第三章 第二十六話 同じ道を歩く者
月明かりの下で淡く浮かんでいた七つの印が消え始めるまで、アレンは金属の羽根から目を離せなかった。削り取られた場所だけは最後まで形を取り戻さず、やがて円も印も古い傷の中へ沈んでいく。残ったのは、旅立つ日に母から渡されたときと同じ、鈍い金銀色の小さな羽根だけだった。
「もう見えないね」
「月が雲に隠れたからでしょうね」
鈴葉は石台から少し離れ、夜空を見上げた。今の彼女が話さないと決めていることを無理に聞き出しても意味はないと、アレンは羽根を布へ包み直した。
「失くさない方がいいわ」
「分かってる。母さんからもらったものだし」
「それだけじゃなくて」
アレンが顔を上げると、鈴葉は一度だけ羽根の入った布包みを見た。
「今のところ、それが何なのかは分からない。でも、誰かが消そうとした跡まで残っているなら、簡単な品ではないでしょう。人前で何度も出さない方がいい」
「鈴葉にも?」
「私はもう見たでしょう」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
鈴葉の口元にわずかな笑みが戻った。緊張が完全に消えたわけではないが、さっきまでの沈黙よりは話しやすい空気になっている。
アレンは羽根を旅袋の奥へ戻し、さらに布と着替えの下へしまった。王都へ着けば人も増える。母から渡された品を不用意に見せる理由はなかった。
「そろそろ行きましょう」
「今から?」
「ここで夜を明かしたい?」
古い休憩所には屋根が残っているとはいえ、壁は半分ほど崩れている。野営できないことはないが、少し先には街道宿があると鈴葉が言っていた。
「宿まで遠い?」
「歩けば一時間もかからないわ」
「じゃあ行こう」
二人は休憩所を離れ、月明かりの差す街道へ戻った。夜になってから歩くつもりはなかったが、鈴葉がいることで森の中を一人で進むときとは違う安心感がある。それでもアレンは剣から意識を外さず、道標を確かめながら進んだ。
「警戒してるのね」
「最近、色々あったから」
「灰色の外套?」
「それもある」
「今はいないと思う」
「やっぱり分かるんだ」
「近くに人がいれば、だいたいね」
「神獣だから?」
「全部それで説明しようとしないの」
「さっき自分で神獣だからって使ってたのに」
「私はいいの」
「ずるい」
鈴葉は小さく笑った。神獣だと知ったあとでも、こうして話していると昨日までと変わらなかった。
街道宿へ着いたのは、月が木々より高く上がった頃だった。小さな宿と食堂、それに馬小屋が並ぶだけの場所で、夜番の男が入口の灯りを守っている。二人は別々に部屋を取り、遅い時間でも残っていた温かいスープと黒パンだけを食べた。
食堂にはほかにも数人の旅人がいたため、神獣や金属の羽根の話はしなかった。鈴葉もそれを理解しているらしく、明日の天気や王都までの距離といった普通の話だけをしている。
「王都には行ったことある?」
「あるわ」
「どんなところ?」
「色んなものが集まる場所よ。人も、品物も、噂も。王都だけを見て国の全部は分からないけど、あそこへ行けば、この国がどれだけ多くのものと繋がっているかは見えると思う」
「それは見てみたい」
「でしょうね」
鈴葉はそう言って笑った。
食事を終えると、それぞれの部屋へ戻った。アレンは寝台へ横になってからも、七柱の神獣、母の物語、金属の羽根、削り取られた八つ目らしい場所について考えていた。旅へ出た頃には繋がっていなかったものが、進むほど一つの疑問へ近づいている。答えより問いの方が増えているのに、不思議と引き返したいとは思わなかった。
◇
翌朝、アレンが一階へ下りると、鈴葉はすでに窓際の席に座っていた。目の前には湯気の立つ茶があり、銀色と赤の髪に朝日が差している。
「遅い」
「普通の時間だよ」
「私は待ったもの」
「待ってたの?」
「少しね」
アレンは向かいへ座り、宿の主人が運んできた朝食を受け取った。焼いたパンと卵、それに薄い野菜のスープだった。
「鈴葉は今日どうするの?」
「それを考えてた」
「森に戻る?」
「戻ってもいいけど、急ぐ理由はないわ」
「じゃあ王都?」
「アレンは行くんでしょう?」
「うん。もう近いって聞いたし」
鈴葉は茶を一口飲み、窓の外へ視線を向けた。王都へ続く街道には朝から荷車が通り、旅人たちも宿を出始めている。
「アレン」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「昨日から結構聞かれてる気がするけど」
「嫌ならやめるわよ」
「冗談。何?」
鈴葉は少しだけ考えてから口を開いた。
「七柱全部に会いたいって言ってたわね」
「うん」
「王都へ行ったあとも、そのつもり?」
「もちろん。すぐ会えるとは思ってないけど、旅は続けるつもり」
「どこへ行くか決まってるの?」
「王都に着いてから考える。今までより大きい場所なら、次に行く場所の情報も集められると思うし」
「随分行き当たりばったりね」
「最初からそんな感じだよ」
「知ってる」
鈴葉は呆れたように息を吐いたが、目元には笑みが残っている。
「じゃあ、しばらく一緒に行こうかしら」
アレンの手が止まった。
「え?」
「聞こえなかった?」
「聞こえたけど……王都まで?」
「それも含めて、その先も少し」
「森は?」
「私が一日離れたら全部枯れるような場所じゃないわ。森には森の命があるもの」
「でも、守ってたよね」
「守ることと、ずっと同じ場所に縛られることは違うでしょう」
鈴葉は当たり前のように答えた。その言葉を聞いて、アレンは森の境目から一歩も出てこなかった九尾の姿を思い出す。あのときは森そのものに属する存在のように見えたが、それは人の姿で旅ができないという意味ではなかった。
「どうして一緒に?」
「嫌なの?」
「嫌じゃない。ただ、理由が気になった」
「知りたいことがあるから」
「僕について?」
「少し」
「母さんのこと?」
鈴葉は答える前に一拍置いた。
「それも少し」
「やっぱり何か知ってるんじゃない?」
「だから、それは今は話さない」
「またそれだ」
「それに、アレンが本当にほかの神獣を探すつもりなら、見ていて退屈はしなさそう」
「僕、見世物?」
「観察対象」
「もっと悪くなってない?」
鈴葉は声を立てずに笑った。
「冗談よ。半分は」
「半分残ってる」
アレンも笑った。カイと別れてから、また一人で王都へ向かうものだと思っていたため、鈴葉が同行すると決めたことは素直に嬉しかった。
「本当に一緒に来る?」
「何度確認するの?」
「だって、鈴葉がその先まで一緒に来るなんて思ってなかった」
「なら、一つだけ覚えておいて」
鈴葉は声を潜め、黒い瞳の奥の赤を僅かに細めた。
「人の姿でいるときは、ただの鈴葉でいいの。わざわざ正体を広める必要はないでしょう」
「分かった。気をつける」
「本当に?」
「そこまで信用ない?」
「昨日、知ったばかりだから」
「それはそうだけど」
鈴葉は満足したように頷き、残っていた茶を飲み干した。
「あと、一つ」
「まだある?」
「一緒に歩くからって、私が全部答えると思わないで」
「そこはもう分かってる」
「勝手に危ない場所へ入ったら止める」
「……分かった」
「今、間があった」
「気のせい」
「それから、人助けをするなとは言わないけど、一人で全部背負わないこと」
昨日までの短い付き合いしかないのに、なぜそこまで見抜かれているのか分からず、アレンは返事に困った。
「そんな顔するってことは当たってるのね」
「鈴葉って、意外と口うるさい?」
「今気づいたの?」
アレンは笑い、残っていた朝食を食べ終えた。
宿代を払い、二人は荷物を整えて外へ出た。鈴葉の荷物は相変わらず小さな袋だけで、アレンにはどう見ても長旅の装備には見えない。
「本当にそれだけで大丈夫?」
「大丈夫」
「寝具は?」
「必要ならどうにかするわ」
「食料は?」
「買えばいいでしょう」
「お金は?」
「持ってる」
「何か、僕より旅慣れてない?」
「生きてきた時間を考えて」
「そう言われると何も言えない」
街道へ出ると、朝の風が二人の間を抜けた。遠くには王都の方向へ続く丘が見え、その先にはまだ外壁も塔も見えない。ただ、道を行く人と荷車の数は昨日より確実に増えている。
アレンは歩き出し、数歩進んだところで隣を見る。鈴葉も自然に同じ速度で歩いていた。
「何?」
「いや」
「変な顔」
「一人じゃなくなったなって思って」
鈴葉は一瞬だけ目を丸くし、それから前へ向き直った。
「嫌になったら置いていくわよ」
「早くない?」
「だから退屈させないでね」
「頑張るところそこなの?」
軽い言葉を交わしながら、二人は王都へ続く街道を進んだ。
旅を始めたとき、隣に誰かがいる未来までは考えていなかった。まして、その相手が母の物語に登場した銀色の九尾だとは想像できるはずもない。それでも今、鈴葉は昔話の中ではなく、同じ朝の風を受けて同じ道を歩いている。互いに知らないことはまだ多いが、少なくとも今日からしばらくは、一人ではなかった。
王都へ伸びる道の上で、アレンと鈴葉は並んで歩き始めた。
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