見たまま答えた。
「小さいことと、価値がないことは同じじゃないわ」
「……分かってる」
「ならいい」
故郷は小さい。地図に載らないほど小さいかもしれない。それでもエララがいて、友人たちがいて、アレンが剣を振り、森を走り、七つの物語を聞いて育った場所だ。その価値が王都の大きさで変わるわけではない。ただ、自分が知っていた世界がほんの一部だったことだけは、もう否定できなかった。
◇
昼が近づく頃、二人はようやく正門前の広場へ入った。ここまで来ると、外壁は近すぎて全体が視界に収まらない。石の一つ一つが人の胴ほどもあり、低い場所には古い傷や補修跡が残っている。門の上から鐘が鳴ると、兵士たちが持ち場を交代し、列が一時的に止まった。
門前では、入城者の書類や荷物が確認されていた。商人は積荷について質問を受け、武器を持つ旅人は別の卓へ案内されている。アレンは自分の腰の剣へ視線を落とした。
「武器、どうするんだろうな」
「入る時に分かるでしょう」
アレンは周囲を見回した。前後には大勢の旅人がいて、兵士も近い。そこで声を少し落とした。
「鈴葉のことも、聞かれたことだけ答えればいいよな」
彼女はすぐに意味を察したらしい。
「ええ。入城に必要のないことまで話す理由はないわ」
「だよな」
「門番に私たちの旅を最初から説明したいなら、止めないけれど」
「後ろの人に怒られる」
「なら決まりね」
列が再び進み始めた。二人の前にいた商人たちが柵の向こうへ消え、厚い石壁を貫く通路が見えてくる。その先には明るい光と建物の影があったが、街の全貌はまだ見えない。
アレンは肩の荷物を掛け直した。布越しに金属の羽根が触れる。エララが語った七聖獣。実在していたキツネ。隣を歩く鈴葉。消されたもう一つの位置。黒い九尾。麗華。そして、空を横切った正体不明の影。知ることが増えるほど、分からないことも増えていた。
けれど、以前ほど焦りはなかった。分からないなら、確かめればいい。答えがないなら、自分の目で見ていけばいい。
「アレン。進んだわよ」
鈴葉に呼ばれて顔を上げると、列が大きく動いていた。
「ああ、悪い」
「また考え込んでいたの?」
「少しだけ」
「王都に入ったら、もっと増えるわよ。考えること」
「それは楽しみなのか、不安なのか分からないな」
「両方でいいんじゃない?」
その答えに、アレンは小さく笑った。
「徒歩の旅人二名! 次、そこの線まで!」
兵士に呼ばれ、二人は白い石線まで進んだ。門までは、もう数人しかいない。
背後には、ここまで歩いてきた長い街道がある。前には、アレンの知らない人々と土地と物語が集まる王都がある。丘の向こうを見ても、あの巨大な影はもうどこにもなかった。空には何事もなかったように雲だけが流れている。
アレンは前を向いた。
答えは、まだない。それでよかった。
門番が次の旅人を呼び、列がまた一歩進む。アレンと鈴葉は、王都の外壁が落とす巨大な影の中へ踏み込んだ。
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