第三章 第二十五話 消されたもの
旅袋の奥へ入れた手を動かし、アレンは布に包んだ細長いものを取り出した。鈴葉は何を出すのかと見ていたが、布を開いた瞬間、その表情からさっきまでの柔らかな笑みが消えた。
現れたのは、指ほどの長さしかない金属の羽根だった。鈍い金と銀が混じったような色をしており、長い年月を経たせいか、表面には細かな傷と擦れがいくつも残っている。羽根の根元には爪と翼を重ねたような意匠が刻まれていた。
「これ」
アレンが両手の上へ載せると、鈴葉はすぐには触れなかった。黒い瞳の奥にある赤が、金属の羽根をじっと見つめている。
「……どこで手に入れたの?」
「母さんから。旅に出る日に渡されたんだ」
「お母さんが?」
「うん。大事に持っていなさいって。詳しいことはほとんど聞けなかったけど」
鈴葉の視線が一瞬だけアレンへ上がり、すぐ羽根へ戻る。
「見てもいい?」
「もちろん」
許可すると、鈴葉は両手で受け取った。重さを確かめるように掌の上で僅かに角度を変え、表と裏を順番に眺める。爪先で傷をなぞったりはせず、古いものを壊さないよう慎重に扱っていた。
「普通の装飾品じゃない?」
「少なくとも、ただの羽根飾りではないと思うわ」
「分かるの?」
「材質は分からない。でも、作り方が今のものと違う。それに……」
鈴葉は言葉を止めた。羽根の中央へ目を凝らしたものの、木々の隙間から差す午後の光の下では、古い傷以外にはっきりしたものは見えない。
「何?」
「この表面、何か出るでしょう」
アレンは思わず鈴葉の顔を見た。
「どうして分かったの?」
「完全に消えているわけじゃないから。光の角度によって、細い線が残って見える。でも今は読めない」
「月の光なら見える」
その答えに、今度は鈴葉の方が黙った。
「前に、一度だけはっきり見えたんだ。夜に月の光が当たったとき、羽根の表に円みたいな形が出て、その中に七つの印があった」
「七つ」
「うん。それと……一か所だけ、削り取られたみたいな場所があった」
鈴葉の指が止まった。
ほんの僅かな変化だった。それでも、七柱の神獣について話したときより明らかに強い反応だったため、アレンは見逃さなかった。
「鈴葉?」
「そのとき、ほかに何か起きた?」
「文字もあった。裏側に、僕には読めない文字が浮かんだ。それから……声って言っていいのか分からないけど、頭の中に言葉が入ってきた」
「何て?」
鈴葉の声から、からかうような調子が完全に消えていた。
「『――お前は、一つ忘れている』」
森を抜ける風が二人の間を通り過ぎた。葉の音が広がる中で、鈴葉は何も言わない。金属の羽根を握り締めることもなく、ただ掌の上へ置いたまま見つめていた。
「言い間違いじゃない?」
「覚えてる。『一つ忘れている』だった」
「『忘れた』じゃなくて?」
「うん」
鈴葉はしばらく考え込み、やがて静かに息を吐いた。
「その言葉を聞いたあと、何か思い出した?」
「何も。だからずっと意味が分からなかった。僕が忘れたものがあるのかと思ったけど、何を忘れたのかさえ分からない」
「そう」
「鈴葉なら分かる?」
問いかけると、鈴葉はすぐには答えなかった。今までにも秘密を避ける沈黙はあったが、今回は少し違う。知らないから考えているのではなく、知っていることをどこまで口にしていいのか迷っているように見えた。
「その言葉が、アレン個人だけに向けられたものだとは限らないわ」
「どういうこと?」
「今はそれ以上言えない」
「また?」
「また」
鈴葉は申し訳なさそうにするでもなく答えたが、いつもの軽さは戻っていなかった。
「でも、一つだけ確かめたい。この羽根を月の下でもう一度見せて」
そう言って、鈴葉は金属の羽根をアレンへ返した。
「今から?」
「王都へ急いでる?」
「今日中に着けたらいいとは思ってたけど、絶対じゃない」
「なら少し待ちましょう。ここから先にも宿場はあるし、日が落ちてから無理に王都まで歩く必要はないわ」
アレンは少し考えたあと頷いた。母の物語が現実だったと分かった直後に、母から渡された羽根まで神獣と関係している可能性が出てきたのだ。答えを確かめられるなら、数時間くらい足を止めても惜しくはなかった。
二人は林を出て、古い休憩所まで戻った。旅人が何人か通り過ぎたが、日が傾くにつれて人通りは少なくなり、夕暮れには祠の周囲も静かになった。アレンは羽根を布で包み直し、簡単な食事を取りながら、鈴葉へ羽根を渡された日のことを話した。母が旅立ちを止めなかったこと、大事に持つよう言われたこと、それ以上の説明はほとんどなかったこと。鈴葉は途中で口を挟まずに聞いていた。
「七つの物語を知っていて、この羽根も持っていた」
話を聞き終えると、鈴葉が小さく呟いた。
「やっぱり偶然とは思いにくいわね」
「母さんのこと、何か知ってる?」
「今は答えられない」
「知らない、じゃなくて?」
鈴葉はアレンを見ると、僅かに困ったように笑った。
「そういうところだけ鋭いのね」
「やっぱり何か知ってるんだ」
「それも、アレンが自分で確かめることよ」
納得はできなかったが、これ以上聞いても答えないことは分かった。アレンは追及をやめ、膝の上に置いた布包みへ視線を落とした。
やがて太陽が丘の向こうへ沈み、空が濃い青へ変わっていく。雲は少なく、木々の間から細い月が見え始めた。鈴葉は休憩所の屋根の影から出ると、月光が届く石台の上へ羽根を置くようアレンへ言った。
アレンが布を解き、金属の羽根を月の光へ晒す。
最初は何も起きなかった。
しかし数秒後、鈍い金銀の表面に淡い線が滲むように浮かび始めた。一本の線が円を描き、その内側に小さな印が次々と現れる。アレンが以前見たものと同じだった。
「出た」
七つの印が、月明かりの中へ並ぶ。
鈴葉は息を呑んだ。膝をつき、触れないまま顔を近づけて一つずつ確かめていく。
「……間違いない」
「何が?」
「この七つは、神獣を示す印よ」
アレンの胸が強く鳴った。七つの物語が実在するという鈴葉の話だけでも十分だったのに、母から渡された羽根にまで、その七柱を示す印が刻まれていた。
「鈴葉の印もある?」
「ある」
鈴葉は七つのうち一つへ指先を近づけたが、触れはしなかった。
「形は古いけど、私たちを示すものとして使われていた印と同じ系統よ。ほかの六つもそう」
「じゃあ、この羽根は神獣と関係がある」
「その可能性は高いわ。でも、誰が作ったのか、何のためのものかまではこれだけでは分からない」
アレンは円の中へ視線を移した。そして、以前から気になっていた場所を指す。
「ここ」
七つの印が並ぶ円環の一部だけ、表面が荒れていた。自然に欠けたような形ではなく、何度も刃物か硬いものを当てたように細かな傷が集中している。
「前に見たときから、ここだけ変だった」
鈴葉の表情が変わった。
彼女は羽根を手に取らず、月光の角度を変えるために石台の横へ回り込んだ。傷の深さ、向き、周囲の線との繋がりを何度も確認する。長い沈黙のあと、黒い瞳が僅かに細められた。
「これは摩耗じゃない」
「分かるの?」
「周りの古い傷とは違う。ここだけ同じ場所を何度も削ってる。元々あった線を消そうとしてつけた傷よ」
「じゃあ、本当に何かが刻まれてた?」
「ええ」
短い答えだった。
アレンは七つの印を見直し、それから削られた場所を見る。円の配置を意識すると、その空白だけが妙に不自然だった。七つを収めるためだけなら、最初からもっと均等に並べることができたはずなのに、削られた箇所を含めると全体の形が整って見える。
「……八つ目?」
口にした瞬間、鈴葉の視線がアレンへ向いた。
「ここに、もう一つ印があったの?」
鈴葉は答えなかった。
「七柱じゃないの?」
「今、世界で語られているのは七柱よ」
「でも、この羽根には八つ目の場所がある」
「そう見えるわね」
「鈴葉は何があったか知ってる?」
問いかけると、鈴葉は長く黙った。風が銀色の髪を揺らし、その中の赤が月光の下で暗く沈む。やがて彼女は羽根ではなく、森の方角へ目を向けた。
「知っていることと、話せることは同じじゃない」
「それって、知ってるってことだよね」
「そう受け取るなら止めないわ」
「どうして話せないの?」
「私だけの秘密じゃないから」
その声には、それ以上踏み込ませない静かな強さがあった。アレンは答えを求めたかったが、鈴葉が単に意地悪で隠しているわけではないことも分かった。
再び羽根へ視線を落とす。
「じゃあ、これだけ教えて。ここは事故で消えたんじゃないんだよね」
鈴葉は今度は迷わなかった。
「ええ。誰かが、そこにあったものを意図的に消している」
月明かりの下で、七つの印は淡く浮かび続けていた。その隣には、何度も削られ、元の形を失った空白がある。
「誰が?」
「分からない」
「何のために?」
「それも」
「消された印が何を示してたのかは?」
鈴葉は答えなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。七つの神獣について話していたときとは違う。知らないから答えられないのではなく、答えを持ちながら口にしない沈黙だった。
アレンは以前この羽根から受け取った言葉を思い返した。
――お前は、一つ忘れている。
七つの印。そして消されたもう一つの場所。
偶然だとは思えなかった。
「忘れているって……これのことなのかな」
「分からないわ」
鈴葉はそう答えたあと、僅かに間を置いた。
「でも、簡単に捨てていい言葉ではないと思う」
アレンは頷き、月光の中にある羽根を見つめた。七つの物語が真実だと知ったことで、母の昔話に対する疑問は減ると思っていた。
実際には逆だった。
七つが本当に存在するからこそ、その隣から意図的に消されたものが、以前より遥かに大きな意味を持ち始めていた。
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