第三章 第二十八話 空を横切る影
丘の頂上へ近づくにつれて、街道の傾斜は少しずつ緩やかになった。朝から続いていた人の流れは途切れず、荷車の車輪が石を踏む音や、商人たちの声が風に乗って聞こえてくる。アレンは何度か先を見上げたが、丘の向こう側はまだ空しか見えない。
「あと少し?」
「あと少し」
「さっきもそう言ってなかった?」
「言ったかもしれないわね」
「鈴葉、わざと焦らしてる?」
「初めて見るなら、ちゃんと自分で見た方が面白いでしょう」
鈴葉はそう言って、アレンより半歩だけ先を歩いた。銀色の髪に混じる赤が陽光を受け、風に揺れる。神獣キツネだと知った今でも、人の姿で隣を歩く彼女は昨日までと変わらない。ただ、何気なく周囲へ向ける視線の鋭さや、遠くの音へ誰より先に反応する仕草を見るたび、森で九本の尾を広げていた姿を思い出した。
やがて坂の先から空が大きく開けた。
アレンは思わず歩みを止めた。丘の向こうには広い平野が伸び、その中央を何本もの街道と川が走っている。遠くには畑や小さな集落が点在し、さらにその先、霞の向こうに長い灰白色の線が横たわっていた。まだ細部までは見えない。それでも自然の地形ではないことだけは分かる。
「あれが……王都?」
「外壁ね。王都そのものは、その向こう」
「遠くからでも分かるんだ」
「近づけばもっと大きく見えるわよ」
ラークホロウを出てから、いくつもの町や村を見てきた。しかし遠くから壁の端が見えないほど広い場所は初めてだった。アレンは丘の上に立ったまま、しばらく景色を眺める。
平野には王都へ向かう荷車の列が小さく見え、別の街道からも人の流れが合流している。北側には背の高い塔のようなものが薄く見えるが、まだ王都の中なのか外なのかも分からない。
「今日中には着けそうだね」
「寄り道しなければね」
「しないよ」
「本当に?」
「その聞き方やめて」
鈴葉が笑い、二人は丘を下り始めた。
下り坂へ入ると、風が強くなった。草原を渡ってきた風が街道を横切り、道端の長い草を同じ方向へ倒していく。空はよく晴れており、白い雲が高いところをゆっくり流れていた。
アレンは歩きながら、王都の外壁を何度も見た。距離が縮むにつれ、ただの線だったものが少しずつ高さを持ち始める。壁の外にも建物があり、街道沿いには宿や倉庫らしい屋根が並んでいる。
「壁の外にも人が住んでるんだ」
「住んでるわ。全部を壁の中へ入れられるわけじゃないもの。商人向けの倉庫や馬を預かる場所も外に多いし、門が閉まったあとに着いた旅人が泊まる宿もある」
「門って夜は閉まる?」
「完全に閉じる門もあるし、時間によって通れる場所を限ることもあるわ。今日は十分間に合うと思うけど」
「なら安心」
そのとき、街道の前方を歩いていた馬が突然足を止めた。
荷車を引いていた二頭が同時に首を上げ、耳を後ろへ伏せる。御者が手綱を引きながら声を掛けても、すぐには動こうとしなかった。少し離れた場所では、荷物を背負った犬人の旅人も足を止め、空を見上げている。
「何だ?」
アレンもつられて空へ視線を上げた。
最初は何も見えなかった。青い空と、ゆっくり流れる白い雲だけだった。
次の瞬間、陽光が僅かに陰った。
雲が太陽を隠したのではない。何か巨大なものが、遥か上空を横切った。
「……え?」
影は一瞬だけ街道と草原を覆い、すぐに前方へ流れていく。アレンは反射的にその先を追った。
雲より低い位置に、黒い輪郭があった。
翼のように見えるものが左右へ大きく広がり、細長い胴体らしき影がその中央を進んでいる。鳥と呼ぶには大きすぎた。街道を走る大型の荷車より遥かに長く見え、しかも地上からかなり離れているにもかかわらず輪郭が分かる。
「鈴葉、あれ……」
「見えてる」
さっきまでの軽い表情は消えていた。鈴葉は目を細め、空を横切る影をじっと追っている。
巨大な影は翼を一度だけ動かしたように見えた。その瞬間、遅れて低い風の音が平野へ降りてきた。草が一斉に波打ち、馬たちはさらに身を強張らせる。
街道にいた旅人たちも次々と空を見上げた。
「竜か?」
「いや、形が違うぞ」
「王都の騎獣じゃないのか?」
「そんな大きさのもの、見たことがない」
声が重なる。誰も同じ答えを持っていない。
アレンは黒い輪郭から目を離さなかった。深い森で見た黒い九尾、そして銀色の九尾。旅を始めてから、常識では説明できない存在を何度も目にしてきた。それでも、今の影が何なのかはまったく分からない。
「鈴葉なら分かる?」
問いかけても、鈴葉はすぐに答えなかった。
「遠すぎるわ」
「でも、普通の鳥じゃないよね」
「それはそうね」
「神獣?」
その言葉に、鈴葉が一瞬だけアレンへ視線を向けた。
「今見えた形だけで決めないの」
「……昨日も言われた」
「なら覚えておきなさい」
口調はいつも通りだったが、鈴葉自身も空の影を警戒していることは隠せていなかった。
影は王都の方向へ向かっているように見えた。しかし真上を通過したわけではなく、平野のさらに北側を斜めに横切っている。しばらくすると薄い雲の中へ入り、黒い輪郭がぼやけた。
アレンは目を凝らした。
「消えた?」
「雲の向こう」
数秒後、雲の反対側に再び黒い影が現れた。だが今度はさらに高く、遠くなっている。大きく広げられた翼らしきものが一度傾き、王都の北側へ続く山並みの方角へ向きを変えた。
やがて輪郭は小さくなり、青い空の中へ溶けるように見えなくなった。
街道にはしばらくざわめきだけが残った。
止まっていた荷車の馬も、影が消えてからようやく動き始める。御者は何度も空を確認しながら手綱を引き直し、周囲の旅人たちも互いに見たものについて話していた。
「見間違いじゃないよね」
「これだけの人が同じものを見てるなら、影が通ったこと自体は間違いないでしょうね」
「何だったんだろう」
「それは別の話」
鈴葉は街道を歩き出した。アレンも隣へ戻る。
「本当に分からない?」
「輪郭だけなら、似た姿を持つ大きな飛行生物はいくつかいるわ。遠すぎて細部が見えなかったものを、知っている何かに当てはめる方が危険よ」
「じゃあ、竜かもしれないし、違うかもしれない?」
「そういうこと」
「神獣かもしれない?」
「可能性を増やして楽しむのは勝手だけど、答えにはならないわ」
アレンは少しだけ口を尖らせた。
「夢がないな」
「夢と判断は別でしょう?」
「それはそうだけど」
「それに、分からないものが一つ増えたくらいで嫌そうには見えないわよ」
言われて、アレンは否定できなかった。驚きはしたが、恐怖より先に何だったのか知りたいという気持ちが湧いている。
「……ちょっと気になる」
「ちょっと?」
「かなり」
「でしょうね」
鈴葉は呆れたように笑った。
歩きながら何度か空を見上げたが、黒い影は戻ってこなかった。雲はまた普通に流れ、鳥が小さく群れを作って飛んでいる。さっきまで巨大な何かが通ったことが嘘のようだった。
ただ、街道の人々の会話にはその話が残り続けた。竜を見たと言う者もいれば、巨大な鷲だったと言う者もいる。王都の軍が飼っている秘密の獣だと冗談めかして話す商人もいた。どれも根拠はなく、見た時間も位置も同じなのに、語られる形はすでに少しずつ変わり始めている。
アレンはそれを聞きながら、鈴葉が何度も言った言葉を思い出した。
見たものを、誰かの言葉ですぐ決めない。
確かなのは、巨大な何かが空を横切ったこと。翼のような影があり、王都の北側へ進んだこと。それだけだった。
「少しは学んだ顔してる」
「顔で分かるの?」
「だいたい」
「何考えてると思う?」
「今の影について、見えたことと想像を分けようとしてる」
当てられ、アレンは思わず鈴葉を見る。
「本当に顔だけ?」
「さあ」
「またそれ」
鈴葉は答えず、楽しそうに前を向いた。
街道は平野の中央へ続き、王都の外壁は先ほどよりずっと大きくなっていた。高い壁の上には等間隔に塔があり、中央付近には遠くからでも分かる巨大な門の影が見え始めている。
アレンは空を最後に一度だけ確認した。もう黒い影はどこにもない。
それでも、王都へ着く直前に見たものとして、その輪郭は強く記憶に残っていた。
答えの分からない影を空に残したまま、アレンと鈴葉は大きくなっていく王都の外壁へ向かって歩き続けた。
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