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セイクリッドボーン  神獣と忘れられた血  作者: 鈴木 明
第三章 『欲望の村と銀の狐』
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第三章 第二十四話 母の物語は真実だった

鈴葉の笑い声が森の静けさへ溶けていっても、アレンはすぐには言葉を続けられなかった。目の前にいる銀髪の女性が、森で何度も見た九尾の狐であり、母が幼い頃から語ってくれた神獣の一柱だと知ったばかりだった。頭の中では、昔話の光景と目の前で起きた変化が重なり合っていた。


「まだ驚いてる?」


「うん。たぶん、しばらくは」


「正直ね」


「だって、子供の頃に聞いてた話の狐が本当にいて、その本人と昨日から普通に話してたんだよ。すぐ慣れる方がおかしいだろ」


「それもそうね」


 鈴葉は倒木に腰掛けたまま、足元の花へ目を落とした。神獣だと明かしたあとも、その仕草は街道で出会ったときと何も変わらず、かえってアレンには不思議だった。


「鈴葉」


「何?」


「さっき、七柱の神獣の一柱って言ったよね」


「言ったわ」


「じゃあ、母さんが話してくれた残りの話も……本当にいるの?」


 鈴葉はすぐには答えなかった。冗談を考えているような顔ではなく、どこまで話すべきかを選んでいるように見える。やがて銀色の髪を耳へ掛け、小さく息を吐いた。


「あなたのお母さんが、どんな話をしたのか聞かせて」


「全部?」


「覚えているところだけでいいわ」


 アレンは幼い頃の記憶を辿った。寝る前や雨の日、母は何度も同じ七つの物語を語ってくれた。言葉は少しずつ違っても、登場する存在だけは変わらなかった。


「炎の中を飛ぶ大きな鳥がいた。空を渡る翼のある獣も。海や大河を泳ぐ、とても大きな蛇。山みたいな身体を持つ石の獣。二頭で一つみたいに語られてた獣もいた。それから銀色の九尾と……最後に、争いを鎮めて、人を結びつける一柱」


 最後まで聞いても、鈴葉は笑わなかった。むしろ途中から表情が静かになり、昔話を聞くときとは違う目でアレンを見ていた。


「お母さんは、それを全部ただの怪物として話した?」


「ううん。力はあるけど、何でもできるわけじゃないって言ってた。怒るし、間違えるし、誰かを好きになることもある。人より長く生きていても、何を選ぶかまで正しいとは限らないって」


 鈴葉の黒い瞳の奥にある赤が、わずかに揺れたように見えた。ほんの一瞬の変化だったが、アレンの言葉のどこかが彼女に引っかかったことだけは分かった。


「ほかには?」


「神様だから願いを叶えてくれるんじゃなくて、それぞれが守ろうとしてるものが違うって。だから、人間にとって都合のいい存在だと思っちゃいけないって言ってた」


「……ずいぶん詳しいお母さんね」


「やっぱり普通の昔話じゃない?」


 鈴葉は一度だけ空を見上げた。木々の隙間から差し込む光が銀色の髪を照らし、その中の赤を薄く浮かび上がらせる。すぐに答えなかったのは、知らないからではなく、言葉を選んでいるからのように見えた。


「神獣を題材にした物語は各地に残っているわ。名前も姿も土地によって少しずつ変わるし、同じ存在でも幸運として語る土地と災厄として語る土地がある。だから、神獣を知る人間がいること自体は不思議じゃない」


「じゃあ、母さんもどこかで昔話を聞いただけかもしれない?」


「それだけならね」


 その一言に、アレンは鈴葉へ視線を戻した。ただの可能性を話していたはずなのに、彼女の言い方には明らかに続きがあった。


「それだけなら?」


「あなたが今話した内容は、普通に広まっている昔話より少し正確すぎるのよ」


「正確?」


「私たちを何でもできる神として扱っていないこと。感情があって、選択を間違えることもあり、それぞれが同じ目的で動いているわけではないと知っていること。そういうところ」


 アレンは言葉を失った。母の話は、子供を寝かせるために作った物語だと思っていた。旅に出てから、ときどき現実と重なる部分があると感じても、それは古い伝承が元になっているからだと考えることもできた。だが、鈴葉が指摘しているのは物語の存在そのものではなく、その中に含まれていた知識の正確さだった。


「じゃあ……七つの話は」


 鈴葉はアレンをまっすぐ見た。軽い笑みは消え、その答えだけは曖昧にしないことが伝わってきた。


「少なくとも、あなたが話した七つには、それぞれ実在する神獣がいるわ」


 その言葉を聞いた瞬間、森の音が急に遠くなったように感じた。鳥や葉の音が聞こえているはずなのに、意識は鈴葉の答えだけへ向いていた。


「七つとも?」


「ええ」


「全部、本当に?」


「何度聞いても答えは変わらないわよ」


 思わず聞き返したアレンに鈴葉は少しだけ笑ったが、アレンは笑えなかった。幼い頃から何度も聞いた物語が、一つずつ現実へ変わっていく。炎の鳥も、空を渡る獣も、水の大蛇も、石の獣も、二頭で語られた存在も、銀色の九尾も、争いを鎮める一柱も、想像だけの存在ではなかった。


「母さんの物語……本当だったんだ」


 口にすると、ようやく実感が追いついてきた。鈴葉は否定せず、むしろその言葉をアレン自身が受け入れるまで待つように、静かにこちらを見ていた。


「正確には、物語の全部がそのまま事実とは限らないわ。長い時間の中で変わった部分もあるでしょうし、あなたのお母さん自身が子供へ話しやすいよう変えたところもあるかもしれない。でも、七つの神獣が存在するという部分は作り話じゃない」


「鈴葉以外の六柱も、今もどこかにいる?」


「それは私から全部答えることじゃないわ」


「どうして?」


「居場所を知られたくない者も、人と関わりたくない者もいる。長く姿を見せていない者もいるし、私が勝手に話すことじゃないわ」


「神獣同士でも、何でも自由ってわけじゃないんだ」


「だから、お母さんの話をちゃんと聞きなさい。何でもできる存在じゃないって教わったんでしょう?」


「そうだった」


 アレンが苦笑すると、鈴葉も僅かに口元を緩めた。神獣について話しているはずなのに、こうして言葉を交わしていると、彼女が遠い昔話の存在だという感覚は少しずつ薄れていった。


「それに、会えたとしても、私みたいに話してくれるとは限らないわよ」


「鈴葉は話してくれた」


「あなたがしつこかったから」


「そんなにしつこかった?」


「少し」


「少しか」


 カイにも似たような言い方をされたことを思い出し、アレンは思わず笑った。鈴葉も理由は分からないまま、つられるように笑う。やがて笑いが収まると、アレンは倒木の向こうに広がる草を見つめた。七つの神獣が本当に存在する。それは、旅を始めた頃のアレンなら夢のような話だったはずだ。それなのに今は、喜びだけでは終われなかった。


「母さんは、どうしてそんなに知ってたんだろう」


 その問いを口にした途端、鈴葉の表情が僅かに静まった。さっきまでなら軽く返していたはずの言葉なのに、今度はすぐに答えが返ってこなかった。


「気になる?」


「うん。鈴葉が言うくらい正確なら、どこで知ったのか気になる。母さん、昔のことをあまり話さなかったし」


「なら、その答えも旅の中で探せばいいんじゃない?」


「鈴葉は知らない?」


 真正面から尋ねると、鈴葉は数秒だけ黙った。黒い瞳の奥の赤がアレンを見つめたまま、答えるべきことと黙っておくべきことを分けているようだった。


「今の私が言えるのは、あなたのお母さんの話を軽く扱わない方がいい、ということだけ」


「それ、知ってる人の言い方に聞こえるけど」


「そう聞こえるなら、そう覚えておけば?」


「またそれだ」


「自分の目と耳で確かめる。昨日教えたでしょう」


 鈴葉はそれ以上答えなかった。からかって誤魔化しているようにも見えたが、完全な冗談ではないことだけは分かった。アレンは旅立つ日に心配そうに荷物を確認し、それでも最後には背中を押してくれた母の姿を思い浮かべる。なぜ神獣について普通の昔話以上のことを知っていたのかという疑問は、一度浮かぶと簡単には消えてくれなかった。


「鈴葉」


「今度は何?」


「ほかの神獣も、人の姿で町にいることがあるの?」


「本人に会ったら聞きなさい」


「やっぱり教えてくれない」


「全部私から聞いたら、せっかく旅してる意味がないじゃない」


 その言葉に、アレンは少しだけ考えたあと頷いた。確かに、答えだけを並べてもらうためにラークホロウを出たわけではない。見たことのない土地へ行き、自ら見て、自ら知るために旅を始めた。


「じゃあ、いつか自分で会う」


「六柱全部に?」


「できるなら」


「欲張りね」


「子供の頃からの夢だから」


 鈴葉は呆れたように息を吐いたが、その表情はどこか楽しそうで、残る六柱との出会いを望むアレンを馬鹿にする様子はなかった。


「なら、その夢が叶うまで簡単に死なないことね」


「最近それ、何人かに言われてる気がする」


「言われるようなことをしてるんじゃない?」


「否定しづらい」


 鈴葉が立ち上がり、衣についた草を軽く払った。アレンも続いて腰を上げる。王都へ向かう街道へ戻るには、来た細道をそのまま辿ればいい。だが歩き出そうとしたところで、アレンはふと旅袋へ目を落とした。母が知っていたのは、七つの物語だけではないのかもしれないという考えが、今になって胸の奥へ浮かんでいた。


 旅立つ日に母から渡されたのは、指ほどの長さの金属の羽根だった。鈍い金銀の表面には古い傷が残り、月明かりの下では七つの印と、その外側に削り取られたような場所が浮かんだ。由来の分からない品として持ち歩いてきたが、七つの物語が神獣へ繋がった今、あの羽根まで無関係だとは思えなかった。


「どうしたの?」


 鈴葉が足を止め、旅袋へ向けられたアレンの視線を追った。先ほどまでの柔らかな表情のまま、何を思い出したのかと問いかけるように首を傾げる。


「母さんから、旅に出るときにもらったものがあるんだ」


「何を?」


 アレンは答える代わりに旅袋へ手を入れた。布の奥を探った指先が、しまっていた冷たい金属の羽根へ触れる。その感触を確かめた瞬間、母から渡されたもう一つの謎が目の前へ戻ってきた。

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